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荒井陶器工房④終 これからのやきもの

🍵眞葛焼を愛してやまないnoteにようこそお越しくださいました🥰🥰

🍵今回は、横浜市南区大岡に工房をかまえる、沖縄の陶工の荒井実さまからお話を伺ったご報告の最終回となります。

🍵今まで、荒井さんのバックボーン、沖縄のやきものの歴史とその技術、沖縄のうちなーんちゅの生活やその生き方をお聞きする事ができました。最後に私がお尋ねした質問が、眞葛焼、果てはやきもの界の今後に触れることであり、荒井さんの陶工としての姿勢が最も表れるお話になります。

今まで荒井さんのお話を読んで下さった方にこそ、最後まで読んで頂きたい回になります。

💡必見‼️‼️しかしちょっと長い💡


沖縄のみならず民窯に薫陶を受けて来た

「鳥取、島根は民芸の現場が多い」

そう語る荒井さんは、民芸運動に強く感化された出西(しゅっさい)窯の「用の美」に、強く共感しているそうです。

出西窯を学ぶ上でとても参考になる記事を見つけたので、一部引用したいと思います。

引用元リンク:出雲観光協会 https://izumo-kankou.gr.jp/1697

昭和22年、出雲市斐川町出西で、多々納弘光、井上寿人、陰山千代吉、多々納良夫、中島空慧の5人が集まりました。当時19〜20歳の彼らは地元の幼馴染で、全員農家の次男三男。物資も食料も不足している戦後間もない時代の中、生活の手段として「何もないここから、手作りで何かできることはないか?」と考えを巡らせました。

あれこれ模索する中で、この土地の粘りの強い土が焼き物に向いているという話を聞いた彼らは陶芸に目をつけます。とはいえ、陶芸に関して知識も経験もないゼロからのスタート、まずは一から窯を作り、当時出雲市にあった工業試験場の技師に指導を頼み、手探り状態でつくり始めました。

最初は古伊万里や京焼のような美術的価値のある陶芸品を見よう見まねで作っていましたが、ある日窯を訪れた松江の工芸家の金津滋から「君たちの仕事には、美しさも志もない」との指摘を受け、民芸運動を起こした柳宗悦の本を渡されます。

方向性に迷いが生じていた彼らはその本に多大な影響を受け、同じく民芸運動を展開していた安来市出身の陶芸家、河井寛次郎に指導を懇請します。窯を訪れた河井寛次郎から指導を受け、ここで5人の価値観は大きく変わります。

さらには河井寛次郎との繋がりから柳宗悦や浜田庄司、鳥取出身の民芸運動家である吉田璋也、イギリスの陶芸家バーナード・リーチらとも交流が生まれました。民芸運動の重鎮たちからその精神を学び、彼らもまた修行に出て技術指導を受けることで確実に実力をつけていき、試行錯誤を繰り返しながら現在の出西窯のスタイルを築き上げていきました。

(引用元:出雲観光協会公式サイト)

(出雲観光協会の民芸運動や「用の美」の説明も大変分かり易いので引用します)

民芸運動とは

それまで顧みられることのなかった「日常的な暮らしの中で使う手仕事の日用品」の中に美しさ(用の美)を見いだし、活用しようという日本独自の運動。
柳宗悦を中心に陶芸家の浜田庄司や河井寛次郎らによって展開され、全国の無名の職人が作る民芸品の中に美を見出し、広く伝えるために全国各地を精力的に回る活動が行われました。民芸という言葉は民衆的工芸品の略であり、彼らによって生み出された言葉です。

(引用元:出雲観光協会公式サイト)

道具としての器

「その器は唇に喜びがあるか?」これは多々納らに指導をした陶芸家の一人、バーナード・リーチの言葉です。例えばコーヒーカップであれば、持ちやすいのか、口にあてた時に喜びがあるか?つまりその器でどれだけコーヒーが美味しく飲めるのかが、「道具」としての価値になるという訳です。

リーチの教えを大切にするように、彼らは道具としての価値にこだわりながら器を作り続けました。たどり着いた美しいフォルムと深みのある色彩は、民芸としてはもちろん、美術的観点からも高い評価を受けるまでになりました。美を追うのではなく、実用を求めた先に美があった、まさに「用の美」という民芸運動の思想の元に生まれた器であると思わせられます。

(引用元:出雲観光協会公式サイト)

荒井さんは、まごうことなく沖縄の民芸の陶工さんです。このような歴史背景があり、民陶や工芸品の役割への考え方は、現代の社会的な風潮にマッチしています。

私はこの民芸の本質に強く惹かれると共に、眞葛焼が時代に逆行しているから絶えてしまったのではないかと、戦々恐々としました。

眞葛焼が絶えた一番の理由は横浜大空襲です。戦後四代香山を名乗った智之助さんは、襲名後に四代永誉香齋さんなど親族縁者の力を借り復興に努めました。その努力は並みならぬものだったはずです。技術習得の努力も、眞葛焼の普及啓発もしていたはずです。それなのに、智之助さんが、最後の香山になりました。憶測で物を言うのは不敬ですが、何故眞葛焼は絶えたのか、今後の普及活動の上で考えなくてはならないことでもあります。

眞葛焼を推し、その普及啓発活動の一環としてこの取材を行いましたが、荒井さんのお話は、眞葛焼はおろかやきものそのものに疑問符を打つお考えへと、展開していくのでした……

ECOにシフトする世の中の端っこにやきものはある


荒井さんは、他の方々(眞葛焼最大の功労者山本博士さま、リサイクル粘土第一人者安諸一朗さま、横浜市陶芸センター所長の立花隆之さま)と同じように、全国各地で年々痩せていく鉱床を案じておられました。沖縄の粘土も枯渇の危機がせまっており、ご自身も、器を作るべきじゃない、という考えが強まりつつあるといいます。

世の中には器が溢れている。器がなぜ作られるのかにフォーカスすべき。多くの人間が作るには、陶業は伸びしろがない」

荒井さんは、『新しく生み出すことの可能性を否定したいわけではない』とことわった上で、

「俺が生まれる前からある、オールドノリタケの皿を、53才の今も大切に使っている。
大事な、気に入ったものを長く使うのが陶の魅力。俺の経験したバブル期は、物に溢れていた。だから外に出て、世界を見て、面白い良いモノを買って帰ろうじゃないかという時代だった。80年代は10代が一着何万円もする服を着ていた。だが、バブルが弾け、困窮した時代がやってきて、『ちょっといいもの』ではなく、衣食住を安定させることが主目的になっていった。衣食住の衣で言えば、ファストファッションの普及で、人々は次第に、ミニマルでコンサバなデザインを追求するようになった。それはつまり、こだわりがなくなったということだ」

『質素でいい』と思う人が増えたのです。

「食器選びもミニマルになりつつある。無難な白い食器は、最近流行りの一品ものに映える。それらは100均で安価に手に入る。俺はウイスキーを嗜むけれど、グラスはバカラでなくても、安くてお洒落なカットグラスは出回っている」

私は横浜のやきもの、とりわけ眞葛焼のために何が出来るか考えた時、普及活動の初期には夢見ていた復興が、いかに実現困難か想像もつきませんでした。ただきっと出来ると、無邪気に夢をみていました。

実際、色々な方からお話を聞き、国内の陶芸そのものが下火であり、この時代にそぐわない生産活動なのだと分かってきました。その事実は痛ましく、なんて切ないのでしょう。

やきものはこれからどうしていけばいいのか

産業流通も、工業というのはECOにシフトしていくし、していかなくてはならない。やきものはカーボンを減らすためにも、世界中で止める必要がある。やきものはECOにシフトする世の中の端っこにある、社会全体のため陶工は自分達の行動をセーブする必要があると荒井さんは言います。

眞葛焼についてのお考えも話してくださいました。

「横浜焼は民芸とはまた違う。民陶、つまり民芸の仕事というのは、同じものを大量に作るというものである。沖縄だと、結婚式(沖縄では100~300人が同席する)の引き出物で、夫婦茶碗やペアカップなどを、それこそ何百も作る必要がある。

横浜焼の色というのは、少数の富裕層に向けた極めて精巧な一点もの。地に足をつけた現代陶芸家が手を出そうとは思いづらい特徴と言える。横浜の南区史を読むと分かるが、眞葛焼の独自の作風は、横浜焼の代名詞として認識されている。しかし、横浜は陶の歴史があまりに浅く、伝統的な工芸品としての格を持つことが出来ない。このことはとても残念なことである。

眞葛のみならず井上良斎にもみられる、横浜焼の価値観というものは、国際都市として貿易の通り道であったことから、国際的な陶の時勢を読めたこと、エキゾチックジャパンとして日本独自の表現を追い求めたことにある。伊藤若冲のような繊細な装飾の貼り付けはその最たるものだろう。

沖縄の成功例として、読谷山(よみたんざん)焼をはじめとする、やちむんの里のような観光地としての役割と陶芸のメッカである壺屋焼の存在だが、横浜は港町でイメージがなく土味も悪いので地の利がない。
横浜焼のバラバラになっている人々が市場になるといい。打開策があるとすればこれだろう」

私の、横浜の陶工の横の繋がりを作りたいという考えはあながち間違ってはいないようです。

ただ、問題は仮に繋ぐまで出来たとして、何をするかです。陶芸そのものの意義が崩れつつある現代で、時代に逆行する作陶というジレンマを抱えた国内の陶作家さんたちを鼓舞して、新しい何かを作ろうという作戦は、なんだか初めから破綻している気がします。

ECOにそぐうであろうリサイクル粘土に飛びついた私は、今は沖縄の『生がけ』という一度焼の方がECOな気がしています。しかし、生がけと、眞葛焼の高浮彫のような装飾は相性が悪く、民陶と横浜焼の思想の乖離も解決する必要があります。

課題だらけです。現在流通している眞葛焼と、美術館に保存されている眞葛焼を愛で守ること以外に、出来ることはないのでしょうか。

今日も廃棄された陶磁器が、一生消えない陶片となって、この世界のどこかに打ち捨てられていきます。

安諸さんの目指す物原を資源にするアイデアが、これからの日本で焦点になることを願うばかりです。

ああ……なんだろう、この無力感。私が眞葛焼と香山翁を愛しているのは変わらないのに。

さいごに

荒井さんは沖縄の陶工さんですが、今は暫定的に横浜にいらっしゃるそうなので、私の発足した『横浜のやきもの愛好会』の会員第一号になって頂きました!!👏パチ👏パチ👏パチ👏

荒井さんには他にも色々お話を頂きましたが、完全に全ての話題を記事に取り上げられないのは残念です。せめて一部でも、断片的にメモしておこうと思います。

「土に触らないと分からない事も多い。気力と体力、どちらが欠けても出来ないことだ」

「本を読まないとダメ。原田マハとかおススメだよ。
陶を語りたいのなら、いや陶にかぎらずとも、歴史を学ぶのはとても重要なことだ」

「足を使わないと分からない事が多い。この情報が必要なんだという強い思いが原動力になる。
その為ならあらゆる図書館に赴く。工業試験場の資料室にも赴く。東京、神田の神保町。ここでは古美術に強い店がいくつかある。ネットで調べてから行くといい」

「普通の陶芸教室などの採用は作品のポートフォリオを提出すればどの程度の技術があるかを汲んでもらえるが、ある陶芸教室ではビル内で試験があり、衆人環視の中で2.5キロの粘土を渡され、10分以内に30㎝の尺皿と30㎝の筒を挽くテストと、2キロの粘土でごはん茶碗5個を挽くテストがあった」

「世の中というものは、歴で人をみる。キャリアで人を見る。でも、俺は、何の大学を出たかなんて、そんなの関係ないと思っている。君が今、土を前にして何ができるか、それが大事じゃないか」

荒井さま、お忙しい中、本当に貴重なお時間をありがとうございました!!

これからのこと、陶芸とどう向き合っていくべきなのか、深く考える機会を頂き、心から感謝します。



参考資料:出雲観光協会 https://izumo-kankou.gr.jp/1697

『荒井陶器工房①~④』の記事は、荒井陶器工房の荒井実さまから全てお目通し頂いた上でご許可を頂き投稿しております。ご協力くださりありがとうございました。

ご紹介いただいた本も記録として貼っておきます。



余談。

旦那さんに荒井さんの取材のお話をしたら、

「人が何か作る時点で、ECOじゃないんだよ、もうすでに」

と言っていて、ああ…確かに…と思いました。

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らむーら塩
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