【チェーホフの銃】同性愛者を出すのに「目的」が必要なら、眼鏡キャラを出すのにも「目的」が必要なのか

「物語に目的も無く同性愛者を出すのはおかしい」という主張があります。

チェーホフの銃は、伏線の手法のひとつと解釈されるが、この概念は「ストーリーには無用の要素を盛り込んではいけない」という意味であるとも解釈できる。

チェーホフの銃 - Wikipedia

なるほど、ところで『Dr.スランプ』アラレちゃんメガネ要素って必要でしょうか?
必要ないですよね。だってアラレちゃんの視力が悪くないとストーリーが成立しない訳では無いし、そもそもロボットなんだから視力なんてどうとでもなります。作者の鳥山明自身メガネは消したかったと言っています。

しかしアラレちゃんメガネをかけさせた事は大絶賛されています。

当時メガネをかけた人は肩身が狭い思いをしていました。現在の同性愛者と同じですね。現在では「同性愛差別は良くない」と語られるようになりましたが、「自分は同性愛者である」と公言したら多くの場合肩身が狭い思いをするでしょう。当時のメガネっ子が「巨泉」とあだ名を付けられるなどしたようにイジメを受ける可能性も高いでしょう。

鳥山明は「眼鏡に対する偏見をなくそう」と思っていた訳ではありません。しかし「目的」も無く眼鏡をかけたキャラを出した事で眼鏡に対する偏見を払拭ファッションの一つにまでしました。
でも、冒頭のチェーホフの銃の考えから行けば、目的もなくアラレちゃんに眼鏡をかけさせるのは読者に無用な混乱と推察を与える要素であり批判点となってもおかしくありません。何せ「かわいい」はずのヒロインにブサイクの象徴とも言うべきアイテムを身に付けさせてるのですから。

現在でもヒロインを黒人にすると批判されたりしますが、当時メガネをかけさせるのは似たような行為だったでしょう。

それなのに、同性愛者を出すのには「物語上の必要性」を要求し、メガネっ子を出すのには「物語上の必要性」を要求しない人々は何故なのでしょう?

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