雑感6 「なぜ人を殺してはいけないのか」
家族の肖像
人物
父 四十八歳
母 四十八歳
子 十四歳
所
或る地方都市の住宅地に佇む中流階級のつつましやかな家
情景
或る休日の午後。十二畳のリビング。父がソファでくつろぎながら新聞を読んでいると、子がなにか言いたげに近寄ってくる。
子 なあ、オトン
父 なんや
子 なんで人を殺したらアカンねん
父 は?
子 なんで人を殺したらアカンねん
父 なに言うとんねん
子 だから、なんで人を殺したらアカンかって訊いとんねん
父 聞こえとるわアホ。なにアホなこと言うとんねんって意味や
子 アホちゃうわ。こちとら真面目に訊いとるんじゃ
父 そんなん当たり前やろ。アホか
子 アホちゃう言うとるやろ
父 アカンもんはアカンやろ
子 なんでアカンねん
父 アカンもんはアカンからや
子 アカンもんはアカンって、トートロジーやないか
父 は?トトロがどないしたんや
子 同語反復や言うとんねん。なんでリンゴが落ちるか言うてみい
父 そら、重力があるからやろ
子 そういうこと訊いとんねん。人を殺したらアカン理由を説明してほしいんや
父 そんな当たり前のこと、わざわざ説明せな分からんのか?
子 分からん
父 しゃあないな……例えば、自分が殺されたら嫌やろ?
子 嫌やわ
父 オトンとかオカンとか、他にも友達とかが殺されても嫌やろ?
子 嫌やわ
父 身勝手な理由で人を殺す奴なんか最低の奴やろ?
子 最低やわ
父 つまり、人殺しは最低の行為や
子 最低やわ
父 じゃあ、人を殺したらアカンやろ
子 なんでアカンねん
父 は?
子 なんで最低の行為やったらやったアカンねん
父 そら、人が悲しむからやろ
子 悲しいわ
父 じゃあ、人を殺したらアカンやろ
子 なんでアカンねん
父 は?
子 なんで人を悲しませたらアカンねん
父 そら、人を悲しませるんは最低の行為やからや
子 最低やわ
父 じゃあ、人を殺したらアカンやろ
子 なんでアカンねん
父 は?
子 なんで最低の行為やったらやったアカンねん
(以上の会話を15532回繰り返す)
父 そら、人が悲しむ……なんかループしてへん?
子 やっと気づいたんか
父 なんやねんこれ
子 トートロジーや
父 トトロは違うやろ。トトロに時空操作能力なんかあらへんがな
子 なに言うとんねん
父 お前こそなに言うとんねん
子 ええから人を殺したらアカン理由を教えてえや
父 しゃあないな……例えば人を殺してもええ社会があったとしたらどないなると思う?
子 どないなんねん
父 いつ誰に殺されるか分からへんから、おちおち外にも出られへんやろ?
子 出られへんわ
父 そしたらなんもできひん
子 できひんな
父 到来するんは人殺し集団が支配する世紀末や。社会は滅茶苦茶や
子 滅茶苦茶の世紀末やな
父 そんな社会は望まへんやろ?
子 望まへんわ
父 多くの人がそう思っとる。だから人を殺したらアカン法律があるわけや
子 なるほどな
父 ふう、やっと納得してくれたか。ほな、話終わりな
子 で?
父 は?
子 それで?
父 それで、ってなんやねん。話は終わりやろ
子 終わってへんわ。殺人罪が存在する理由を説明しただけやろ
父 せや。つまり話は終わりや
子 なんでやねん。殺人罪があろうが人は殺せるやろ
父 そしたら逮捕されるやろ
子 逮捕されるん覚悟で人殺す奴なんかいくらでもおるやろ
父 そら、そういう最低な奴もおるわ
子 なんで逮捕されるん覚悟で最低の行為をやったアカンねん
父 ……
子 それに戦争はどうやねん。死刑もや。合法やったら人殺してええんか
父 ……
子 なんで殺してええ人間と殺したアカン人間がおんねん
父 ……
子 なんで人を殺したらアカンねん
父 (ブチッ)
(父、丸めた新聞紙で子を殴りつける)
子 ∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~~~~~~~~~
父 なんでなんでやかましいんじゃ!
(殴り続ける)
子 ∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~~~~~~~~~
父 大人なめとったらどついたるぞ!
(殴り終え、新聞紙を床にたたきつける)
子 ∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~~~~~~~~~
父 けっ、クソガキが
(母、怒りの形相で登場。父を掃除機で殴りつける)
父 痛い、痛い
母 我が子になにしてけつかるんじゃこのダボが!
(掃除機で頭蓋への殴打を続ける)
父 痛い、痛い
母 家事もせんと昼間っからゴロゴロしよってからに!
(父の頭蓋骨が破砕し、リビングに脳髄が飛び散る)
子 ∩(´;ヮ;`)∩マンマ~~~~~~~~~
母 アンタもくだらんことばっか訊いとらんと早よ宿題しなさい!
子 ∩(´;ヮ;`)∩ンヒィ~~~~~~~~~
父 (死~ん)
【劇終】
十四歳
「なぜ人を殺してはいけないのか、私にはさっぱり分かりません」
塾の英作文の課題で、十四歳のおれは上記のような趣旨の英文を書いて講師に提出した。ふざけていたわけでも、奇を衒っていたわけでもなく、学識豊かな大人であればこのような深遠な問いにも明瞭な答えを返すことができるだろうと期待してのことであった。
「は? マジで言ってんの?」
講師から返って来たのは、以上のような趣旨の英文であった。ああ、日々の仕事に忙殺され、日常性の中へと頽落してしまっている大人には、この問いの深遠さを理解することができないのだなと、おれは非常に落胆した。大人はまったく頼りにならないので、この問いに対する答えは独力で見出すしかなかった。
さて、なぜ人を殺してはいけないのか。これは多くの大人を悩ませる哲学的な難問であり、答えの出ない永遠の提題とされている。実際、十四歳の少年からこのように問われて即答できる大人はそう多くはないだろう。
だが、実はこれほど簡単な問題はないのである。おれは十四歳の時点で、この問いに対する解答を自力で導き出していたし、答えが分かってみれば「1+1=2」よりも簡単な問題であったことが即座に判明する。これは比喩ではなく、本当に「1+1=2」よりも簡単な問題なのだ。
よって、真の問題は「なぜ人を殺してはいけないのか」ではなく、「なぜ大人たちは『なぜ人を殺してはいけないのか』という簡単な問いに答えることができないのか」という点にこそある。では、この真の問題を解くための足掛かりとして、まずは以下の対話篇をお読みいただきたい。
バッテリー男
(男A、男Bに電話をかける)
男A 車のエンジン、かからへんねんけど
男B なんや、バッテリーあがっとんちゃうか。ライトはつくんか
男A 昨日まではちゃんと動いとってんけどな。なんやんねんこのポンコツ
男B 災難やな。で、ライトはつくんか
男A 早よ行かなアカンのやぞ。いてこますぞコラ
男B 急いどるもんな。で、ライトはつくんか
男A 機械の分際で調子乗っとんちゃうぞコラ
男B ライトはつくんか?つかんのか?
男A 約束の時間過ぎてまうやろがコラ
男B そら大変や。で、ライトはつくんか?
男A は?なに?
男B ライトはつくんかいな
男A なんで?
男B エンジンかからんのやろ。バッテリーあがっとるかもしれんやろ
男A は?
男B は?
男A は?
男B ええから早よライトつけろや
男A 別にええけど。でもバッテリーあがってたらライトつかんやろ
男B いや、それを知りたいからライトつけろ言うとるんや
男A なにキレとんねん
男B キレてへんわ。殺すぞ
男A キレとるやないか
男B 殺す
男A なんか悪いことでも言うたか?指摘してくれたら謝るけど?
男B 殺す
男A うわ、お前いつの間に来とったんや
(男B、バッテリーを車体から引き抜き男Aを撲殺する)
男B えーと、バッテリーの話やったっけ?
男A (死~ん)
男B ああ、せや。車の話やった
【劇終】
これは「バッテリー女」という有名なコピペを改変した、その名も「バッテリー男」である。もともとは「男脳と女脳の違い」を表現したコピペなのだが、性差を「脳の器質の違い」に還元しようする本質主義には用がないので、ここでは男同士の対話に変更することで、別の主題を浮かび上がらせている。その主題とは、言葉の表面に拘泥することなく、相手の隠された要求を汲み取ることの重要性である。この対話において、男Bは言葉の表面に注目するあまり、「車の故障の原因を分析して対応策を教えてほしい」というのが男Aの要求であると勘違いし、誰も答えを求めていない疑似問題に囚われてしまっている。「車が故障してしまったので代わりに車を出してほしい」という男Aの隠された要求に気づくことさえできれば、このような堂々巡りの対話に陥る必要もなかったし、男Aが撲殺される必要もなかったのである。
これは「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題についても言えることで、この問いに答えようとする大人たちはみな、質問者の隠された要求を汲み取ることに失敗し、質問者の意図から離れた疑似問題の中で堂々巡りをしてしまっているのである。「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問によって、十四歳の少年はいったいなにを問おうとしているのか、まずはその隠された要求を掴むことこそが肝要である。そして、その要求を直接的に反映した新たな提題を打ち立てることができれば、この問題はたちどころに解決するであろう。
人を殺してはいけない道徳的な理由
「なぜ人を殺してはいけないのか」と問われた大人がまず試みるのは、相手の感情に訴えかけることによる道徳的な説明であろう。お父さんやお母さんが殺されたら悲しいだろう、怒り狂うだろう、そんなことは許せないだろう、人の命は地球よりも重いんだ、それを身勝手な理由で奪うなど許されないだろう、とまあ、こんな具合である。
これは百パーセントまったく正しい説明である。人を殺してはいけないことなど、感情的に成熟したまともな人間であれば、誰もが理解している「当たり前」のことだ。だが、少し考えてみてほしい。そのような「当たり前」すぎることを、わざわざ十四歳の少年が問いかけるだろうか?
もちろん、このような「当たり前」のことを理解できない人間が存在するのも事実である。1997年に神戸連続児童殺傷事件を引き起こした「酒鬼薔薇聖斗」はその象徴的な存在であり、人は生育環境によってはこの「当たり前」をインストールすることに失敗してしまう。生育環境と聞くと、まず「家族」を思い浮かべる人が多いだろうが、ここで言う生育環境には地域社会や学校なども含まれている。例えば、教師による抑圧やクラスメイトによる同調圧力が支配的な学校などは、最悪な生育環境のひとつに数えられるだろうし、SNSなどのメディア環境や「時代の空気」のようなものも、子どもの生育に影響を与える重大な要素である。
こうした複合的な要因によって「当たり前」のインストールに失敗している場合、相手の感情に訴えかける道徳的な説明は徒労に終わってしまうだろう。なぜなら、そもそも訴えかけるべき感情が、相手の中から欠落してしまっているからである。
父 お父さんが殺されたら悲しいだろう
子 え、うん(別に悲しくないな)
父 怒り狂うだろう、許せないだろう
子 絶対に許せないね(むしろ殺してくんねえかな)
父 じゃあ、人を殺すのは良くないことだ
子 うん、わかったよ(遺産と保険金だけ残して早く死ねよこの豚)
ただ、酒鬼薔薇聖斗のように実際に殺人を行動に移した者を例に挙げると、「自分とは関係のない頭のおかしい人間の話」として処理してしまう者も多いだろうから、この話はもう少し敷衍したほうがいいかもしれない。
例えば、自殺志願者が線路に飛び込み自らその命を絶ったとしよう。その理由は分からない。学校でいじめに苦しめられていたのかもしれない。職場で過労死ラインを超える労働を強いられていたのかもしれない。重篤な精神疾患により心身がボロボロになっていたのかもしれない。ただひとつ言えるのは、相当な絶望に苛まれていなければ人は線路に飛び込んだりはしないということだ。「線路に吸い込まれそうになる」という表現があるように、最期には朦朧とした意識の中でまともな判断力も失い、「あちら側」へと呼び寄せられてしまったのだろう。
さて、このような鉄道自殺に対する日本人の一般的な反応は以下のようなものである。
「死ぬのは勝手にすればいいけどさあ、せめて人に迷惑をかけない方法で死んでくれよ」
自殺は「社会による殺人」と言われることがある。先に挙げたように、もしこの自殺がいじめや過労を原因とするものであったとすれば、それが「社会による殺人」であることに異議を唱える者は少ないだろう。「人を殺してはいけない」という理念を貫徹するのであれば、自殺者が線路に飛び込むまでの背景に想像を巡らし、人を自ら死に至らしめる歪んだ社会を糾弾しなくてはならないはずだ。もしくはホームドアの設置を怠り、容易に線路に飛び込める状態を放置している鉄道会社の不作為を非難してもよいだろう。
だが、多くの鉄道利用者にとって、そんなことはどうでもいいのだ。関心があるのは「電車を止めて迷惑をかけられた」という己の利害だけであり、自殺者たちの悲喜交々の人生は「電車を止めて迷惑をかけた奴」という一言に集約されるのである。そして、正常な判断力を失うほどの希死念慮に侵された者に対して同情を示さないどころか、むしろ迷惑をかけない方法で死ぬという最期の「理性」を要求するのである。
しかしこの者たちも、もし自殺者が愛する親族や大切な友人であったとすれば、決して同じような反応はしないだろう。自殺の原因が過労であることが判明すれば「社会による殺人」として企業の犯罪を糾弾するであろうし、「迷惑をかけない方法で死ねよ」という投稿をSNSで見かけたなら、人としての心を失ったクズとして腹の底から軽蔑するであろう。つまり「人を殺してはいけない」というのは、条件つきの理念に過ぎないのだ。「奪われてはならないかけがえのない命」として認定されるのは、感情移入が可能な限られた人間のみであり、心の距離が広がってゆくにつれ、それは「死のうが殺されようがどうでもいい命」へと反転していくのである。
このような例はいくらでも挙げることができる。コロナ禍は多くの人命が奪われた「悲劇」という扱いになっているが、これはいわゆる「建前」であって、おれが多くの人から実際に聞かされたのは、以下のような「本音」であった。
「ぶっちゃけさあ、コロナで老人が死にまくるのって、めっちゃ社会のためじゃない?」
「コロナさんにはどんどん老人をぶっ殺してもらって、少子高齢化を解決してほしいわ」
このように、若い世代の中には高齢者を殺してもよい存在だと考えている者もいる。この者たちにとって、高齢者とは若い世代から高額の社会保障費を奪い取る「社会のお荷物」でしかなく、高齢者たちが尊厳のある個人として認識されることはない。ゆえに、少子高齢化を解決するために必要なのは、増えすぎた荷物を断捨離するように、高齢者を物理的に処分することであると本気で考えているのである。
この事実から判明するのは、「人を殺してはいけない」という理念が有効であるのは、人々の心に余裕がある場合に限られるということである。国全体が経済的に凋落して生活に余裕がなくなり、社会的な紐帯な失われれば、その原因を帰属させるための「敵」が生み出され、「敵」と認定された者は「殺してもいい人間」と見なされてゆく。この者たちが高齢者を殺さないのは、単に「逮捕されるのは嫌」というだけに過ぎないので、コロナウイルスのような罪を問われない主体が現れれば、その本性を剝き出しにし、できるだけ高齢者を殺してくれるよう祈りを捧げるのである。もし、高齢者を強制収容所のガス室に輸送することが合法化されるようなことがあれば、この者たちの何割かは、諸手を挙げてその最終的解決に賛同するであろう。
また、パレスチナ人の大量虐殺に対する一部の欧米諸国の反応を見てみるがいい。「民主主義」や「リベラリズム」を標榜する欧米諸国は、「仲間」であるウクライナが「敵」であるロシアに進攻されたときには、「武力による現状変更は断固として許してはならない」として非難するが、「仲間」であるイスラエルによるパレスチナへの横暴に対しては、自らの理念を捻じ曲げ、大量虐殺すら承認するのである。だからこそ、このような不正義に抗議するために世界各国でデモが行われているのであり、日本でもイスラエルによる大量虐殺を非難するデモが行われているのだが、デモに関して日本で散見されるのは以下のような反応である。
「うるさい」
「日本でやっても意味ないだろ」
「イスラエルに行ってやれ」
この者たちにとっては、現在進行形で行われている大量虐殺を非難することよりも、己の平穏な生活にノイズを持ち込まないことや、「政治的な発言をする痛い奴」と見なされないことのほうが重大事なのである。
このように考えてみると、「人を殺してはいけない」という道徳的な理念を堅持している人間というのは、むしろ少数派であるように思える。もちろん、地球上に存在するすべての人々に同情することは不可能である。おれも聖人君子ではないので、地球上の悲劇をすべて把握しているわけではないし、四六時中それらを気にかけて生活しているわけでもない。これは社会的な問題である以前に、我々がヒトという動物であることの生物的な限界でもあるだろう。民主主義というのは、見ず知らずの人々に対しても「隣人」の如く接することのできる主体が前提とされた制度だが、ヒトという生物種のキャパシティーに鑑みれば、これはあまりに高尚すぎる前提であるのかもしれない。だが、このような建前が失われれば、「人を殺してはいけない」という理念を子どもに伝達することは、もはや不可能となる。
「自殺するなら迷惑をかけずに死ね」
「老人は若者のために死ね」
「なにがパレスチナだ、うっせえんだよ」
などと憚りもなく言う大人が、
「人が殺されるのは悲しく、憤るべきことだ」
「かけがえのない命を身勝手な理由で奪ってはならない」
などと子どもに説明したところで、そんな空虚な言葉にはなんの説得力もないだろう。大人が「人を殺してはいけない」と諭すとき、それは「人の命の大切さ」を子どもに伝達したいからではない。大人が子どもに望んでいるのは、受験戦争を勝ち抜いて「良い大学」に進学し、「良い企業」に就職して社会的ポジションを獲得し、「良い配偶者」と結婚して「良い家庭」を築くという「正しい人生」を歩むことであり、それによって「私は立派な子育てをした」という満足感に浸らせてくれることだけなのである。このような大人たちが最も恐れるのは、我が子が酒鬼薔薇聖斗のような「異常な人間」に育ってしまうことであり、それによって「立派な子育て」という幻想を破壊されてしまうことである。それを防ぐためにこそ、我が子は「人を殺してはいけない」という「常識」を疑うことのない人間へと矯正されなければならないのであり、その道具として、信じてもいない道徳な説明を借用するのである。
だが、子どもはそのような大人たちの空虚さを見抜いている。口では「人を殺してはいけない」と言うが、その態度によって言外に語っているのは、本当は見知らぬ人々はすべて「死のうが殺されようがどうでもいい存在」なのであり、見知っている人々すらエゴイスティックな欲望を充たすための道具に過ぎないということなのである。では、大人に比べて子どもはどうかというと、同級生たちが大切にしているのは人の命よりも空気を守ることであり、彼ら彼女らが承認してくれるのは、私が演じている「キャラ」であって、私自身ではない。誰も自分のことを「かけがえのない命」として扱ってくれないのであれば、どうして自分だけが他の人々を「かけがえのない命」として尊重する必要があるだろうか。ならば、ヒューマニズムで糊塗されたこの人間社会の欺瞞を暴くために、私は次のように問いかけなければならない。
「なぜ人を殺してはいけないのか」
このような子どもが、人を殺してはいけない道徳的な説明に満足することがないのは、当然のことであろう。ただ、このエッセイで想定しているのは、こうした道徳的な説明を感情的に理解しているにもかかわらず、あえて「なぜ人を殺してはいけないのか」と真剣に問うてくる十四歳の少年であることを思い出していただきたい。人身事故のアナウンスやパレスチナの惨状に心を痛める少年にとって、道徳的に人を殺してはいけないことなど当たり前のことであり、わざわざ問いかける必要などないのである。
人を殺してはいけない法的な理由
道徳的な説明が失敗に終わると、次に大人は感情ではなく論理に訴えかけようと試みる。つまり、なぜこの社会には人を殺してはいけないという法が存在するのかということだ。この説明を「近代法とはなにか」という基礎づけから始めると、かなり専門的で難解な議論になってしまうだろうが、しかし通俗的な説明としては次の一言で充分だろう。要するに、ほとんどの人は自由に人を殺せる社会を望んでいないから、殺人を罪として罰するようにしているのである。
これを考える端緒としては、『キノの旅』という小説の「人を殺すことができる国」というエピソードが参考になる。主人公たちは「人を殺すことができる国」と聞いて、モヒカン刈りの男たちがバイクを乗り回してヒャッハーする無秩序な国を想像するのだが、実際に訪れてみると、心優しい人たちばかりの秩序だった国であることが判明する。何事もなく三日間の滞在を終えて出発しようとすると、ヒャッハーができる国だと勘違いしてやってきた男に銃口を向けられ、主人公たちは殺されそうになる。するとその瞬間、住民たちは一斉に隠し持っていた武器を取り出し、その男を抹殺してしまう。「人を殺すことができる国」とは、とどのつまり仲間を守るために「仲間になり得ない者」を共同体から排除することができる国ということだったのだ。人を殺すことが禁止されていないということは、人を殺すことが許されているということではない。人が集って共同生活をする限り、そこには掟を共有した仲間たちによる社会が形成される。そして、身勝手な理由で仲間を殺そうとする者は、もはや掟を共有することが不可能な者として、つまり秩序を乱す危険分子として処刑されるのである。
ただしこれは、誰が「仲間になり得る人間」で、誰が「仲間になり得ない人間」であるかを、共同体の成員たちが肌感覚で共有している場合にのみ成立する社会形態である。次第に社会の規模が大きくなり、前提を共有しない見知らぬ人々と共同生活をするようになると、肌感覚に頼って秩序を保つことは不可能になる。共通の前提を持たない者たちがそれぞれの意志に従って問題を自力で解決しようするならば、到来するのはモヒカン刈りの男たちがバイクを乗り回してヒャッハーする無秩序な国であろう。そこで、秩序を保つために新たに導入されるのが「人を殺した者は処罰する」という「法」なのである。この法を執行できるのは、暴力装置を独占した統治権力のみであり、各人は自力救済を諦めなければならない。その代わり、己の法益が侵害された場合には、統治権力に法の執行を要求することで、正義を実現することが可能となる。
以上が「人を殺してはいけない」という法が存在する大まかな理由だが、しかしこの議論を注意深く読んでみると、「人を殺してはいけない」という表現は正確ではないことが分かる。「人を殺すことができる国」の例でも分かる通り、「仲間を殺してはいけないが、敵は殺さなければならない」というのがその正確な表現であり、これは死刑制度という形で現代にも残っている。死刑とは「一定の条件を満たした人間は殺さなければならない」という制度のことなので、日本において「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いを発することは、法的には的外れとなる。なぜなら、日本はそもそも人殺しを禁止していないからである。よって「人を殺してはいけない」という理念を子どもに伝えたいのであれば、同時に死刑制度の廃止を訴えなければならないし、死刑制度の存置を支持するのであれば、「仲間を殺してはいけないが、敵は殺さなければならない」と正確に子どもに教えなければならない。
また、人を殺すことが適法となるケースはこれだけではない。例えば、刃物を持った暴漢に現在進行形で襲われており、警察が現場に到着するのを待っていては殺されてしまう危険性が高い状況においては、この暴漢に反撃して殺したとしても、相当性が認められれば罪に問われないことになっている。いわゆる「正当防衛」であり、これは自力救済が可能となる例外的なケースである。ただ、「正当防衛」という論理は濫用されることが多く、本当に「例外的」と呼べるかどうかは疑わしい。例えば、アメリカでは黒人の1000人に1人が警官に殺されて生涯を終えるが、これは白人のそれと比べると3倍近い比率となっている。中には無抵抗であるにもかかわらず殺される者も多く、これは「黒人=危険」という偏見を背景としたヘイト・クライムに他ならないが、そのほとんどは「正当防衛」として処理されて無罪となっている。このように、どこまでが正当な防衛であるかという線引きは、力のある者にとって都合のよいように設定され得るものなのである。
「正当防衛」が濫用される最も顕著な例は、なんと言っても戦争であろう。国連憲章は武力行使によって国際紛争を解決することを明確に禁止しており、自衛戦争のみが唯一の戦争行為であるとしているが、しかし、なにを「自衛」とするかは解釈次第でどうとでもなるのである。2003年、アメリカのブッシュ政権は、イラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有している主張し、「先制的自衛権」の行使を名目としてイラクへの軍事侵攻を行った。だが、結局のところ大量破壊兵器など存在せず、中東情勢をいたずらに混乱させるだけの結果となった。イラク戦争は従来の国際法の解釈を逸脱する違法な戦争であると批判されており、この違法な戦争によって数十万人の命が奪われているが、アメリカは一部の国々からの信頼を失っただけで、特に正式な制裁は受けていない。ちなみに、日本の時の宰相であった小泉純一郎は、軍事侵攻が始まる数日前にこの違法な戦争への支持を表明している。
ナチスの高官であったヘルマン・ゲーリングは次のようなことを述べている。一般国民は戦争を嫌うものだが、しかし国民を戦争に動員することは簡単である。「自分たちは外国から攻撃されている」と説明するだけよく、平和主義者がいれば「国家を危険に晒す非国民」として公然と非難すればよいのである……と。ゲーリングの言う通り、「自衛」を口実として侵略を行うことなど国家にとっては朝飯前であり、「自衛」という論理でカムフラージュしてしまえば、人殺しは合法的な行為となるのである。仮に、国際法に反する非人道的な殺人を行ったとしても、イスラエルのように強国がバックについている場合には、特に罪に問われることもない。
よって、人を殺してはいけない法的な理由としては、「殺してはいけないのは仲間だけで、敵は殺してもよい」というのがその解答となる。これは十四歳の少年が求める答えに一歩近づいているが、しかし、彼はそもそも法的な説明を求めていたのではなかった。殺人罪が存在する理由や、例外的に殺人が可能となるケースに関する説明は、単に人間社会のシステムを記述しているだけに過ぎない。いくら殺人が法律で禁止されていようが、それを無視して人を殺すことは可能なのであり、これこそが少年の質問の真意を理解するための最大のポイントとなる。
これ以上、「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に拘泥していても埒が明かないので、そろそろ少年の真意に即した質問へとパラフレーズすることにしよう。
人を殺してはいけない宇宙的な理由
要するに、十四歳の少年が「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問を通じて問いたかったのは、こういうことである。
「この世界には人を殺してはいけないという物理法則は存在するのか」
今まで考えてきたものはすべて、人間社会ではなぜ殺人は「良くないこと」とされているのかという、言語によって分節化された「意味」の世界の話であった。そうではなく、「ニュートンの法則」や「エネルギー保存の法則」などの普遍的な物理法則のように、「人を殺してはいけない」といったなにか宇宙的な法則があるのか、ということが十四歳の少年は訊きたかったのである。このように質問者の真意が分かってみれば、誰でも次のように即答することができるだろう。
「人を殺してはいけないという物理法則など存在しない」
宇宙的な視座からすれば、この世界には「良い」や「悪い」といった尺度は存在しない。この宇宙に存在するのは「可能」か「不可能」か、ただそれだけである。例えば、人間は鳥のように空を飛ぶことはできない。つまり、人間が空を飛ぶことは「不可能」である。人間は魚のように海を泳ぐことはできない。つまり、人間が海を泳ぐことは「不可能」である。代わりに、人間は地上を二本の脚で歩くことができる。器用に発達した五指を用いて道具を作り出すことができる。言語を用いてコミュニケーションをすることができる。これらはすべて、人間にとって「可能」なことである。そして人間が「可能」なことの中には、もちろん殺人も含まれる。首を締め上げてもよいし、刃物で滅多刺しにしてもよいし、ショットガンで頭部を吹き飛ばしてもよい。単に殺すというだけでなく、人間にはあらゆる手段で人を殺すことが「可能」なのである。そして人間に委ねられているのは、その「可能」である殺人を実行するか、それとも実行しないかという選択だけだ。人を殺したくなければ殺さなければよいし、人を殺したければ殺せばよい。人を殺そうとした瞬間に「キミ、人を殺してはいかんよ」と宇宙の意志のようなものが現れて、ロープやナイフやショットガンを取り上げるといったような現象は起こらない。宇宙が禁止するのは「不可能」なことのみであり、「可能」であることは一切が許されている。いくら道徳的に非難されようが、法的な制裁を受けようが、そんなものは「だからなに?」の一言で一蹴してしまえばよい。端的に言って、人間には人を殺すことが「可能」なのである。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題が、「1+1=2」よりも簡単な問題であると先に述べたのは、つまりはそういうことなのだ。ヒト以外のすべての動物は、「1+1=2」という数式の意味を理解することはできないが、しかし他の動物の命を奪うことが「可能」であることは、当然の如く知っている。腹を空かせたライオンを目の前にして「ひ、人の命は地球よりも重いんだぞッ!」と本気で説得しようとする人間がいるとすれば、それはよほどの阿呆であろう。人の命が地球より重かろうが、ライオンは腹が減ったら人を殺して食べるのであり、そこには良心の呵責もなければ、罪の意識もない。
このように、動物ですら知っている当たり前の事実を、「答えの出ない哲学的な難問」であるかの如く錯覚してしまうのは、人間が「意味」の世界に閉じ込められているからに他ならない。この世界にはもともと「意味」など存在せず、「意味」なるものは人間がこの世界に事後的に持ち込んだものに過ぎない。それなのに、「意味」が支配する社会を生きることに慣れ切ってしまった人々は、いつしかその前提をすっかり忘れてしまい、あろうことか宇宙が「意味」に従って運航しているかの如き勘違いをしているのである。そしてこの勘違いは、必ず世界に裏切られる運命にある。なぜなら「意味」の世界が想定する「条理」など、「不条理」である世界は意に介してはくれないからだ。
「意味」の世界を生きる人々は、世界はこのように運行すべきであるという強烈な願望を持っている。善良な人々は救われなければならない。善良な人々は事件や事故に巻き込まれてはならない。善良な人々は大病を患うことなく天寿を全うしなければならない。逆に、邪悪な人々は相応の報いを受けなければならない。地上における犯罪はすべて検挙され正義の名のもとに裁かれなければならない。だが、そのような人間の願望など、世界からすれば知ったことではない。いくら善良であろうと交通事故に遭って死ぬこともある。なんの落ち度もなかろうと通り魔に刺されて死ぬこともある。人生これからという若さで不治の病に侵され夭折することもある。逆に、どれだけ非道な犯罪を行おうとも検挙され有罪になるとは限らない。人を轢きながらそのまま逃げおおせた者や、被害者を泣き寝入りさせてのうのうと生きているレイプ犯など、この社会には腐るほど存在する。仮に、犯人が適正な裁きを受けたとしても、失われた命や損傷した身体が元に戻るわけではないし、被害の記憶が消えてなくなるわけではない。
フランスの文学者であるアルベール・カミュは、明晰さを求める人間の強烈な本能と、人間の理性を超えた世界とが相対峙している緊張状態を「不条理」と定義した。ここで重要なのは、世界そのものが不条理なのではなく、人間と世界との対立関係があって初めて「不条理」が生まれるということだ。例えば、動物たちはどのような酷い目に遭おうとも「神よ!どうしてこのような世界を作りたもうたのですか!」などと嘆いたりはしない。世界が理解可能なものであってほしいという絶望的なまでの願望を持つ人間だけが、理解不能な世界を「不条理」として感覚するのである。
人間が宗教という装置を生み出したのは、このような「不条理」を受け入れ可能な「条理」へと変換するためであった。例えば、善行を積んだ者だけが天国へ行くことができ、悪行を為した者は地獄に堕ちて永遠の責め苦を受けるということにすれば、現世における艱難辛苦も、来世における至福のためと思って我慢することができる。人間の理解を超えた「不条理」としか思えない世界も、むしろ人間の理解を超えた神が存在することの証明となる。このようにして、我々はもともと神の摂理に従って正しく運航する宇宙の中を生きていた。ところが、ニーチェという空気を読まない男が現れ、「神は死んだ」と空気を読まないことを言ったために、神は死んでしまった。所詮、宗教は人間の想像の産物に過ぎず、本当は天国も地獄も存在しないということは、今や誰もが知っている。
日本人は宗教と聞くと「非科学的」で「不合理」なものとして嘲笑する傾向にあるが、しかし神を殺した結果として獲得した自由な人生は、宗教的な人生と比べて本当によいものなのだろうか。まず、神が消失したことで人間は根源的な虚無と対峙しなければならなくなった。生まれてきたことにはなんの意味もないし、もちろん死ぬことにもなんの意味もない。人間は意味もなく生まれ、意味もなく死ぬ。このような深淵を覗き見ながら正気でいられる人間はほとんどいないので、結局のところ大半の人々は世間一般で流布されている「意味」を受容しながら生きることになる。
受験勉強をして、良い大学に入って、良い企業に就職して、良い結婚をして、良い家庭を築いて……このような「正しい」人生のレールから外れない限り、宇宙は「意味」に従って正しく運航してくれる。だが、人間が「意味」によって構築した世界は、不条理な世界を糊塗するための紛い物に過ぎないことを忘れてはならない。よくよく観察してみれば、我々が世界だと思っていたものはただのハリボテであり、脚立にのぼってハリボテの向こう側を覗いてみると、こちらをじっと覗き返している者がいる。この世界には意味などなく、すべては虚無であると囁きかけてくる深淵である。
私は美しい妻と子どもを手に入れた。私は美しいマイホームとマイカーを手に入れた。私は世間様から見て恥ずかしくない社会的地位を手に入れ、人生の「勝ち組」になることができた……だが、ふと気づいてしまう。それがいったいなんだというのだろう。改めて見てみれば、車はただの金属の塊であり、家はただの木材の塊である。
「おはよう、あなた」
「おはよう、お父さん」
愛する妻と子どもが私に挨拶をする。だが、こいつらはいったい誰だ? どうしてこんな奴らと私は一緒に暮らしているんだ? こんなくだらないものを手に入れることが、本当に私が望んでいた人生だったのか? もしかして今までしてきたことは、就職して、結婚して、昇進して、老後の二千万円を貯めて……というふうに、この意味のない世界を考えないようにするために、すべてを未来へと延期し続けてきただけだったのではないか。「老後に二千万円の貯蓄がある」というゴールに到達してしまえば、もう延期できる未来は残されていない。待つのは「死」のみである。え、終わり? 私の人生これで終わり? 私の人生にはいったいなんの意味があったんだ? もしかして……生きることに意味などないのではないか?
もちろん、中には「敷かれたレールの上を歩むだけの人生なんてまっぴらごめんだ!」と言って、このような生き方を否定する者もいる。この者たちは人生に意味などないことを自覚しており、人生の意味は自らの手で掴み取らなければならないことを知っている。だが、現時点での自分は何者にもなれていない無意味で虚無的な存在であり、未だ人生の意味を手に入れることはできていない。そこでこの者たちは、「夢」を叶えることこそが、人生の意味を獲得する唯一の方法であると考える。「夢」を叶えることさえできれば、つまり、自分は社会の歯車として生きる他のくだらない人間たちとは違い、特別な才能のあるクリエイティヴな人間であることさえ証明できれば、今はまだ無意味な存在に過ぎない自分も「何者か」になることができ、その暁には自分の人生は至福で満たされるに違いないと考えるのである。
だが、これは無意味な人生をどうすればよいかという問題を、ただ未来へと先送りにしているだけに過ぎない。現世の艱難辛苦をどうするかという問題を、来世へと先送りにしているのが信仰者の生き方だとすれば、夢見る者たちの生き方は、宗教的な生き方と本質的には変わらないのである。
夢見る者たちは、一歩ずつ天国へと近づいている己に充実感を覚える信仰者のように、一歩ずつ「夢」へと近づいている己に充実感を覚える。そしてついに、「夢」を叶える瞬間が訪れる。家族や友人や一般ピープルたちが心の底から祝福してくれる。
おめでとう
おめでとう
ありがとう
ありがとう
ついに私は「何者か」になることができた。ついに私は「人生の意味」を手に入れたのだ。だが、その割にはまったく満たされた感じがしない。むしろ、人生でやることがなくなってしまった。「夢」を追っていたときよりも「夢」を叶えた今のほうが、なぜだか人生が無意味なものに感じられる。もしかして、人生が無意味ではなくなる「ここではないどこか」など、最初から存在しなかったのではないか。どこへ行こうが常にすでに人生は無意味だったでのあり、そもそも人生の無意味から逃れることは不可能だったのではないか。私にとって「夢」を叶えることなど最初から目的ではなく、「夢」に熱中することで人生の無意味から目を逸らし続けることこそが真の目的だったのではないか……
そしてふと、あなたはなにかおぞましいものにじっと見られている気配を感じる。今まで目を塞いでいただけで、あなたは本当はうすうす気づいていたのだ。底なしの深淵が、ずっとあなたを覗いていたことに。
それでも「私には確かに生まれてきた意味があった」と思えるような人生を手に入れることは不可能ではない。そもそも「人生とはなんだ!?」といったことに悩まない性格の人々も多いだろう。だが、世界はそのような幸福が永久に続くことを保証してくれるわけではない。世界は気まぐれであり、なんの前触れもなく、そしてなんの意味もなく、あなたの人生を破滅させてしまうだろう。そうなれば誰しも、今まで浸っていたのはかりそめの幸福に過ぎず、本当は「不条理」こそが世界の実相であったことに気づかざるを得ない。もちろん、この世界が「不条理」であることに気づくことがないまま、天寿を全うして幸福に人生を終える者もいるだろう。だが、それは単に運がよかったというだけの話である。となると、人生とはただの「運ゲー」なのではないか。「世界は美しく素晴らしい」などと言えるのは、たまたまサイコロの目が良かった人々だけで、運悪く「一二三」の目を出してしまった者は、生まれてきた意味も分からないまま絶望して死ぬしかないのだろうか。
ならばいっそ、犯罪者として悪逆非道の限りを尽くし、人として許されぬ悪徳の快楽をむさぼり尽くすような人生を送ってみるのはどうだろうか。この世界には意味などなく、一切が許されているという真理に鑑みれば、道徳や法を律儀に守って生きることほどバカバカしいことはない。人間などただのタンパク質の塊に過ぎず、それを己に快楽を提供する肉塊として利用しようとも、宇宙はすべてを許してくれるのである。
しかし、この者は「不条理」のなんたるかをまるで理解していない。「不条理」の観念が明らかにするのは、そのような快楽も同等に無価値であるということなのだ。最初は刺激的であった快楽も、快楽順応の原理により慣れが生じてきて、次第に学校や会社へ行くのと変わらぬ日々のルーティンへと堕していく。快楽に溺れれば溺れるほど、よりいっそう虚しさが増していき、最後には「やはりこの世界は無意味であった」という事実だけが残される。このように犯罪的ではなくとも、セックスやドラッグの快楽をむさぼることで人生を謳歌しようとする人々は少なくないが、結局のところそれもまた無意味なので、最終的に抑鬱状態に陥ってしまう者も多い。
こうして考えてみると、「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いは、「この世界には意味がない」という真の問題に至るためのきっかけに過ぎず、それ自体はどうでもよい問題であったことが判明する。「人を殺してはいけない理由などない」と知ったところで、十四歳の少年は別に人を殺すつもりなど毛頭ないのだから、よくよく考えてみればこれは当たり前の話である。この世界には意味がないのであれば、我々はこの意味のない世界をどう生きればよいのか。それこそが唯一にして最大の問題なのである。
対象年齢
さて、「人を殺してはいけない理由などない」ということは、現代人であれば誰もがうすうす知っていることであり、なにを今さら当たり前のことを言っているのかと肩透かしを食らった者もいるだろう。実際、おれは「驚愕すべき残酷な真実」を告げたわけではなく、「砂糖は甘い」という程度の事実しか述べていない。では、なぜそのような当たり前のことを、大人は子どもに伝えることができないのだろうか。
ひとつは、子どもに「赤ちゃんってどうやってできるの?」と問われて、大人が答えに窮してしまうようなものだろう。この問いに対する正しい答えが「父の勃起した陰茎を母の膣に挿入して射精する」であることは、大人であれば誰もが知っているが、しかしこの事実を子どもに教えることを憚ってしまう大人は多い。それは単に気恥ずかしいからかもしれないし、「セックス」などという「乱れたこと」は子どもに教えるべきではないと考えているからかもしれない。だが、誰もが性的に眼差され得る身体を有しており、性暴力の被害に遭う可能性があることや、二次性徴を迎えるとセックスによって妊娠する/させる可能性があるといったことなどは、子どもが性的自己決定権を行使するうえで必要不可欠な情報であり、これらを子どもの発達段階に応じて適切な方法で教えることは大人の義務である。
同様に「なぜ人を殺してはいけないのか」という問題に関しても、子どもの発達段階に応じて適切な教育をしなくてはならない。まず、子どもがまだ幼い段階であれば「人を殺してはいけないという道徳的な感情」を教えることこそが重要となるだろう。幼少期は、喜怒哀楽などの基礎的な感情や、他者に対する共感能力を育む時期であるので、「人を殺すのは残酷なことであり、人としてやってはいけないことだ」と感情的に理解できるようなることが最優先課題となる。ただし、単に「人を殺してはいけないよ」と言葉で教えることにはなんの意味もない。「人の命は地球よりも重いです。だから人を殺すのはよくないことです」と子どもが言葉で説明できたとしても、その言葉に実感が伴っていなければ本当に理解しているとは言えないだろう。感情とは言葉で学ぶものではなく、養育者との親密な愛着関係や、友達とのじゃれ合いなどを通じて、体感として学ぶものである。知識やスキルであれば、大人になってからでも習得することが可能だが、子どものときに培えなかった感情を大人になってから回復することは、不可能ではないにせよ多大な労力を要することになる。
次に、小学生になり基礎的な読み書き能力が身についてくれば、「人を殺してはいけない法的な理由」を教える必要が出てくるだろう。今までは私的領域の中で愛に包まれているだけで許されていた子どもも、公的領域の中では価値観の異なる見ず知らずの他者と共生しなければならないことを学ぶ。社会では、赤ん坊のように自分のわがままを通すことはできず、他者の権利を尊重しながら、同時に共同体全体の利益をも考えなければならない。そのような個人の権利や公共の福祉を守るために存在するものこそが法であり、その中には「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」という殺人罪も含まれている。ただし、「人を殺してはいけない」と言いつつ、同時に「死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」と言うことには、すでに矛盾が内包していることは先にも述べた通りである。「法は法だから」というトートロジーによって、子どもに法への無条件の服従を命じるようであれば、それは臣民教育であり、法教育とは呼べないだろう。
そして、子どもが二次性徴を迎えると、いわゆる「自我の目覚め」を経験することになる。自己への意識が高まるにつれ、もはや主観の中に内在して生きることは不可能となり、「自分とはなにか」といったアイデンティティーの模索が始まる。特に思弁的な性格の子どもであれば、「なぜ世界は存在するのか」「生まれてきたことに意味はあるのか」といった哲学的な思索にも耽るようになるだろう。そこで、ふと疑問に思う。そういえば、なぜ人を殺してはいけないのだろう。別に誰かを殺したいと思っているわけではない。殺人が法的に禁止されている理由もなんとなくは理解できる。それでも、人を殺してはいけない理由がどうしても分からない……
このような子どもが「なぜ人を殺してはいけないのか」と問うてきたなら、「人として許されないことだからだ」「法で禁止されているからだ」と答えることは、もはや不誠実な態度となる。この子どもは「この世界には意味などないのではないか」と、実存を賭けて真剣に問うてきているのだから、問われた大人は次のように誠実に応答しなければならない。この世界には人を殺してはいけない理由など存在しない、と。
しかし、ここまでの理路を完全に理解できたとしても、実際に大人が「人を殺してはいけない理由など存在しない」と答えられるとは限らない。「この世界には意味などない」という事実に同意を与えれば、次に以下のような質問に答えなければならなくなるからだ。
「じゃあ、この意味のない世界をどうやって生きればいいの?」
これこそが、大人が「なぜ人を殺してはいけないのか」という質問に答えることができないふたつ目の理由である。この意味のない世界をどう生きればよいかなど、大人自身も分かっていないのだ。
「そんなん、知るかいな。良い大学に入って、良い企業に就職して、良い結婚をすれば、人生なんてそれでええやろ。それが人の幸せっちゅうもんや。そんなテツガク?みたいなことに頭なんか使わんと、常識に従っとけばええねん。みんなもそうしてるやろ。それが普通やろ。おれかてそうして生きてきたんや。人生それでええねん。人生それで……ええんか?」
「世界に意味なんてないというのはその通り。だから、人生の意味は自分で見つけなければいけません。あなたの夢を見つけて、あなたの夢に向かって頑張ることが大切なんですよ。私もそうやって生きてきて……ませんね。子どもの頃に描いた夢はなにひとつ叶いませんでした。なんのやりがいもない、世の中のためにクソほどの役にも立たない仕事をして、あとは家事と育児に忙殺される毎日です。最初は優しかった夫も、結婚した途端に飲んだくれのクズ男になりました。「子どもを産むことが女の幸せだ」という周りの声に押されてしまっただけで、本当はあなたを産んだことだって後悔しているんです。私の人生、こんなはずじゃなかった……」
この世界には意味がない
結局、この意味のない世界をどう生きればいいかは分からなかったが、とりあえずこの世界には意味がないことだけは分かった。ということは、これまで教えられてきた「常識」や「ルール」などにも、実はなんの意味もなかったのかもしれない。例えば、おれが通っていた学校では、次のような「常識」を徹底的に叩き込む教育を行っていた。
「遅刻をするような奴は社会でやっていけへんぞッ!」
「10分前行動ッ! 5分前集合ッ!」
だが、遅刻をしないということは、本当に人類にとって普遍的で絶対的なルールなのだろうか。まず、遅刻という観念が成立するためには、前提として「時分秒まで精確に計測することのできる時計」が存在していなければならない。そのような精確な時計が発明される以前には、人々は太陽の動きなど自然のリズムに従って大まかな時間感覚の中で生活していたのであり、そもそも遅刻という観念自体が存在しなかった。日本において分単位の遅刻が神経質に問題視されるようになったのは、明治以降の近代化による要請の結果であり、たかだか百数十年前の話でしかない。また現代であっても、ブラジルやインドなど時間に「ルーズ」な文化を持つ国はいくらでも存在するのであり、「遅刻」をどう評価するかは文化相対的なものに過ぎないことが分かる。「インド人は時間にルーズで仕事にならない!」といった嘆きをSNSで見かけることがあるが、人類史的な観点からすれば、時計によって分節化された時間に神経質にこだわっている日本人こそが異常なのだ。こうして時間の奴隷たちは、線路に飛び込んで自ら命を絶った不幸な者に共感するよりも、電車を止めることによって規則正しい時間の運行を乱した自殺者を非難するのである。これは「遅刻をする奴は社会でやっていけない」という洗脳の結果に他ならないが、しかし実際は、遅刻という観念が存在しないフレックス・タイム制の会社に就職するなどすれば、「遅刻をするような奴」でも充分に社会でやっていけるのである。
また、未成年者の喫煙に対する教員たちの過剰なまでの反応も、よくよく考えてみると奇妙である。教員たちは、生徒の喫煙を絶対に許してはならない「究極の悪」であるかの如く扱うが、そもそも未成年者の喫煙が禁止されているのは、「身体の発育に悪影響があるから」というのがその理由のはずである。ならば、生徒の喫煙が発覚した際には、「それはあなたの身体のために良くないから止めなさい」と指導すればよいだけのはずだが、しかし教員たちは生徒の健康などにはまったく関心がなく、不可侵の「禁忌」を破ったことそれ自体に激昂しているようなのである。生徒は生徒で、タバコそれ自体に興味があるというよりは、「タバコ=悪の象徴」に手を出すことによって、学校という権威に反抗する「不良」としての箔付けを行うことが第一の目的であるように見える。もしも「タバコ=優等生の証」とされる世界があったとしたら、不良たちは「そんな煙たいもん吸えっかよ!」と言って、タバコなど吸おうとしないかもしれない。結局のところ、教員も生徒もタバコという「悪の象徴」を媒介とした権力ゲームに興じているだけに過ぎず、両者とも同等にアホらしいのである。
他にも、学校で「常識」とされていたバカバカしい「ルール」は数多くあったが、わざわざ論駁するまでもないほどにバカバカしいので、ここではいくつか列挙するだけに留める。
「詰襟は一番上のボタンまで閉めなければならない」
「靴と靴下は純白のものを着用しなければならない」
「朝礼の後は行進して教室へ帰らなければならない」
「染髪や眉剃りをしてはならない」
このようにして、ひとつひとつ「常識」を疑っていくと、なぜそれに従うことが正しいとされているのか、まったく理解しかねるような不合理な「常識」のほうが多いことに気づく。「常識」とは本来、それに従うことがすなわち善を為すことであるような内容でなければならないはずである。だが、もしも「常識」の多くが実は不合理なものなのだとすれば、「常識だから」という理由で常識に従うことは、むしろ悪を為す「非常識」な態度になってしまう可能性がある。
「常識だから」「逮捕されたくないから」という理由で「人を殺してはいけない」という「常識」を受容している者は、人を殺すことこそが「常識」であるような状況になれば、もしくは人を殺しても法的な処罰を受けないような状況になれば、「常識だから」と言って平然と人殺しを許容してしまうかもしれない。1923年の関東大震災において、「不逞な朝鮮人が暴動を起こしている」という流言を信じ、数千人の朝鮮人を虐殺したのは、普段は「善良」な地域住民たちであった。また、原子爆弾の投下は、国際政治におけるアメリカの優位性を示威することを目的とした大量虐殺であり、「偉大な発明」を試してみたいという欲望から実行された人体実験に他ならないが、「より多くの命を救うためには必要だった」という「常識」を信じる者たちにとって、犠牲者たちは「殺されても仕方のない者」として扱われるのである。
だからこそ我々は、人を殺してはいけない理由などは存在せず、己には常にすでに人を殺すことが許されているという地平に立つ必要があるのだ。人を殺そうが殺すまいが自由であるということを承知したうえで、
「おれは人を殺さないし、誰にも人を殺させない」
という選択をし続けることだけが、「人を殺してはいけない」ということの唯一の倫理なのである。
このように考えた十四歳のおれは、社会に存在する一切の「常識」を破棄することに決めた。なにが「常識」であるかは、「常識は常識である」というトートロジーを否定し、すべてをゼロから思考することによって、自らの頭で再発明しなければならないものだ。その際には、人類が長年の歴史の中で積み上げてきた知の遺産が助けになってくれるだろう。我々のような凡人が思いつく程度の問題など、過去の偉人たちがとっくの昔に考え尽くしてくれているのだから、それを使わない手はない。そうして考え出された「常識」の内容が、社会に存在する「常識」の内容と一致するのであれば、改めてその「常識」を受容すればよい。そうすることによって初めて、ただのルールに過ぎなかった「常識」は、血の通った「倫理」となるのである。
ただ、「常識」を疑うことによって既存の枠組みから自由になることができたとしても、この世界が無意味であることに変わりはない。
「もはや人間は、神や世間から与えられた「常識」に縛られる必要はなく、自らの手で意味を創出することができる。これこそが人間に与えられた自由であり、人生の意味とは自らの手で獲得するものだ」
……このような自己実現的な人生観の奴隷となった者は、必ずや不条理な世界に裏切られる運命にあることは、すでに指摘した通りである。この世界が無意味であるということは、端的にこの世界は無意味であるということであり、それ以上でもそれ以下でもない。この無意味な世界に「意味」という砂上の楼閣を建設し、その中に自らを閉じ込めようとする試みはすべて、この無意味な世界からの逃避である。我々にできることは、この世界が無意味であることを明晰に把握したうえで、この無意味な世界を無意味なままに生きることだけである。問題は、そのような無意味な人生の中に、どうすれば幸福を見つけることができるかということだ。重要なのは意味ではなく、幸福である。
この世界には意味がないということは、「絶望的な結論」などではない。この世界に意味がないということは、この無意味な世界を生きるうえでの出発点に過ぎないのである。
おわり
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