くりこみ群をくりこみ半群と呼ばない心
人は正義に強い快感を覚えるので、自分が安全な箇所にいて無知(だと思っている)他人を貶めるのはよくある話です。今日は、「くりこみ群は本当は半群だ」(なので、昔の人はなんと愚かであったのか?)という主張を考えてみたいと思います。なぜ、私たちは、くりこみ群を半群ではなくて「群」と言うのか、その心を解説します。
まず、くりこみ群が半群であるという主張はまったくその通りです。くりこみ変換は物理的自由度をスケール変換に伴って粗視化していくことなので、それに伴って情報は失われる「はず」で、粗視化することはいつでも可能であるが、逆に粗視化する前の理論を復元することは一意にできない。そのため、くりこみ変換は逆元が(一般には)存在しないので群ではなく、半群であるということです。これは正しいと思いますが、一言だけ付け加えておくと、情報が失われる「はず」の箇所は2次元の連続場理論では、ザモロジコフの定理と呼ばれるもので担保されますが、より一般にはすぐに示せるようなものではありません(4次元でも同じような「定理」がありますが、これは21世紀になって物理のレベルでの証明が提案されました)。
さて、くりこみ変換を群と呼び、半群と呼ばない理由はその素粒子理論における使われ方にあります。素粒子理論というのは、実験で測られている情報からよりミクロな構造を探る学問です。ここでは、くりこみ変換は、現在知っている低エネルギーの情報を再現するようなミクロな構造を予想するのに使われます。つまり、粗視化の逆を行うわけです。もちろん、くりこみ変換の逆は一意に定まらないので何らかの仮定を置きます。例えば、新しい粒子がエネルギーをあげても現れないなどです。くりこみ群の専門用語で言えば、IR irrelevant な演算子が生成されないという仮定をおけば、(いわゆるくりこみ可能な理論なら)くりこみ変換は(近似的に)逆が存在し、ミクロな構造を予言できるわけです。
つまり、素粒子物理学者はくりこみ変換が群として振る舞う状況が欲しいのです。その願いがくりこみ変換を「群」と呼ばせるわけです。大統一理論でくりこみ「群」を使ってゲージ結合定数が一つになっているグラフを見たことがある方も多いでしょう。これもくりこみ変換が「群」であるという仮定で作ったグラフです。くりこみ変換の逆元の選び方を変えて超対称性粒子がくりこみ変換の逆元に寄与する場合は、もっと大統一がうまくいくなどの議論を見たことがある人もいるでしょう。これも、逆元の存在は一意でないのを知りつつも、自分が置いた仮定(例えば超対称性)のもとで逆元がある「群」だと思って予言をしているわけです。(もちろん半群にこだわりたければ、ミクロでこれこれの自由度を持って大統一された理論があって、それを粗視化していったくりこみ半群のグラフである、と言えばよいのですが、低エネルギー領域から一歩一歩、逆元を積分していったほうが地に足がついた気がしませんか?)
ランダウが、量子電気力学がそれだけでは内部矛盾をしていると発見したのも、くりこみ「群」の考え方に近いものです。現在観測している(くりこまれた)電荷の結合定数をインプットにくりこみ群(半群ではない!)を使ってミクロな理論の電荷の結合定数を予言してみる。そうすると、ミクロの理論のユニタリ性が壊れてしまう、と推論したわけです。もちろん、途中のエネルギースケールで何か起こっていて、それが大統一理論か量子重力理論の効果かわかりませんが、その効果で理論の破綻は回避されていると私たちは信じているわけです。これはくりこみ変換は群ではないから途中で逆元の取り方を違うものにしようというもので、くりこみ変換が「群」でないからできるわけです。素粒子物理学者もくりこみ変換は群でないことはもちろん知っていて、それでもなお、「群」と呼ぶのは、私には、大を見て小を予言する素粒子理論のレーゾンデートルを尊んでいるからであると思えます。
物性理論では、もっぱらミクロな基礎理論、例えば電子系のシュレーディンガー方程式をくりこんで有効理論を作ると言う使い方をして、逆にマクロな理論からミクロな理論を予言する使い方はめったにないので、くりこみ変換は半群であると言う数学的に正しい主張がしっくりくるのでしょう。数学的に正しい言葉遣いが良いというのもそれも正しいのでしょう。それでもなお、私はくりこみ群は群でないからケシカランと言う主張を聞くと、素粒子の根源を追い求めた物理学者の夢が踏みにじられた気がして、とても悲しく思うのです。