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【Essay】〈私〉を消して、〈私〉を表現する〜言語表現、写真、そして研究〜

以前、書いた文章を読み直してみた。数年前に書いた文章で、研究者を志す原点が詰まっている。読み返せば様々なことを思い出して、いつの間にか感傷に浸ってしまった。しかし、これがまたとにかく読みにくい。一人称単数が多いのだ。決して村上春樹の短編について何かを言いたいわけではない。ただ、その文章にはとにかく「私」であるとか「自分」であるとか、一人称を表す言葉が頻出するのだ。こんなにも自意識過剰な人間だったのか。驚きが隠せなかった。

日本語は主語を必要としない言語だ。だいたい、主語や主格といった概念そのものが、明治初期に欧米から輸入したものだと言われている(ただ、あまりにも定着していて、主語を一切用いないで文章を書くのはアマチュアにとって至難の技である)。日本語では、話し手と聞き手――あるいは書き手と読み手――の間で前提を共有できていれば、主語を示さなくても意思疎通――これもcommunicationにあてた訳語であるが――が成立するのだ。言い換えれば、相手との共通理解をいかに構築するかが、日本語でのやり取りには肝要になってくるとも捉えられよう。

主語がなくてもよいということは、〈私〉がなくても文が成立するということである。つまり、〈私〉を消して〈私〉を表現することができる。

では〈私〉を消して〈私〉を表現できる利点は何だろうか。まずは、文章がしつこくならないというところだろう。私、私と捲し立ててくる人との会話が疲れるように、〈私〉が頻発する文章も読んでいてしつこいのだ。もちろん、何かを主張することは価値あることである。また、臨機応変に動くリーダーシップも尊重されるべきものだ。むしろ、それを抑圧しようとする人々や規範には常に疑問を呈していきたい。主張やリーダーシップといった文脈ではなく、あくまで表現においては、できる限り〈私〉を消していくことが読みやすさや受け入れやすさにつながるように感じる。

それ以外にも、〈私〉を消すことで、表現の対象が開かれていくことも忘れてはいけない。主語としての〈私〉は、〈他者〉との対比によって輪郭を帯びている。主語を〈私〉という一人称に限定してしまうことによって、読み手である〈あなた〉=二人称や、〈あなた〉が頭の中に思い浮かべる〈他者〉=三人称が、その表現から締め出されてしまう気がするのだ。物語を読むときであっても、登場人物に感情移入することは楽しみ方の一つである。感情移入したくなくても、気持ちを重ね合わせてしまうことはよくある。物語でなくても同じことが言えるだろう。〈私〉という主体が前面に出されると、聞き手や読み手がそこに入り込みづらくなってしまう。そこで展開される表現はあくまで〈私〉に限定された、極めて独善的なものになってしまいかねない。むしろ、〈私〉を前に出すことを必要最低限に押し留めて、表現に幅を持たせたい。そこに、話し手・書き手、聞き手・読み手との間に双方向のやり取りを生み出す可能性が生み出される。〈私〉という固有名詞を、〈誰か〉という普通名詞に置き換える営み。これこそが〈私〉を消して表現することの醍醐味だ。

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今までは〈私〉を消した表現について、主に言語表現や文章表現を念頭に置いて考えてきた。少し話が抽象的になってしまったようだ。ここからは文章だけではない表現にも引き付けよう。

最初に取り上げたいのは写真だ。趣味としての写真との関わり方も様々だ。カメラを片手に写真を撮ることも趣味になり得るし、誰かによって取られた写真を見ることもその一つだろう。それ以外に、被写体になることも写真の趣味に数えられるらしい。

ポートレートという写真の一分野がある。文字通り、肖像画のように人物を撮影した写真のことを指すという。言ってしまえば、〈私〉を前面に出して撮られた写真だ。そのような写真を好む人ももちろん尊重していないわけではない。しかし、表現の一種としてそのようなポートレートを見たとき、物足りなさを覚える。その写真には〈私〉以外のメッセージが何もないように感じるのだ。まず、その写真を見て被写体が誰なのかがはっきりしすぎている。〈私〉が普通名詞になり得ないのだ。もちろん、ポートレート撮影の中で大切なのは、被写体の良さを引き出すというところにあるのだろう。仕草、表情、姿勢など、被写体の見せる景色における最良の場面を切り取る。いわゆる自己表現の一種だ。しかし自己表現であるだけに、自己顕示であることも否めないようにも感じる。それが悪いとは思わない。自己を示して承認を得ることは、生きていく上では大切だ。ただ何度も繰り返すが、表現としては物足りない印象がある。

個人的には、人が被写体になっていても、それが誰だかわからない写真が好きだ。何かを眺めているその背中を撮影した写真であったり、逆光にシルエットだけが写っているものであったり。写真に写っている人は誰なのだろうか。何を眺めているのだろう。何を考えているのだろう。見るだけで想像が広がっていく。そんな写真に魅せられる。〈私〉を消した写真は、鑑賞する側を深い思慮に引き込んでいく。そんな幅と奥行きを持っている。

研究だって表現だ。最後にこれを考えたい。ただ、ここでいう研究は、どうしても個人的な話に偏ってしまうことをあらかじめ断っておきたい。

なぜタイのエスニック・マイノリティと教育なんて研究したいのか。大学院に入ってから、より質問されるようになった。正直、答えに窮する問いかけだ。だた、一つだけ言えるとすれば、〈私〉から離れた存在を研究することに何らかの意味があるように感じている。東京の片隅で中間層として生まれた人間として、タイの国境に暮らすマイノリティの子どもたちは、とても離れた存在だ。そもそも国境に限らず、タイに住んでいる人のことを研究しようとするだけで、その対象の生活世界は全くもって異なっている。〈私〉とは距離がある存在なのだ。しかし、そのような全く異なった生活世界にいる彼らを、〈私〉の対極である〈あなた〉として直線上に位置付けようとは思わない。たとえ境遇は違っていたとしても、〈あなた〉の葛藤の中に、必ず〈私〉の葛藤がある。その接続を試みたい。その接続自体には関われなくとも、その材料だけは常に残していきたい。そんな密かな信念が、まだ覚束ない大学院生の研究をドライブさせている。

無視できないのは、当事者による研究の存在だ。一般にマイノリティの研究となれば、当事者が行う研究が期待もされるし、注目もされる。文字通りの「当事者研究」とまでは言わなくとも、研究者と同じ境遇にある対象を研究する場合のように、当事者性が明かな立場の研究者によるものも重要だ。実際、学部生の頃はタイ人の指導教員にお世話になったし、チェンマイに留学していたときは自身もモン族である教授に大きな影響を受けた。「当事者」に括られる研究者にマイノリティ研究は支えられているのだろう。

当事者研究の枠組みの内外を問わず、〈私〉について研究することの難しさや限界も感じることがある。まず、研究対象が〈私〉である場合、その研究に広がりはあるのだろうか。(これは、「どうしてタイを研究するのですか」という問いに答え難いものと似ているかもしれない)また、研究者自身の境遇がそのまま収まる社会的集団や研究対象を見出すことも簡単なことではない。無理にそこを模索しようとすることは、視野が狭いとも言えるかもしれない。

マイノリティの研究は、当事者でなければしてはいけないということは全くない。むしろ、全く異なる境遇の人間がフィールドに入り、全く異なる境遇の人間どうしの理解を、そして接続を生み出していく。〈私〉から一番遠く離れた〈あなた〉の生き様を研究する。そこに挑戦し続けたい。

〈私〉を消して、〈私〉を表現する。
その可能性を探し続けたい。

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