#3 Reading Habit〜「読むこと」の復権〜【あとづけの留学日記】
海外留学と聞いて、どのような生活を思い浮かべるだろうか?
異文化情緒漂う街並み、多国籍なクラスメイトとの交友、多様なイベント、外国語での会話、寮生活…。そんなところだろうか?
そのどれもが本当だ。留学市場での典型的な言説でもある。もし「留学中に何をしていた?」という問いを、専門的な知識や研究の場、あるいは学位を得ることを目的に大学に留学へ行った人に尋ねたとすれば、ちょっと違った答えが出てくるだろう。
自分はそこまではっきりとした目的を持って留学に行ったかと聞かれれば、曖昧な部分もあるのだが、少なくとも、自分ならこう答える。
「とにかくずっと、何かを読んでいた」
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ほとんどのタイの大学では、1科目当たり週3時間の授業が実施されている。日本の約2倍の時間だ。チェンマイ大学も週3時間で一つの授業なのだが、実際は一回90分の授業を週2回に分けで実施する形をとっている。時間割表上では、月曜日と木曜日、火曜日と金曜日がそれぞれ同じ時間割の組になるようになっている。例えば、自分の履修していたある授業は「火・木 11:00-12:30」に実施され、一つの授業として登録・開講されていた。ちなみに中日の水曜日は、原則3時間連続の授業が他の大学と同様に開講される。
ざっくり90分間のある授業がほぼ3日ごとにあるのだ。そして、3日ごとに1~2本の事前リーティングが課されることになる。リーディングの題材|《material》はジャーナルの論文や学術書の一つの章であることが多かった。タイ語・英語で書かれた論文を週あたり4-6本を読むということが、学期中の生活の中心になった。
リーディング課題の論文は基本的に電子媒体で配布される。学生たちはそれをタブレット上で読む人が多い。自分自身もコロナ禍のオンライン授業のときに購入した型落ちのiPadを使い、愛用しているノートテイキングのためのアプリにダウンロードをし、書き込みをしながら読んでいた。
皮肉にも、大学の授業はつまらなかった。担当教員は、学生に事前に読ませた論文を怪しいフォントやイラストだらけのスライドを投影してなぞるだけ。特段、新しい内容や深い議論は生まれない。学生も学生なのだ。階段教室の中間に座り、前方にまばらに座っている学生たちを見下ろす。紙のノートを使っている人はほとんどいない。カバーに付いているスタンドを使ってiPadを立て、勉強しているふりをしてゲームをしていたりSNSを開いていたりする。中には最前列に座っていながらイヤホンをつけながら授業を受けている学生すらいるのだ。
事前のリーディングに関しても、授業前までに読んできている人がどれくらいいただろうか。自分が一緒に授業を受けていた友人は、学部で一番GPAの高い女の子だった。1年間を通して彼女には数えきれないほど助けられた。その彼女以外には、事前に読んできている人は数えるほどだった。実際に集計したわけではないので、正確なことはわからないのだが…。
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自分が最初にタイ語のリーディングを経験したのは、経済発展論の授業だった。初回の授業では経済発展の理論的な内容を取り扱っている電子書籍がまるまる配布された。その最初の2章分がリーディングの範囲だった。留学先での最初の授業(しかもタイ語!)。当然、不安でいっぱいだった自分はその80ページのタイ語をじっくりと読んで準備をしていた。書いてあることは決して独特なことではない。アダム・スミスの自由主義から始まりマルクス主義、ケインズ経済学に至るまでの学説史が説明されている。社会科学の場合、同じ学問分野であればその中で使われている単語も繰り返しが多い。一つひとつ調べていくうちにわからない単語がない、飽和した状態がやがてやってくる。今振り返れば、その授業での基礎的な語彙や説明の仕方といった、タイ語にまつわる部分はその最初のリーディングから吸収したと言っても過言ではないだろう。
チェンマイに留学に行く前から、自分はオックスフォードへの憧れがあった。オックスフォードで学ぶたい。今すぐには叶わない想いもあり、いつの間にかオックスフォードで教育学博士を取った先生や、オックスフォードで教鞭を取っている先生の著作を読むようになった。
オックスフォードでは、チュートリアルという学び方があるという。学生は指導教員から指示された数冊の文献を読み、そのリーディングをもとに設定されたテーマに関して何枚にも及ぶエッセイを毎週執筆するという。そしてそのエッセイに基づいて毎週教員と議論を交わす。
そんな憧れがあったからこそ、チェンマイでのリーディングも(オックスフォードと比べれば全く大したことはないのだろうけれども)「やってやろう!」と意気込んでいた。
チェンマイで初めて取り組んだタイ語文献のリーディングは、時間をかけてじっくり読んだ分、収穫はとても大きかった。その分、それ以上のことは何も説明しない大学の教員や、そもそもリーディングをこなしてこない学生に対しては苛立ちすら覚えていた。このようにして、留学早々、授業をあてにしなくなった自分は、事前のリーディング課題やその文献に載っていた別の文献、そしてシラバスに参考資料として掲載されていた論文を通して一人黙々と勉強をしていくようになる。いつしかそれが自分の留学中の学び方になっていた。
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自分の留学先に関わらず、日本の大学でも「読む」という営みが薄れつつあるように感じるときがある。授業においてもそうである。最近、後輩と話をしていると「穴埋めのワークシート」が出てくることがある。多くの場合、それらは授業で教員が話した内容やレジュメを見ると回答できるようになっている。一度に多くの学生を評価する必要があり、またコロナ禍のオンライン授業でそもそも学生の出席を把握するにも今までとは異なる方法を使わなくてはいけないという教員の方々の事情もあるのだろう。ただ、知識を吸収するという過程が、その授業時間の中だけで完結するという授業方法に些かの「大学らしくない」印象を覚えた。一方向性という点で大学までの学びが高校までの授業に近くなっているようにすら感じる(この文章で自分が「講義」ではなく「授業」という言葉を一貫して使っているのもこのような理由がある)。
一方で、授業だけでなく学生の方にも同じく「大学生らしくない」印象を抱くことが多い。「自分は文字で書かれたもの(=文章)を読むのがとにかく苦手で、だから(何か新しい情報を得るためには)図とか映像とかじゃないとダメなんです」と平気でこぼしてくる人もいる。一定数、読むことが苦手な学生はいるのだろう。しかし、誰でも容易に入れるわけではない人文社会系の国立大学に在籍していて、「それはないだろう」と思うことがある(皮肉なことに、そのような人ほどGPAが驚くほどに高い)。彼らの場合、おそらく「読めない」ということはありえない。読めないのではなく、抵抗があるのだ。しかし、そのようなある種の思い込みで「読む」ということを嫌厭する。それはあまりにもったいないことのように思える。
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読むということを通して、学びが開かれている側面は必ずあるはずだ。学びにおける「読むこと」の復権。これはまた別の場所でも考えたい話題だ。稿を改めよう。
と、教育社会学では御法度の教育持論を展開してみる。あとづけとして。