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ララチューンの「和洋中」動画が哲学的対話であるという話

 私は最近,ドラクエウォークにハマっており,外を散歩する機会が多い。周りにある木や草などの自然を眺めながら歩くことが結構楽しい。
 さあ,しかし,いかに風景が好きとは言っても,何度も見ていれば飽きる。なので,最近は「ゆる言語学ラジオ」やその系統チャンネル,またはラランドという芸人がやっているララチューンというチャンネルの動画を聴きながら散歩している。
 前置きはさておき,散歩中に聞いていたとある動画「一生、和洋中どれか食べられないとしたら?」があるのだが,それが哲学的対話すぎると話題になっている(話題になっていない)。

 もしこの動画にご興味がある方は,このnote記事を読む前に見ていただきたいのだが,特にこだわりがない方はこのまま進んで欲しい。
 ただし,多少のネタバレを含むことは断っておきたい。



 さて,この動画は,まず初めに彼らの作家が二人に質問するところから始まる。

「和洋中どれかしか一生食べられないとしたらどれを食べますか?」

 それに対し,ニシダ(男性)はこう答える。

「それ系はやっぱあれでも,結局その,出す側が設定詰めきれてないからね基本的に」(ニシダ)
「(笑笑)ああ,和洋中がなんなのか」(サーヤ(女性))
「そう,和洋中がなんなのか」(ニシダ)
「まあ,じゃあ俺が和を選んだら,世界中から和以外が消えんのか? 洋食とか,中華とかが世界から消えるパターンの話なのか,その,俺だけ食べれないのか。これどっち?」(ニシダ)

 これに対し,作家はこう答える。

「消えないです別に」


 この後も,「和洋中のどれを選ぶのか」という質問に対し答えることはなく,「和洋中の定義がなんなのか」の話をずるずると続け,「めんどくさいよ!」というツッコミ待ちをするというネタ動画である。
 普通に見れば,いつもの面白いラランドの動画なのだが,これが哲学的に,あるいは言語学的に,非常に面白い。

 というのも,この動画の中でもたくさん考察されているのだが,私たちは「和洋中」が明確に違うものであると認識しているのに,何が「和食」で何が「洋食」で何が「中華料理」なのかについて全くの無知であるようなのだ。この動画は,私たちにそのことについて気づかせているのではないか。いわば,この動画のニシダの発言一つ一つは,ソクラテスの問答法のような,ある種の哲学的対話であると解釈することができる(過言)。


 では,例えば,この動画で出されている秀逸な例として「ナポリタン」がある。これは,和食なのか,洋食なのか?

 ナポリタンはパスタ料理であり,スパゲッティを主な材料として用いる「洋食」のように立ち振る舞っているが,しかしその実は日本人が生み出したなんちゃってパスタであり,本家のイタリアンパスタと比べるとその様相はあまりに異なる。
 この「ナポリタン」を和食とするのか,洋食とするのか。あるいは,これはそのどちらでもないのか。

 一般的な回答としては,ナポリタンは洋食だ,と言えそうである。というのも,ナポリタンに刻まれた遺伝子は明らかに日本的ではなく,遥か遠くの土地,イタリアのもののように感じられる。どちらにせよ,「和食」とは言えない。

 では,天ぷらはどうだろう。天ぷらは今や和食を代表する料理であるが,その元となったのは"temporas(テンポーラ)"である。ポルトガル人によって日本に伝えられたこの「天ぷら」は,果たして和食なのか,洋食なのか。

 先ほどの「ナポリタン」の例から考えた「遺伝子はどこから来たのか」が重要であるのなら,天ぷらの遺伝子は西洋であるのだから,天ぷらは「洋食」である。しかし,今や天ぷらを洋食ととらえる人間は世界には存在しない。私たち日本人は,天ぷらを日本食であると確信し,世界中の人間も,「日本に来たなら天ぷらを食べるべし」と言わんばかりである。

 では,天ぷらとは和洋中,どれにカテゴライズされるのか。
 私はこの答えを持っていない。


 さて,このような問題は実は何千年も前から議論されている。

 例えば『プロタゴラス』(プラトン)では,「正義」「節制」「敬虔」「勇気」「知恵」という5つの徳,──簡単に解釈するのであれば,5つの言葉,概念──について,これらは一体なんなのかを,世界一の知者であるソクラテスと,当時ゴルギアスに並んでとても有名なソフィスト,プロタゴラスが議論するという著作である。
 和食とは何か,和食は存在するのか,ある料理が和食であるか和食でないかを範疇化することは可能なのかについて,ソクラテスとプロタゴラスが語っていてもおかしくはない。

 あえていうが,私はふざけている。しかし,「和食とは」「知恵とは」という二つの議論の類似性は確かに否定できないものとしてある。

 さて,少し時は進んで,現代でもこの議論はされている。
 哲学的な問いでありながら,同時に,言語学的な問いでもあるこの「和洋中」の答えになりうる理論が,実は最近提唱されたのをご存知だろうか。


『範疇論』


 認知言語学という言語学の一分野の重要なトピックとして,カテゴリー化というものがある。
 このカテゴリー化とは,「あらゆるモノや概念,事を分類したり,まとめたりすること」を意味する。このカテゴリー化の歴史は,先ほどの『プロタゴラス』と同じく,ギリシアにまで遡るのだが,プラトンの弟子の一人,アリストテレスの『範疇論』が始まりだと考えられている。

 基本的に,ララチューンの動画内で話されていることは,このアリストテレスの『範疇論』の記述や考え方をもとに考察されていると思われる(思われない)。この『範疇論』的な考え方,あるいはその理論を「古典的カテゴリー理論」と呼ぶ。
 動画内の対話を見ていれば分かる通り,和食とは何か,洋食とは何か,和食と洋食はどこからが異なり,どこまでが同じなのか,こう言った問題についての解決策は,古典的カテゴリー理論は持ち合わせていない。

 そこで,その解決策,つまり,「和食はどこまでが和食で,どこからが洋食なのか」の問題を考える指針として考えられそうな理論が最近発表された。
 最近とは言いつつも,1970年代のことである。

 その名は,「プロトタイプ理論」である。
 プロトタイプとは,「典型」「基本型」「模範」を意味する単語であるが,この理論が画期的であるのは,「和食とは何か」を考えるときに,和食(と思われるもの)を羅列していくことで,和食に対する私たちの認知が可視化できるという点である。
 例えば,「鳥」で考えてみよう。
 カラス,スズメ,タカ,アオサギ,カモ,ニワトリ,ダチョウ,ペンギン。様々な「鳥」がいるが,私たちが想像するのは主にカラスやスズメ,タカなどの「空を飛ぶ鳥」である。しかし,ダチョウやニワトリなどの,飛ぶことのない鳥もいるし,中にはペンギンのような飛ばない,それどころか泳ぐ鳥でさえいる。
 このような場合に,プロトタイプとして呼べるのが「スズメ」「タカ」である。

 和食のプロトタイプといえば,「お米」「味噌汁」「漬物」などだろうか。これらは私たちの認知の中では和食とされている。その周囲には,天ぷらやそば,寿司なども含まれているだろう。
 しかし,おそらく,ナポリタンはそのプロトタイプからは遠く離れている場所に位置していることだろう。つまり,ナポリタンはペンギン的なのである。


締め


 私は至って真剣に,この「和洋中」動画が哲学的に,そして言語学的に非常に面白い対話であると考えている。
 皆さんの中には,「哲学は高尚な学問だ」とか,「学問は私たちの生活から遠い」とか考えている方がいるのかもしれないが,今回の記事はあくまでネタであったとしても,日常の中に学術的に議論されうる問題というのは転がっている,ということをぜひ知ってほしい。

 さて,酷いくらいの完成度のネタ記事を書いてみたのだが,いかがだっただろうか。見切り発車で始めたので,オチが全くないのが気になるのだが,そこはご愛嬌。
 私はこのような,日常に転がっている面白い問題を言語学と哲学の視点から解釈してみるという記事をたびたび書いているので,気になった方はぜひフォローをしてくれると嬉しい。

 また,記事内に書いてあったことを踏まえて動画を視聴してみると,新たな見方を感じられてより面白く感じられると思う。
 ぜひ,視聴してほしい。
 言哲


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