香山とわたし
私の投稿に通りすがり、宮川香山を知りたいと思った方は、ネットで調べるでしょうし、もしもっと調べたければ活字文献を探すでしょう。
(眞葛ミュージアムサイトにもぜひぜひ!)
宮川香山は帝室技芸員まで上り詰めたお人です。情報は見つかります。
でも、私だからこそお伝えできる宮川香山の情報を考えた時、香山に何故惚れたのかの物語も、情報として面白味があればいいな、と。
そう思いました。
私自身のお話をしようと思います。
私は、未熟児として生まれ、NICUに入りました。
母が毎日母乳を自分で絞って、私のいる病院に通って届けてくれました。
我が子をやるせない気持ちでガラス越しにじっと見つめていた母。
私にひたすら、生きろと願ってくれました。
我が家は父の収入では足りず、生活のため母は身を粉にして働いていました。
3人の子どもを授かってから、父の家族への暴力は増していきました。
私はNICUを出てすぐに、共働き専用の紹介制の保育園に入りました。
あまりに長くいたので、今でも保育園の園歌をそらで歌えます。
保育園での生活は楽しかった。
寧ろ小学生の時より覚えていることが多いです。
私が園で一番好きだった遊びは、
お絵かき・粘土・工作などの創作活動でした。
当時子どもが触れる粘土は、カオリンを使った、可塑性の高い本物の陶粘土に近い、油粘土という不乾性の粘土でした。現在子ども用として普及している紙粘土より、ずっと形成しやすい粘土でした。
私は園で、油粘土のひな人形を作りました。
ひな壇に、小さな女雛男雛を座らせました。
それを見た母が、
「ああ、あなたは芸術家になるのね」
そのようなことを言いました。
実際の厳密な言い回しは覚えていません。
ただ母が、私が芸術家になる事を、少しだけ期待した感想でした。
それは私にとって、預言でした。
というか、そう思いたかったのです。
私は関東で唯一の窯がある高校の美術コースに進学し、
働いて学費を稼ぎながら勉強し、
そののち横浜の美短大を卒業しました。
ありがちなハナシですが、
私は、まったく、夢を叶える事ができませんでした。
芸術家にはなれなかった。
私はこわかったんです。
大人になる自分を想像出来ず、
また、芸術家になる具体的なビジョンもなく、
20歳から闘病がはじまり、何度も死の淵をさまよい、
病気に人生を潰されたことで、
大人になるという現実から逃げきってしまった。
私はケアワーカーの力を借り、
生活保護を受けながら、仕事も得て、
なんとか一人暮らしを始めました。
五帖一間の初めての自分の城で、僅かな荷物を解いていた時、
一枚の絵ハガキが目に留まりました。
それが、宮川香山の、
褐釉蟹貼付台付鉢
だったんです。
小学生の時母が連れて行ってくれた名前も思い出せない美術館で見つけずっと記憶に残っていたあの蟹……
中学生の時に横浜美術館で再会し、今度こそ正体を明らかにしようと絵葉書を買って、あの蟹が重要文化財と知った時の興奮……
眞葛焼に憧れ、全国高校生総合文化祭で、私が一年かけ作った高浮彫の花器が受賞し評価された時の喜び……
回想の波間。香山がくれたこの心地よさに、私は体をしばらく浮かせました。
私が幼い頃からモノ作りとあわせて取り組んできたオリジナルの小説創作。私の中で私の持つ観念が合わさり粘土のように捏ねられ、私は小説を書くために眞葛焼をもっと知りたいと思う様になりました。
関連書籍を読む程に宮川香山への憧れは、「お役に立ちたい」という熱望に変わりました。
眞葛ミュージアムで作品を見すがめ、それでも興奮収まらず、ダメ元で眞葛ミュージアム館長の山本さんに取材を申し込んで、なんと熱意が伝わり宮川香山の子孫である眞さんとお会いできて……本を完成させたらまたお会いさせてくださいとお約束して……
なんだか今も夢の中にいるようです。
実際私は今、夢の中途にいて、その夢をもっと膨らませています。
私は芸術家にはなれませんでした。
身体が弱く産まれ、母が丈夫に育ててくれたのに大病をして。
大人になるのがこわくて。
ほのかに期待してくれた芸術家にもなれなかった。
でも、私は、人生の伴侶を見つけ、新しい夢も見つけました。
もし、母に会えるなら、私がついに生きがいを見つけたと、喜んで欲しい。
私は、私が愛しているものの、歯車の一部になれればいい。
それが私の眞葛焼復興への、変わらないモチベーションです。
褐釉蟹貼付台付鉢の画像は、文化遺産オンラインから引用しました。
作品の詳細も見られます。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/198986