【Essay】他人を知る、自分を知る:Borgen -Power & Glory- を見て
大体、自分の興味の中に自分の影はない。そう思うことがある。
自分にとって大切だと感じた人や、心動かされる何かをその中に感じた人がいるとき、僕はその人のことをより深く知りたいと思う。その人が見てきたものを、自分も見てみたい。その人が感じてきたことを、自分も感じたい。いつしかそのような関心が、当の本人を知るという枠を超えて、自分の中で一人歩きする。初めて自分の興味になる。タイにしろ、何にしろ、自分の関心や自分の世界はそうやって築かれて来たように感じるのだ。
そして、今はコペンハーゲンがそうなりつつある。
Borgen: Power and Glory
最近、『コペンハーゲン』というドラマシリーズを見た。4シーズンに渡るデンマークの政治ドラマだ。デンマークで初めて女性首相となったビアギッテ・ニュボーを中心に、タイトルにもなっている “Borgen” –日本でいう霞ヶ関での政治家やジャーナリストの物語が展開されている。
シーズン1・2は、「女性に首相が務まるのか?」というテーマのもと、ニュボーが政治の駆け引きに巻き込まれながらも、首相として政務に奮闘する様子が描かれている。続くシーズン3では、政治から離れていたニュボーが新しい政党を立ち上げ、信念のために政治の世界に舞い戻る。人権・環境・家庭・ジェンダーなど、社会に横たわる命題や問題と向き合いながら、デンマークや世界、社会のあるべき姿を実現するために闘う女性政治家像が描かれている。自身の社会的正義や政治的信念を追求し続けるニュボーの姿は、理想的とも言えるし、あまりにも正しすぎるとも言える。
一方で、シーズン3より10年以上先が舞台となったシーズン4では、誰もがどこかで首を縦に振るような社会的正義を貫くニュボー像が一変する。物語はグリーンランドにおける油田の発見から始まる。油田を巡って国を超えた利権争いが生じる中、外相となったニュボー自身も自らの立場を守るために翻弄する。最高の首相だった人間が、自らの権力にしがみつき狡猾になっていく様は、どこまでも人間味を帯びているように感じた。全てのシーズンの中で、僕はシーズン4が一番好きだ。
ただ、僕がこの作品を好きになった理由は別のところにある。
デンマークとグリーンランド
『コペンハーゲン』のシーズン4では、グリーンランドで発見された油田の利権を巡って話が展開する。石油採掘による利益をもって独立を画策するグリーンランド、採掘会社の株主にロシア人がいたことからデンマークに接近するアメリカ、近北極国家への介入を目論む中国。党の環境政策や自身の政治信条に反しながらも、外相としての立場を守りたいが故に、油田開発を押しし進めようとし、孤立していくニュボー。張り詰めるような空気の中で、交渉を進め、かつ心を通わせようとするデンマークの北極大使アスガーとグリーンランド首相府のエミー。油田に関わる人々の様々な思惑が複雑に絡み合っている。
僕が特に好きなのは、北極大使アスガーとグリーンランド首相府エミーのやりとりだろう。「エスキモー学の父祖」と呼ばれるデンマークの人類学者ラスムッセンにある種の憧憬を抱き、北極大使としてグリーンランドへ降り立つアスガー。アスガーはラスムッセンの生き方には興味を示すのに、ラスムッセンが見た景色を見ようとしないとして彼を一蹴するエミー。互いに恋慕を抱く二人だが、油田を巡る話し合いがなされるたびに、すれ違っていく。デンマークとグリーンランド、あるいは〈支配者〉と〈被支配者〉という分厚い氷のような壁が、前に進もうとする二人の間に憚っている。氷河とフィヨルドが織り成す北極圏の絶景の前に、彼らの葛藤が鮮明に描かれている。
詳しい背景はこちらの記事で丁寧に紹介されている。
権力と栄光
タイトルにもあるように、このドラマの主題の一つは「権力(Power)」だ。権力とは何か?権力とは、自分が持ち得るあるとあらゆる資源を思いのまま使ってしまうことのできる力だろう。ただ、実際は、権力は人から人へと行使される印象がある。他人を自身の思い通りにできる力のことを権力と呼びたい。そして同時に、権力とは(とりわけ民主主義を前提とした社会であれば)その人に対する信頼に裏付けられて形成されるはずのものだとも考えられる。
ニュボーには権力がある。それはデンマーク史上初の女性首相になり、彼女自身の社会的正義に基づいた政策が広く市民に認められたからだ。しかし、彼女の信条が、少なくとも立ち振る舞いが、そこから遠く離れたとしても、その権力の効果は温存されていく。温存されながら、綻んでいく。為政者の権力が、信頼という裏打ちを失ったとき、何が起こるのか。決して新しい論点ではない。しかしニュボーの場合は、前作で「史上最高の首相」として描かれていたからこそ、それが崩れていく様子は見苦しいほどに生々しい。
同時に、権力は否応なしに染み付いていくものでもある。人は、歳を重ねるごとに、誰かに対する権力性が自ずと身についてくる。何かの集団に属する時間が長くなれば長くなるほど、その集団において権力性を帯びるようになる。そしてその権力性は、時に人の一生を凌駕する。いわゆるマジョリティとマイノリティも然り。600年以上の支配=被支配の歴史の中で、制度としての支配は弱くなっていったとしても、権力はより大きくなっていくといっても過言ではない。人の一生をはるかに超えた権力関係は、それぞれの側に属す二人の個人にも影を落とすのだ。
かけ離れた世界のどこかに自分の姿を見出す
北極大使アスガーは、デンマークの諜報活動に巻き込まれ、自ら命を絶ったグリーンランドの青年マリクに思いを馳せる。若者の自殺率の高いグリーンランド。誰もがその事実をある種疑いもせずに受け入れている。しかし、アスガーは泣き崩れるマリクの義妹にも思いを馳せる。彼がグリーンランドを見て、何を感じたのかはわからない。ただ、その青年マリクに自身を投影できたのであれば、と思ってやまない。
考えてみれば、ニュボーは大切な決定を下すとき、必ずと言っていいほど、それに関わる誰かと関わりを持ち、彼や彼女を理解しようとし、感化され、自分の判断を振り返る。人と向き合い、その人を理解しようとして、その人のいる世界を理解しようとしている。ニュボーが売春の非合法化について声を上げるときも、アフガニスタンからのデンマーク軍撤退について方針を固めるときも、そして油田開発についてストップをかけるときも。彼女が世界を鑑みるときは、それに関わる誰かの声を必ず聞いている。
僕はマイノリティの研究をしている。日本という先進国の都市中間層に生まれた自分が、なぜタイのマイノリティを研究しようと思ったのか。自分にはわからない。一つ言えることは、自分とは全く持ってかけ離れた世界のどこかに、自分の断片を見つけることができる、ということだろう。全く異質な世界にも、全くの赤の他人であっても、自分と同じ何かを共有している。そこに思いを馳せることができた時、初めて他者を理解するという営為が始まるのかもしれない。いや、そう信じている。
大体、自分の興味の中に自分の影はない。そう思うことがある。偶然誰かと出会い、深く心を動かされたとき、その人を理解したいという衝動に駆られる。そして、その人のいる世界を、見る景色を、その人が感じる何かを、それらの一端を、自分も味わいたいと思う。そして、自分の中で新しい世界が広がっていく。それは自分には関係のないものかもしれない。誰かを通して、自分の内なるものが広がっていく。
振り返ればこのドラマにたどり着いたのも、同じ理由だ。コペンハーゲンに留学している友人がいて、彼女に会いにいったことがそもそもの始まりだった。脳裏に深く焼きついたコペンハーゲンの景色が、今の自分の一部を確かに形作っている。