短歌の冬 10首連作部門 田中翠香選
はじめに
おはようございます。こんにちは。こんばんは。田中翠香です。今回の企画の選者を務めました。どうぞよろしく。
多数のご応募を頂きましたが、選出には非常に悩みました。悩んだ結果がこちらです。同じくらいの数の応募作を悩んだ末に選外としましたので、次はあなたの作品が選ばれるかもしれません。気がむいたら、また応募してください。またご縁がありますように。
佳作
車椅子の風景
(桜井弓月)
多様なる人の世なれば多様なる歩き方ありタイヤの足跡
自由とは善意の人に階段を運ばれるより一つのスロープ
狭い歩道、歪んだ地面、石畳、用を成さない急なスロープ
スロープの入口塞ぐ自転車よ置いてやろうか檸檬をひとつ
届かない横断歩道の押しボタン押して去る人、今日のヒーロー
車椅子で良かったことは特にない、推しが覚えてくれる以外は
爆音を浴びて拳を突き上げれば立ち上がれそうなライブ会場
介助請う我を見れども我でなく連れに応える駅員もいて
我先とエレベーターへ駆けて行く健脚の二足歩行者たち
「おもいやりエレベーター」に車椅子用ボタンなくて許される国
よくできた社会詠。という言葉では何の評にもなっていないだろう。作者が車椅子ユーザーかはわからないが、ふだん車椅子からは縁遠い私のような人間にとっては、まさに読んだ瞬間から世界の見え方が変わる連作だ。
一首目がとにかくいい。言われたらその通りだ。だが、言われる前にそのことを意識した瞬間が、いままでどれくらいあっただろうか。歩き方は多様だ。そして歩き方とは単なる二足歩行だけではない。車椅子もそうなのだと、意識の外側にある部分を鋭く提示する。三首目の檸檬が鮮烈だ。梶井基次郎がベースにあるのだろうが、人間はみな健常者ということが前提で構築されたこの社会へ強烈な怒りを提示している。六首目は推し活だろうか。主体の率直な感想であろう。認知を得られたささやかな喜びと、日常の苦しさから離脱したような晴れやかな一瞬だ。
車椅子ユーザーだが日常は様々な人に助けられているから大丈夫、という綺麗事は描かれていない。車椅子を日常的に用いる一人の人間の心の揺れと、その個人としての社会との葛藤が、複数の景を切り取りつつ確実に読者に迫ってくる。
全体を通してこの社会における物理的な生きにくさと、それに起因する精神的な生きにくさを率直に、そして確かな血肉をもって描いた素晴らしい作品だった。
佳作
うたうコンビニバイト
(宇井モナミ)
午前二時深夜の謎のテンションでやたらイケボで接客してる
温めはどうされますか袋とかいりますか今日は良い日でしたか
揃ったら消えてなくなれ品出しのスナック菓子がもう入らない
この国で数字で呼ばれたことのない人などいないマルボロを取る
店内に客は一人もいないのに駐車場には二台の車
コンビニの怪人だよねガラス越し補充していて瞳が合えば
「おでん君」とあだ名をつけている客に「プリン箸」と呼ばれているらしい
今日もまた爆発させた弁当のソース袋も客の怒りも
道徳が効率に負けゴミ袋に投げ入れている廃棄弁当
一回り小さくなった肉まんを君と分かちて食む夜勤明け
意外と職場詠の応募が少なかったかな?という気がしたけれど、その中でも抜群の冴えを見せたのがこの連作。
一番よかったのは四首目。役所の待ち合いとか、レストランの整理券の番号とかで色々と場面は想像できそうだ。しかし呼ばれたのはマルボロ。そのコンビニで、マルボロには何番の番号が割り振られていたかはわからないけれど、マルボロというタバコの小さな箱と、人間が全く同じ存在のように提示されていることに驚く。そしてその眼のたしかさにも驚く。
次の歌も状況の出し方が巧みだ。おそらく車でしか行けない田舎のコンビニなのだろう。この二台の車は、その時間のシフトに入っているふたりの店員の車として読んだ。このコンビニは、田んぼの中の灯台のような存在なのかもしれない。
七首目。プリン箸というあだ名がいい。プリンだけ買った客に、「お箸はおつけしますか」ときいたのだろう。主体と客の、同じレベルの者同士の争いがほほえましい。
最後の歌、夜勤明けにひと息つく安らぎと安堵感をしっかりと切り取るが、一回り小さくなった、という視点の確かな鋭さが印象的だ。見事な職場詠に仕上がっている。
佳作
真冬日
(未知)
真冬日と言うときやわく吐く息がとたんに白く感じる朝だ
人生にエアバッグがあるならばわたしがなるよ駆けておいでよ
犬顔の君が大きな舌を出す冬を丸ごと飲み込むように
この雪は幼いゆき、と言いながらぎゅむと鳴らして印をつける
滑らないための小石が邪魔をしてうまく君までたどり着けない
たくさんの人が歩いた足跡が続いて道はこうしてできる
両耳が真っ赤であとは真っ白で守りたいからひとまず抱くね
あたたかい春は来るからあたたかい春のつもりで両手をひらく
掴めないけれど平気よただ雪はそこにあるだけ君もわたしも
まだそれは見えないけれど重なったとこから春は香りはじめる
まさにタイトル通り、真冬日の雪景色を描いた連作だ。題材としてはきわめてシンプルである。しかし、そこに独特のひねりが加えられている部分を見過ごしてはならない。
パッと見た感じ相聞のように見える。しかし、よくよく読めばこれは主体とペットの犬との関係性を描いたものであることがわかる。そこにこの作品の独自性がある。
おそらくそれは、飼い犬に対する人間よりも強く太い絆だ。飼い犬の姿をダイレクトに描写した三首目。雪やこんこんの歌ではないが、雪に喜ぶ犬のダイレクトな描き方がいい。四首目。幼いゆき、とは降ったばかりの柔らかい新雪のことであろうか。この表現は斬新だ。足跡を雪の上につける、一瞬の光景が的確だ。
八首目も面白い。飼い犬のために自分自身が春になるという発想と、そこから滲む覚悟。自分がペットのためにどれだけ懸けることができるか。その強靭な決意が感じられる歌だ。十首目も美しい。飼い犬の生と自らの生を重ね合わせ、そこから春が生まれるという発想。そこに希望がある。
全編に漂う純白さと、雪の向こうにある春の日差しのような期待。暖かな生の輝きを見た。
佳作
うつくしい前夜
(浅黄かな恵)
ぬぎすてたジャージのあとはシトラスの香りをまとってみな眠り姫
「うちゅうからきたよ」とうたう木もれ日に指をかざした「おはよう」の意味
さけられているのはあの子と思ってた通路側でも夕日まぶしい
ねむれない夜はまぶたの岸辺からオリオンゆきの船に乗りこむ
卒業式 わたしのはじまるうつくしい前夜にめそめそ泣いたりするの?
プリーツのギザギザ指にたぐり寄せ一段飛ばしに駅の青空
カプチーノ泡がカップにひからびて砂漠になってもやまぬおしゃべり
「スマホには用がないもの」引き出しに群れですねてるご当地キティ
何かにはなれているとは思うけど、名づけはいらないよ「今、東京」
理科室のしゃれこうべだって老いたろう連絡先はひとつずつ消す
このタイトルの「前夜」とはいつなのか。読み進めると、その答えはわかる。高校の卒業前夜だ。
一首目は体育の後の光景として読んだ。体育の後でシトラスの香りがするスプレーで消臭し、その後の授業は疲れきって眠りにつく。クタクタな高校生活のひとコマだが、それを眠り姫と詠んだのがうまい。三首目。これは学校生活の中での苦い瞬間だ。
これが伏線となって、五首目の「泣かない」という選択をする主体の凛々しさにつながる。おそらく主体にとって学校生活とは、楽しさよりも苦しさがはるかに勝るものだったのだろう。
そして主体は東京に出る。しかし、東京は夢見ていたような素晴らしいだけの場所ではなかった。東京には東京の現実があったのだ。七首目の、カプチーノの表面を砂漠に例えた比喩が新鮮だ。おしゃべりをずっとできる友達を得た。しかし九首目のように、まだ自分は何者なのかという部分で、まだまだ不確かな事もあったりする。しかし故郷に帰るのではなく、東京でこれからも生きようとする主体の姿が力強い。
十首目。これは名歌だった。しゃれこうべは故郷と高校生活の象徴だろう。主体は静かに過去を消し、新たな人間に生まれ変わろうとしている。さみしさと孤独を強く感じさせる、しかしまっすぐな生き方が突き刺さる作品だった。
佳作秀歌
球根を植える
(ZENMI)
春ね。とピンクのストールを巻く母デイサービスの迎えを待ちて
あまなつを剥いてくれた母の手の皺ひとつひとつに滲み入る夏
ご飯くらいゆっくり食べなと言った母の箸は手つかずのままで
今年の出来を聞く母にかち割り氷を入れたカリン酒の画像
かぎ針の編み目は丁寧に数える母背中は緩やかな丘
ビニール傘 流れる雨粒の速度母は私を忘れていく
名を呼ばれた母の返事で病院はにわか卒業式典めく
医師からの経過を聞いている時の母は半分小さくなりぬ
いつもなら気づかなかった母の手の血管が鮮やかであること
来年もまた会いたいと母からの宿題として球根植える
端正さ、という点ではずば抜けていた連作。母と娘の関係性が主軸となっている作品として読んだ。トリッキーさや技法が先走ることなく、日々を丁寧に生きるふたりの姿が美しく切り取られている。
一首目、デイサービスということは高齢なのだと思われる。しかしピンクのストールというアイテムによって、年齢にふさわしいかではなく自分が何を身につけたいのかという価値基準によって動く、気品溢れる人物像が浮かんでくる。二首目は滲み入る夏という表現の詩的さがよい。やっていることは果実を剥いているだけなのだが、表現技法がきわめて細やかだ。
こうして前半は母との日常生活が主体の緻密な視点によって綴られるのだが、後半に入ってトーンが大きく変化する。母の病についてが主題となるのだ。六首目、おそらく認知面で問題が出てきたのだろう。この速度をめぐる比喩が素晴らしく、ひやりとした緊張感を与える。七~九首目は病院の景だが、そこは主体よりも母の苦しみへの想いが中心になっている。それがかえって、主体の秘めた思いを滲ませる。
最後の歌でタイトルを回収する構成も巧み。緻密に構成された、しかし細やかな感情溢れる作品だ。
佳作秀歌
恐れない
(nes)
頭痛薬買い込みながら夜の水がつめたいことを希望と思う
沈黙の正しさ、いつか居なくなるVTuberの冬用衣装
ふらふらと高度を上げてゆく月をみながら君を迎える準備
冷えた君にホットコーヒーを手渡して僕はわずかに犯人になる
ミルクレープを裂く聖夜 恐れないことがときにはひつようらしい
遠いままサイレンが通りすぎてゆくしずかに君はそれを聴いてる
ショートショートの頁をめくる音だけが聞こえるせかい 正夢ではない
干渉は針 ちくちくと僕たちの髪が僕たち自身に触れて
あまりにも明るい声の配信をふたりで寝ぼけながら眺めた
無実とは言い切れなくて、でも道は在るから歩くコンビニまでを
今回の応募作に相聞歌は多かったが、これは抜群の出来であった。
現実世界と、現実世界と密着した確かな実感のあるバーチャルな世界。そこで生まれる恋に強く引きつけられる。一首目。頭痛持ちなのか。冷たい水を浴びる鮮烈な一瞬に、その痛みを忘れる事ができるという点にリアリティがある。二首目はVTuberの歌だが、それは永続するものではなくいつか終わりが来ると自覚している点が切ない。そしてその感覚は、主体そのものにも向けられているのではないだろうか。
三首目もよく読んだら怖い歌だ。パッと見ただけでは、単なる月の様子の描写に過ぎない。しかし、家でずっと月が高度を上げてゆくのを見ているのだ。直接的には描かれていないが、主体は月を見ながらあまり動けないほど苦しいのではないか。
この苦しい世界に必死で耐えている。それが初読の感想だった。だからこそ恋人とともに、この世界の確かな部分を共有する歌が心に残る。七首目は恋人がショートショートの本をめくる音だと解釈した。バーチャルではないその音は、間違いなくこの世界の確かな部分なのだ。九首目はもう少しわかりやすい。恋人と配信という体験を共有する。オーソドックスだからこそ、印象的だ。
ラスト十首目。鬱屈とした感情が精算された訳ではない。世界は昨日と同じ世界だ。しかしそれでも歩き始めた主体の、その一歩一歩が力強い。
特選
浮かべる暮らし
(マーチ)
がらがらとうがいのイントネーションがふたりで揃う冬のはじまり
行列のカレーパン二個手に入れて揚げたて食べさせたくて走った
この国はうどんどころかラーメンもカレーと結婚できる国です
鼓笛隊うすく聴こえてアパートの前を通るか賭けてみようよ
ツッコミのつもりでいたらダブルボケ漫才だったふたりの暮らし
花火しかない街だよと言うまるできみしかいないかのように言う
わたしたち阿佐ヶ谷姉妹になれるかな白湯に生姜をそっと浮かべて
ゆっくりと手を振りきみは行っちゃった早口言葉みたいな国へ
派手なシャツ着てたことだけ覚えてて冬の花火のなんて淋しい
見出しだけ見て話すひと やわらかいところの話はまたにしておく
今回の特選歌。作者独自の感性と感覚の確かさがずば抜けており、迷わず一位とした。
一首目からすごい。うがいという行為は短歌の題材としてあまり取り上げられることはないが、その生かしかたがうまい。題材に寄りかかることなく、しかしその題材を生かしてまさに文字通りふたりの生活のリズムと呼吸が合わさっていく過程を描く。
四首目も見事。この鼓笛隊が実在するのかはわからない。しかしその現実からは少しばかり遊離した、だが全く現実離れしているともいえない題材を巧みにとらえ、リアリティとファンタジックな世界観を絶妙に融合して見せた。その一方で、五首目ようなストレートに面白さを際立たせている作品もあり、題材と歌の作り方に隙がない。
だからこそ、八首目からの転調が効いている。早口言葉みたいな国とはどんな国だろう。いずれにせよ、主体の理解をはるかに越えた国であることは間違いなさそうだ。この比喩に、コミュニケーションの明確な断絶がある。十首目はひとりになった主体が、再び現実と向き合っている瞬間だろうか。やわらかいところの話し始めまたにする、というのは、まず固い話から向き合おうとする心のあらわれだろう。恋を失っても、人生は続く。そんな主体の覚悟ある一瞬を見た。