アニメ『巌窟王』感想
アニメ『巌窟王』は、2004年にGONZOによって製作された、アレクサンドル・デュマ・ペールの『モンテ・クリスト伯』を原作とするアニメ作品である。僕は原作となる小説を読んだことはない。
今回、ジェイラボの活動の一環で本作を観たため、感想を書きたいと思う。断じて「批評」ではない。
※以下、全力でネタバレを行いますので、未視聴の方は全話を観てから読むことをお勧めします。
Wikipediaにあらすじがあったため、一部引用しておく。
パリの貴族であるアルベールは退屈な日常に飽き、刺激を求めて、親友のフランツとともに、月面都市・ルナのカーニバルに参加する。そのころ、ルナの社交界では東方宇宙からやって来た謎の紳士、モンテ・クリスト伯爵の話題でもちきりだった。オペラ座でモンテ・クリスト伯爵の姿を見たアルベールはその存在感に圧倒される。やがて、モンテ・クリスト伯爵との交流を深めていったアルベールは、伯爵の妖しい魅力の虜となっていく。
完結済みの1シーズンのアニメ作品として、24話構成というのはかなり長い部類に入ると思う。自分が観たことのあるものだと『STEINS;GATE』『サクラダリセット』があるだろうか。
こうした「長い」アニメ作品を観るときに避けて通れないのは、途中で集中力が切れて「グダグダ感」を覚えることである。それは『巌窟王』も同じで、正直なところ、少なくとも8話目まではモンテ・クリスト伯爵のキャラクターとしての魅力だけが視聴を続けるモチベーションであった。
物語の最初期においては、モンテ・クリスト伯爵とアルベールの出会いの契機となる事件、またアルベールの周囲の人間関係が描かれる。そして伯爵と出会ってしまったことがその人間関係に影を落としていく、具体的には伯爵の「暗躍」によってアルベール、またその友人の親たちが籠絡されていく過程が描かれる。この描写が、言葉を選ばずに言えばかなりしつこく、伯爵の優れた容姿や人付き合いの巧みさ、また強い復讐心を表現するのにこれほど話数を割く必要があるのかと途中までは疑問視していた。『巌窟王』がデュマの『モンテ・クリスト伯』を原作としていること、また『モンテ・クリスト伯』が有名な復讐劇であることを知っていたことから、計算高く妖しい魅力を持つ伯爵がいかに鮮やかに復讐を遂げるのかを見せつけられるのだと思い込んでいた。
『巌窟王』はただの復讐劇ではない。『巌窟王』は、壮大な「赦し」の物語である。
そのことに気づいたのは、作品を終盤まで観てからだった。
「復讐」を主人公の大きな目的とする作品は枚挙に暇がない。有名どころだと、主人公のエレン・イェーガーが母親と故郷を奪った「巨人」に復讐を誓う『進撃の巨人』だろうか。故郷や肉親を宿敵に奪われるという設定は、物語を通した主人公の目的意識を強く表現でき、また主人公の帰る場所がなくなるため「冒険」と「仲間集め」をストーリー展開として肯定できる。そして仇敵への復讐が叶った暁には読者にカタルシスを与えるため、物語の設定として採用しやすいのだ。
だが、『巌窟王』は「復讐」をそのようなストーリー構築のために盲目的に利用してはいない。なんせ、物語が始まった段階ではモンテ・クリスト伯爵の過去は一切描かれていないのだ。これでは伯爵に感情移入することはできない。どうやらアルベールの両親、またアルベールの友人たちの親になんらかの因縁があるのだろうとまでは仄めかされるが、ただそれだけである。このまま復讐が完遂されても、視聴者からすれば何のことやらであろう。
『巌窟王』はただの復讐劇ではない。復讐を完遂することのカタルシスを描きたいのなら、伯爵の凄惨な過去、そこからの奮起を最初に描き、視聴者の共感を誘うべきである。本作ではそうではなく、物語の最初から最後まで、伯爵の宿敵、フェルナン・ド・モルセールの息子・アルベールの視点で描かれる。なのでやはり本作は復讐劇ではないのだが、ではなぜアルベールの視点で描かれるのか。
「信念」と「赦し」、そして逃げないということ
モンテ・クリスト伯爵は25年前、アルベールの母親・メルセデスとの恋路を巡り、フェルナン、ダングラール、ヴィルフォールに無実の罪で告発され、投獄された。死ぬことさえ許されない地獄の苦しみの末、自分を陥れた人間たちに絶望を味わわせることを決意する。伯爵の暗躍の果てに、フェルナンは将軍としての栄光と貴族の地位を失い、アルベールは尊敬する父を失うことになってしまう。伯爵の魔の手はアルベールの婚約者・ユージェニーにも至り、伯爵のけしかけたアンドレア・カヴァルカンティ侯爵によって婚約を破談にもされてしまう。
「復讐劇」としての主人公は、モンテ・クリスト伯爵ではなくむしろアルベールと言うべきである。事実、アルベールは父を失った後にやっと伯爵の本性に気づき、彼の下に赴くと決闘を申し込む。伯爵に「復讐」するために。アルベールの親友・フランツが一計を講じ、決闘を肩代わりしたことで直接の対決は行われなかったものの、アルベールは明確に復讐心を持っていた。
伯爵とアルベールはともに復讐心を抱くことになる人物であるが、その本質は全く異なるものである。
伯爵は地獄の苦しみの果てに、揺るぎない目的意識を持つことになった。それはもはや「信念」というべきで、蝕まれる自身の人間性やエデの願い、最後には自分の目前に迫る死にも構うことなく、復讐を遂げることを諦めはしなかった。
「偶然などなく、すべては必然である」とは、あらゆる偶然を排除してでも目的を達成するという伯爵の強い思いが現れ出た一言である。牢獄での地獄の苦しみの末、全ての真実を知った上でそれを受け入れ、しかし復讐を成し遂げる。これが伯爵の持つ復讐心である。
一方で、アルベールの復讐心は、真実から目を背け、ただただ憎しみに身を預けた「無謀」のものであった。伯爵が自身を騙し、父や友人を陥れたという自分目線での表面的な行動に憤り、彼を亡き者にしようと決闘を申し込んだ。フランツの自己犠牲はアルベールに「もう逃げない」ことを決意させるが、「逃げない」とは、真実、つまり宿敵たる伯爵の本質から逃げないという意味である。セーヌ川にかかる橋で伯爵の過去を聞き、父の真実の姿を知る。ここでやっと、伯爵とアルベールは同じ地平に立ったのである。
しかし、アルベールは伯爵と同じ動機を持ちはしなかった。彼は、すべてを知ってなお、伯爵を「赦す」ことを選んだのである。ここに、本作の最大のテーマを見る。
「赦し」とは、自分中心の世界観で到達できる領域ではない。他者の全てを知ろうとし、受け入れようとすることによってのみ到達できるのだ。
本作がアルベール視点で描かれたのは、伯爵とアルベールの違いを表現するためである。
伯爵は全てを知ってなお、復讐を遂げることを選んだ。そして、アルベールは赦すことを選んだ。どちらも尊いものではあるが、しかし復讐とは目的に手段を埋没させる行いである。伯爵は身体と心を巌窟王に捧げたが、これは比喩ではなく、目的達成を自身にとって至上のものとするためには、人間性と身体性を削り取らなければならないということなのだ。
本作『巌窟王』が、アニメ作品を観ることから遠ざかっていた僕の血肉になり、人間性の一部になったことは間違いない。