書評#7-③ 芸術・コンテンツを鑑賞すること
本記事は、ジェイラボの活動の一環として、私が過去2回に渡って書評を執筆した『短歌のガチャポン』(穂村弘)とNaokimenさんが書評を執筆した『音楽の哲学入門』(セオドア・グレイシック著)の2冊を下敷きに「芸術・コンテンツの鑑賞」を論じるものである。
この2冊の書籍に関して書かれたメンバーの記事を貼っておく。
(リンクを貼る予定です)
さて、芸術・コンテンツの鑑賞を語るためには、当然ながらそもそも芸術・コンテンツが何なのかを定義しておく必要がある。
前々回記事では芸術を簡単に「美学の表現」と定義したが、ここではもう少しこだわりたい。
「芸術」と呼ばれるものをいくつか挙げると、例えば小説・詩歌など文芸、絵画や彫刻・陶芸など美術、音楽、演劇、映画などである。芸術とは何かを考えるためにはこれらの本質を捉えなければならないので非常に難しい。しかしどうあっても、まずはこれらが「美学の表現」であることは間違いないように思われる。
学問や実務・ビジネスとは根本的に異なり、これら芸術的営みの中における「良さ」の基準は(通常の意味での)論理や倫理ではない。陶芸家が壺を作っては壊すのは、その壺が倫理に悖るからでも「正しくない」からでもなく、美しくないから、つまり作者の美的感覚に満足しないからであろう。ここで美的感覚≒美学を「主観で閉じた価値基準」と定義することにする。論理や倫理はどう切り出しても客観の要素を含む。
これに加えて、芸術の本質的要素には「表現『スタイル』の追求」があると思う。このスタイル≒型には広義のものと狭義のものがあって、広義にはそもそも芸術手法それ自体が型に縛られた行いである。美しいと思う風景があったとして、それを油絵にするのか、俳句にするのか、楽譜にするのか、それを選ぶことが表現スタイルの追求の第一ステップである。狭義のそれは、例えば最初のステップで絵画を選んだとして、水彩画をやるのか油彩画をやるのか、さらにその中で写実的にやるのか抽象的にやるのかなど、広義の型の中で(美学に基づき)より「良い」作品を生み出すための型である。芸術とは「作品そのもの」ではない。『モナ・リザ』や『リア王』、『運命』それ自体ではなく、それらを生み出す「手法」たちが芸術なのだといまの私は考えている。
このように定めてみると、芸術特有の、時代の中で「流行り」が何度も塗り替えられていくという特質を上手く言い表せられる気がする。絵画においてロマン派から写実主義、印象派、キュビスムに至ったような、芸術の中における「流行り」の移り変わりとは、つまり表現技法の移り変わりである。芸術を単なる美学の表出と考えると、どうしても思想家としての側面が押し出されてしまう気がするが、手法そのものという一面を重視すると、それを生み出す芸術家とはつまり「職人」であるという側面も見えてくる。
話が長くなってしまったが、次は「コンテンツ」の定義に移りたいと思う。現代においてコンテンツと呼ばれるのはほとんどが「動画」コンテンツであろう。特にYouTubeにアップロードされた動画群がそのように呼称されているように思われる。これらは芸術とは打って変わって、「客観」の要素を多分に含む。YouTubeを支配するのは「視聴者に効率よく広告を見せる」アルゴリズムであるから、そこに投稿されるコンテンツは再生回数を増やしうるものだけが肯定される。コンテンツは明確かつ強烈に他者の目を意識して作られたものである。そういった意味で、鑑賞の対象となるコンテンツとは、視聴者の興味を引きやすい「エンタメ」を題材にしたものになるだろう。
このように芸術とコンテンツを定義すると、それらの「鑑賞」が全く異なるものであるということが見えてくる。
何度も書くように、芸術とは徹頭徹尾「主観」の表現である。自分の思う「美しい」を特定のスタイルに乗せて描き表す。それを鑑賞するということには、作者自身との対話という一面が含まれる。
コンテンツは、最初から視聴者のために作られたものである。それを鑑賞するとは、現実からは完全に切り離された「ストーリー」を楽しむということである。
私が何かを鑑賞するときには、自身の感性を揺さぶられるものであればなんでもいいと思いつつ、どうしても作者の魂が感じられるもの、つまりそれが芸術であってほしいと心のどこかで願ってしまう。