生は担うに重い、だが諦めるにはあまりにも美しい
まだ私は若くて未熟で、それでもって理想と現実の隙間に希望を捨てきれない若者である。あるときは子供であることを恨み、あるときは大人になることを拒む。子供のままでいることもできず、かといって大人にもなれない、哀れで醜い愛しい私。世界に私を救えるか?(byモロ)
生きるために、背負わなければならないもののなんと多く、重いことか。貰えもしない年金なのに、なぜ厚生年金はあんなにも引かれるのだろうか?リアルに。大真面目に。識字率も高い、教育格差はあれど教育を受けられる国のくせして若者は貧しい、弱いものは弱い。しかも政治は全然前進しない。なぜ?
こんな感じで毎日適当に、時には真面目に生きている私だ。
話したかったことはあったのに、考えながら書いてるものだから一貫性が死ぬ。すまない。だけど、ふと思ったことがあったので、そしてそのふと思ったことは私がいつも頭のどこかで考えていることなので、ちょっと書いてみたいと思う。
「生は担うに重い」というこの言葉は、私の永遠のバイブル『ツァラトゥストラはかく語りき』というニーチェ先生様の代表作だ。そう、彼の言う通り、この世は生まれながらにして、いや生まれてしまうと死ぬまで何かと戦い続けなければいけないデスマッチである。お前(理想)が死ぬか、この私たち自身が死ぬかの二択だ。私がこの「重さ」を感じるのは、常に何者かでいなくてはいけないことであり、また時にそれを捨てられる器用さを兼ね備えている必要がある「インチキさ」なのである。
会社というのは、よくできてると思うのだが、社会と字も似ているし、中身も大して相違はない。「果たすべき役割を演じ、成果として目に見えるものを提示し、利益を生み出すことで還元する」場所である。仕事だからそれに見合う振る舞いをすること、常に利益を考える、与えられたことをこなす、上司の指示を仰ぐ、個性は特にいらない(でも独創性は価値や利益を生むので場合により可)、こんなとこだろう。
一方で、社会はどうか?生まれたら、まずは愛される必要がある。親の愛は最低限の栄養だ。愛されなければ死が待っている。虐待児の境遇を考えてみて欲しい。次に教育を受けるが、権利という建前の裏には、社会貢献がはるか先に待っている。騙されてはいけない。役に立たなければ死ね、はいつだって変わりはしないのだ。学生になり、理不尽に耐えられる最低限の素養を学び、社会に出ると機械的に仕事をする。かつプライベートも充実させ、遊んでもいいけど、いい歳になれば結婚をしろ、子供を作れの時期がくる。
この二つに共通しているのはなんだろうか。会社と社会は、「役割」をくれる場所だ。何者かである「肩書き」をくれる、なんなら義務さえ果たせば「居場所」まで与えられる、あまりにもよくできたユートピアなのだ。
少し脱線することを先に言っておくと、『文豪ストレイドッグス』の中島敦くんは「誰かに生きていいと言われなきゃ、生きていけないんだ!」と厨二病を爆発させていた名言がある。私はこの言葉がマジで共感できなくて、彼の境遇を考えても思わず呆れて閉口した。推しだったらごめんねなんか。で、太宰治は「自分を憐れむな、自分を憐れめば、人生は終わることない悪夢だよ」と言っていた。これもまあまあ厨二病だよね。だけど、まだ共感できたのだ。
ここまでの何が言いたいかっていうと、別に私たちって生きるのに理由なんか必要なんでしたっけ?というところである。誰かに必要とされ、誰かに認められることはそりゃ嬉しいよ。承認欲求てもはや人間であることの証だし。だけど、「権利」とか「義務」とかになってくると話は別だと思うのだ。そんなしがらみ引き受けた覚えはないぞ、と睨みをきかせる必要があると思うのだ。
この前上司とそういう話になぜかなったときに、法学部を卒業したらしい彼は言っていた。
「納税もしていないのに、権利だけは一丁前に主張して、生活保護もらえるのってなんかすごいよね。民主国家だからか知らないけど、そんな人のためにやらなきゃいけない仕事って、ね(笑)」
おう、こんなにも考え方が違うのかと思った。義務を果たせば、権利を与えられるのか。彼はロックの社会契約論とか読んだことないのだろうか。間違ってはないと思う。だけど私は、権利は義務より先立つものだと思っている。納税は別に勝手に課せられてるだけだし、だって生きられるよね。それは社会という場所に組み込まれていることになんの疑問も抱かない人間の意見だと思った。強者として生きてきた人の傲慢さに感じた。努力で全てが変わるなら、みんな幸せだろう。努力しても変えられないから、みんな苦しいんじゃないのか。努力は必ずしも報われるものではない。能力主義社会には限界が来る。国というのだって、国民がいなければ成立もしないのに?
そう、ふと友達と飲み歩いているとき頭の中に整然と湧いてきたのは、常に自分はこの世を生きてやっている、という気持ちを見失わないことだと思った。「自分は生きる価値がない」と考える前提がそもそも違うのだ。「私が生きてやる価値が、果たしてこの世界に、この社会にあるか」なのだ。そこだけは私は変えたくないと思った。そのあとすごい飲んだけど、これだけは覚えている。
7月は耐えられないほど仕事がつまらず、自分の価値とかいる意味を見出せずプチ病んでいたのだが、最近気づいたのは、自我を持たねば持たぬほど、仕事はやり易い(笑)ということだ。素晴らしい気づきだ。意味なんかはなからないのだから、私が頭を悩ますほどの価値理由がわたしのなかでないので、向き合う必要はないのだと思った。時に考えてやるスタンスが一番あっている。だから言われたことをやるし、意見も特に考えない。でも評価が下がる真似はしない、そのラインをわかっておいて頑張らないという姿勢を生涯かけて労働に殉じようと思う。「インチキさ」の正体がこれだ。だけど、私は、「I'm just me」は別に「インチキ」ではない。私は私の人生にたいして誠実に生きている。その誇りがあるので「ただの私」は死なないのだ。
生は担うに重いだろう。私はその重さを重々承知だ。だけどそれをも受け止めてやっている。かのニーチェは本では雄弁に希望を語るくせに、本人はついぞ楽観主義者として死ねなかった。ニヒリストは死ぬまでニヒリストだ。だけどそれの何が悪い?「生の肯定」を説く彼が病んで自殺を選んだからといって、肯定できず苦しんでいる人たちも死ななければいけないわけではない。彼の死は、諦めを意味しない。
あまりにも美しい、というのはどう考えても人間の浅さに決まっているのだ。昨日あんなに嫌だったことも、朝を迎えてみればなんてことはなかったり、杞憂に過ぎないと感じた「浅さ」が生の喜びを感じる余白だと思うんだ。なんなら私は美容室やネイルに行って小綺麗になった!明日の朝ごはんは果物がキンキンに冷えている!といった機嫌を取ることが私の単純で浅ましい愛すべきポイントだと思っている。
世界はどうだか知らないが、宇宙から見た地球は綺麗だろう。たまに気づく自然の変化にだって気取らずとも嬉しさを覚えるだろうし、小さな情景が心の思い出を開くことだってあるし、その記憶で生き延びられる今日があるのだ。小さな子供がしわがれた手と歩いている姿を見て、自分の幸福だった幼い時期と愛を思い出すのだから。愛されていたではないか、それが過去であろうとも。死というのはだから待つ価値がある、そしてなお生きる価値が生にはあるのだ。