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雑感7 「我々はなぜ投票するのか」

あなたの一票は未来を変えない

「あなたの一票が未来を変える!」

 といった選挙の標語があるが、これは端的に言って虚偽である。実際のところ、あなたの一票が未来を変える可能性は限りなくゼロに近い。ゆえに、未来を変えることを目的として投票行動を起こすことは、不合理極まりないナンセンスであると断言できる。
 わざわざ説明するまでもないが、これは単純な算数の問題である。例えば、小学校の算数の試験で、次のような設問があったとする。

Q:あなたの一票が選挙結果に影響を及ぼすとすれば、それはどのような場合か

 さあ、大きいお友達のみんなも一緒に考えてみよう!

 ポクポク

 チーン

 正解は……

A:投票する予定の候補者が当落線上にあり、その票差が1.0以内の場合

 大きいお友達のみんなは、ちゃんと正解できたかな? 分からなかった人は、小学校の算数の教科書からやり直そう!

 さて、これはあまりに当たり前すぎる話であり、さらなる説明は不要だと思うが、もう少しだけ念押ししておいたほうがいいかもしれない。というのも、票差がたった数十票であるような接戦選挙があると、それに付随して次のような訴えがなされることが多いからである。

「なんと、たったの50票差!」
「一票の重みがどれだけ大切か分かっただろう!」
「あなたが選挙に行けば結果は変わったかもしれない!」

 果たして、本当にそうだろうか。再び、これを小学校の算数の問題として考えてみよう。

Q:50票差で敗北した候補Aがいる。この選挙で投票行動を起こさなかった人が、「おれの一票が未来を変えるんだ!」と一念発起し、棄権せずに候補Aに投票していたとする。その場合、どのような選挙結果になっていたか

 ポクポク

 チーン

A:候補Aは49票差で敗北していた

 つまり、投票しようがしまいが、別に結果は変わらなかったのである。これは「たった2票差」だとしても同じことだ。一票が選挙結果に影響を与えるのは、厳密に票差が1.0以内の場合のみに限られるのである。
 すると当然、次のような反論が予想される。

「貴様は票差が1.0以内になった接戦選挙が実際にあったことを知らないのか!」

 もちろん、知っている。というか、ググれば普通に出てくる。「選挙ドットコム」の調査によれば、2022年の全国929選挙のうち、1.0票差以内で当落が決まった事例は7件あったらしい。

2022年、1票以内の僅差で決着した選挙の数は……?!「あなたの1票が、人生を、社会を、変える」

 しかし、これらはいずれも有権者の母数が小さく、また当選者が数十人も出るために、得票数が数百票のオーダーになる地方議会選挙における事例である。有権者の母数が大きく、当選者が1人か数人しか出ない国政選挙や知事選挙においては、得票数は数万票から数百万票のオーダーになるので、票差が1.0以内になることはまずない。もちろん、地方議会選挙も重要な選挙であることには違いないが、己の自治体において票差が1.0以内になる事象が発生する確率、さらに数十人の選択肢の中から偶然にも当落線上にある候補者に投票する確率というものを考えてみれば、一生のうちに「己の一票が選挙結果に影響を与えたぞ!」という経験をする確率は、限りなくゼロに近いと言って差し支えないだろう。

 これだけ説明すれば、あなたの一票が未来を変えないことは充分にご理解いただけたかと思うが、しかしそうなると、新たな疑問が湧いてくる。なぜ有権者たちは、己の一票が選挙結果を左右することはないと知りつつも、あえて投票行動を起こすのだろうか。
 現在の日本の国政選挙における投票率はだいたい50%前後であり、これは健全な民主主義社会が営まれるためには、あまりに低い数値であると言わざるを得ない。しかし、これまで議論してきた観点からすれば、半数もの有権者が不合理であるはずの投票行動を起こしているというのは、むしろ驚くべき現象であるように思える。五千万人もの人間が、自らの行動がまったく不合理であると知りつつも投票しているとは考えにくいし、かといって「一票が選挙結果を左右する」といった錯誤によって投票しているとも考えにくい。ヒトという種は、基本的になんらかの合理性に基づいて行動する生き物であり、まったく無意味で不合理であるような行動を取ることはほとんどない。一見すると不合理に見える行動にも、実はその裏に隠された合理性が存在するのが常である。となると、投票行動は選挙結果に影響を与えることを目的とした行為ではなく、まったく別の目的のためになされる行為であると考えたほうが自然である。

Q:では、一票が選挙結果に影響を与えることがないとすれば、投票行動を起こすことによって有権者が得られる利益とはなんであろうか

 今度は算数の問題ではなく、心理学の問題である。

 ポクポク

 チーン

A:有権者は投票行動を起こすことによって「選挙に行っていない人間」から「選挙に行った人間」へと質的な変化を遂げることができる

 そう、多くの有権者が投票行動を起こすのは、「選挙に行った人間」になるためなのである。投票行動によって選挙結果に影響を与えることは不可能であっても、少なくとも「選挙に行った人間」になることはできるのであり、そこになんらかの意義を見出すことができれば、投票行動は理に適った行為となる。そして「選挙に行った人間」になることにどのような意義を付与するかについては、三者三葉の考え方があり、そこには様々なバリエーションの合理化戦略が存在する。さて、人々は如何なる認知的操作によって「不合理な行動」を「合理的な行動」へと変換しているのであろうか。すべての戦略を網羅的に列挙することはできないが、これからいくつかの代表的な例を見ていくことにしよう。

1.なんか大人の義務?らしいから

 おれが初めて選挙権を得たのは、2012年の第46回衆議院選挙だった。おれの大学の同級生たちも初めての選挙権を得て、多くの者がその尊き権利を行使した。ただ、その投票行動の内容はたいてい以下のようなものであった。

「いやあ、とりあえず選挙に行ってみたけど、誰に入れていいか分からんかったからノリで適当に入れたわ!」
「うーん、とりあえず選挙に行ってみたけど、よく分かんなかったからなにも書かずに白紙で投票したよ」

 まあ、初めての選挙なんてこんなものである。おれが通っていたのは偏差値60前後の国立大学だったので、学生たちはみな、日本の国会が衆議院と参議院の両院性から成ること、議員の選出方法は小選挙区制や比例代表制などを組み合わせたものであること、比例代表制における票の配分にはドント方式が採用されていることなど、選挙制度それ自体については当然ながら知悉していた。だが、日本には現在どのような社会問題が存在するのか、日々流れてくる様々なニュースをどのように読み解けばいいのか、各政党のイデオロギーや政策にはどのような違いがあるのかなど、実践的な政治との関わり方については学校ではまったく教えてくれなかったので、国立大学に合格するほどの学力があったとしても、誰に投票すればいいかに関してはさっぱり分からなかったのである。

 初めての選挙で、「おれの一票で未来を変えてやるぞ!」と意気込んで投票する者など、よほど意識の高いごく一部の人間に限られるだろう。ほとんどの者は、別に未来を変えるために選挙に行ったのではない。彼ら彼女らは、「とりあえず選挙に行った」という事実を手に入れるためだけに、選挙に行ったのである。
 では、なぜ「とりあえず選挙に行った」ということにしたかったのか。それは、以下のような脅迫を日常的に受け続けているからである。

「選挙に行かないのは大人として恥ずかしいぞ!」
「せっかく手にした権利を無駄にするな!」

 このように煽り続けられれば、学生たちが次のような不安を抱くのも当然である。

「うーん、よく分かんないけど、やっぱ選挙とかって行ったほうがいいのかな?」
「なんか大人の義務?らしいし、とりあえず選挙に行ってみるか」

 そうして投票所へ足を運んだはいいものの、誰に投票すればいいのか、さっぱり分からない。掲示板のポスターを見ても、知らない顔ばかりである。「うーん、よく分からんけどこの人でいいか~」と、適当な人を選んで票を投じる。その選択が正しかったのかどうかはよく分からないが、とりあえずは「大人の義務」を果たすことができたので、これでもう「大人として恥ずかしい」といったそしりを受けるいわれはなくなった。だって、言われた通りちゃんと選挙に行ったのだから。

 こうした「なんとなくの義務感」で選挙に行くのは、なにも初めて選挙権を得た者に限った話ではない。2019年の第25回参議院選挙において、「NHKから国民を守る党」が比例代表で約99万票を獲得して国政政党になったことは、その証左であろう。このようなふざけた政党に票を投じた者たちが「一票で未来を変える」といった強い動機を持って投票所に足を運んだとは、とても考えにくい。「いや、おれは本気でN国党に期待していたぞ!」と主張する者がいるとすれば、その者はなにか重大な錯誤に陥っていると思われるので、むしろそちらのほうが問題は深刻である。N国党に関しては、「一票で未来を変える」と期待して投票した者よりも、「はは、おもろ」という軽いノリで投票した者のほうが、まだマシであるという逆説が成り立つのである。
 さて、このようなことを書くと、次のように批判する者がいるかもしれない。

 「他人の投票行動をジャッジする貴様は、いったい何様のつもりなのだ。たとえ、どのような理由で票を投じたのであろうとも、有権者の意思は尊重しなければならないはずだ」

 これは「建前」としてはまったく正しい意見である。すべての国民に奉仕すべき立場である政治家が「○○に投票する奴はバカだ!」などと発言したのであれば、その者には政治家をする資格がないし、おれも絶対に支持することはないだろう。また、自らが応援する政党を勝利させるために活動している者が、「〇〇に投票する奴はバカだ!」といった発言をすれば、「人をバカ扱いする排他的なキモい連中」と判断され、むしろ有権者の支持は離れることになるので、これは活動の戦略としては悪手である。だが、おれは「公人」ではなく単なる「私人」であるし、特定の政党を応援するような活動をしているわけでもないので、そのような「建前」を堅守する必要はない。

 2022年の第26回参議院選挙で、N国党から国会議員となった東谷義和こと「ガーシー」は、一度も国会に登院することなく除名処分となり、最終的に常習的脅迫の罪により逮捕された。また、2024年の東京都知事選挙において、N国党が「ポスター枠の販売」を行ったことは記憶に新しく、日本の未来を担うべき候補者の情報を伝えるはずの選挙掲示板は、低俗なビジネスと売名のための道具へと貶められ、国民の選挙制度への信頼が著しく損なわれる結果となった。N国党が「社会を善くしよう」という気など欠片も持ち合わせていない反社会的な集団であることは、火を見るよりも明らかであり、よほどのバカでもない限りこれに異論を唱える者などいないだろう。このように、投票行動を起こすことは「絶対的な善」ではなく、むしろ投票行動こそが民主制の破壊に加担してしまう場合もあるのだ。

 よって、おれは「選挙に行った人間は選挙に行かなかった人間よりも無条件で偉い」といった言説に賛同することはできない。政治に対して高い関心を持ち、考えに考えたうえで「棄権」を選択した者よりも、なんとなくの義務感で投票所に足を運び、「はは、おもろ」とその場のノリでN国党に票を投じた者のほうが偉いというのでは、前者にとってあまりに侮辱的である。

 ただ、繰り返しになるが、無思慮な投票行動の原因を有権者の資質に帰責するのは誤りである。日本の公教育は選挙制度の仕組みを教えるばかりで、どのようにして投票先を選択すればいいかについては教えてくれない。日本には「政治を語る奴はイタい」という空気が蔓延しているので、家族や友人と政治について議論を深めるような機会もほとんどない。日本はこのままでは立ち行かなくなってしまうこと、なんとかしなければならないことは重々承知しているが、「一票が未来を変える」と思わせてくれるような政党や政治家は存在しない。それなのに「選挙に行かないのは大人として恥ずかしい!」という圧力だけはかけられ、よく分からないまま投票所へ足を運ばされる。候補者や政党の一覧を見ても、どういう違いがあるのかまったく分からないが、いや、ひとつだけ確実に知っている存在があった。「NHKをぶっこわーす」とか言って話題を集めていたふざけた連中だ。「NHKから国民を守る党」などと名乗る集団が、社会を善くしようと本気で考えているとはとうてい思えないし、むしろ選挙制度そのものをバカにしているのは明らかである。だが、よくよく考えてみれば、そもそも選挙なんてバカらしいじゃないか。なにが「あなたの一票が未来を変える」だ、キレイごとを言いやがって。一票ごときで未来が変わるはずねえだろ、バカなのか。こんなくだらないことのために貴重な日曜日の時間を潰させやがって、けったくそ悪い。そうだ、あえてこのふざけた政党に「清き一票」を投じてみるってのはどうだ? クソくだらない政治や社会に対するおれの不信を、つまり「有権者の意思」とやらを正しく表明してやろうではないか。ざまあみさらせ!
 ……以上、N国党に投票していた別の世界線のおれをゲストにお招きし、N国党に投票したくなる心理を存分に語っていただいた。

 というわけで、別に「一票で未来を変える!」といった気概などなくとも、「なんとなくの義務感」で投票行動を起こすことは可能なのである。

2.民主主義国家の主権者としての矜持があるから

 以下は、2019年7月20日に父から家族LINEで送られてきたメッセージである。

「明日は参院選投票日です」
「必ず投票に行きましょう」
「もし支持する候補者や政党がなくても、白票を投じて意思表示をしてください」
「とにかく国民の権利を行使しましょう」

 おれの父は1958年生まれで、いわゆる「戦後民主主義」の残り香の中で育った世代である。父が若かった頃は、第二次世界大戦は教科書やテレビの中の「歴史」などではなく、親の世代から直接聞かせられるような最近の出来事であり、未だ生々しい現実であった。如何にして戦争を反省し、民主的で平和な社会を築くかといったことは、意識の高い人間たちのキレイごとではなく、実体験に基づく切実な課題として認識されていた。また、権力者は主権者たる国民の代理人に過ぎず、国民の監視が弱まれば暴走してしまう危険な装置であることを肌感覚で理解しているので、父の世代には民主制を脅かすような政治の動きに対して強い危機感を覚える者が多い。

 このような者たちにとって、選挙権は単なる権利ではなく、民主制を存続させるための必要条件であり、果たすべき「大人の義務」として把握されている。「選挙に行った人間」になることは、すなわち「民主主義社会の構成員としての資格を持つ一人前の大人」であることの証明なのであり、「選挙に行かなかった人間」になることは、世間が許そうとも己の矜持が許さないのである。こうした矜持を持つ戦後民主派たちにとっては、己の一票が選挙結果に影響を与えるかどうかという実効性よりも、「恥ずかしくない立派な大人でありたい」という倫理こそが中心的な問題となる。

 年長世代が「若者よ、選挙へ行こう!」と口酸っぱく諭す背景には、実はこのような理路が隠されていたのであった。だが、今や第二次世界大戦など「歴史」の中の出来事であり、そこにはなんのリアリティーもない。地域社会はとっくの昔に崩壊し、隣の部屋に住んでいる者の顔さえ分からない。バブル経済が弾けてから三十年以上も経済は停滞したままであり、日本の明るい未来なんてものは生まれから一度も想像したことがない。見知らぬ者たちの人生を気遣うような余裕などあるわけがなく、己の将来の不安に対処するだけで精一杯である。そもそも、政権批判などは「イタいサヨク」のすることであり、政治など考えるだけ時間のムダだ。政治に文句を言う暇があるなら、まずは己の半径数メートルの日常をより善いものにする努力をしたらどうなのか。

 年長世代の「選挙へ行こう!」という呼びかけが若者に通用しないとすれば、それは理屈の問題ではなく、生きてきた時代があまりに違いすぎるからであろう。一人一人が主権者意識を持たなければ民主制は崩壊してしまうという理屈は、なるほどその通りかもしれないが、いまいちリアリティーが感じられないし、自分とは関係のない話のように聞こえる。民主制が想定する「立派な大人」になったところで、別に飯が食えるようになるわけではないし、だからどうした話だ。

 よって、年長世代が若者世代へ自分たちの価値観を伝達したいと思うのであれば、まずは世代間にどのようなギャップがあるのかを正確に把握する必要がある。当たり前だが、若者世代には年長世代の体験が欠けているし、年長世代には若者世代の体験が欠けているのだ。そして、自分たちの価値観を伝達するための前提条件となる体験が若者世代に欠けているのであれば、理屈で説得するよりも先に、その欠けた体験を補完するための工夫をしなければならない。そのためには、映画や漫画などが役に立つだろう。おれだったら「選挙に行こう!」と説教するよりも、「この漫画おもしろいから読んどいて」と言って、新井英樹の『キーチ!!』でも渡すかな。

3.政治に文句を言う権利を獲得するため

 おれが小学六年生のとき、「私たちは選挙に行くべきか、行かないべきか」という議題を社会科の授業で討論させられたことがあった。

「一人一人が意志表示することが大切なので、行くべきだと思います」
「一票を投じたところで社会は変わらないので、別に行かなくてもいいと思います」

 このような「言わされてる感」たっぷりの当たり障りのない議論が続いたあと、担任の教師が次のような言葉で討論を締めくくった。

「選挙権はあくまで義務やなくて権利やから、行っても行かんくても、どっちでも好きにしたらええわ。ただなあ、選挙に行かんかった奴は、政治でなにがあろうと絶対に文句言うなよ! 政治に文句言いたいんやったら、ちゃんと投票せなアカンぞ!」

 「なるほどなァ」と当時は感心したものの、この教師が「教育」の名のもとに行ってきた悪逆非道の数々を思い返せば、いったいどの口が言うのかと呆れ果てるほかない。この教師は「シャーペン=絶対悪」という異常な信仰の持ち主だったので、生徒のシャーペンの持ち込みが発覚するたびに、見せしめとして生徒が泣きじゃくるまで罵倒した。運動場での全体朝礼から教室へ戻る際には、軍隊式の行進を生徒に強要し、隊列の乱れやだらしないフォームを見つけると、やはり罵倒して何度も行進のやり直しをさせた。教科書などそっちのけで、道徳の授業を自らの「説教タイム」として濫用し、少しでも癇に障ることがあると、教卓の椅子を蹴飛ばして生徒を怯えさせ、我こそがゲバルトを独占する権力者であることを幾度となく誇示してみせた。教師が正義と考えることはすべて絶対的な正義なのであり、臣民である生徒には抗弁する権利などあるはずもなく、疑いを差し挟む余地さえ与えられなかった。このような戦前のドイツや大日本帝国が採用した抑圧的な規律訓練こそが教育であると思っているような人間が、悪口雑言によって生徒の尊厳をズタズタに引き裂いたのと同じ口で「個性を大切にしよう!」「投票して自分の意思を示そう!」などと宣っているのである。日本に民主主義がなかなか根づかないとすれば、それは貴様の中に巣食っている帝国主義にこそ原因があるのであり、このような教師に民主主義を語る資格などないのである。

 ……話が逸れてしまったが、「投票しなかった者に政治に文句を言う権利はない」というのは、選挙に行く理由の説明としてはポピュラーなものである。もしこの理屈が正しいのであれば、たった数十分の散歩をするだけで、向こう数年間の「政治に文句を言う権利」が獲得できるわけだから、政治に文句を言いたい人にとって、これは投票行動を起こすための充分なインセンティヴになる。

 ただ、選挙権はあくまで義務ではなく権利であり、「投票しなかった者に政治に文句を言う権利はない」というのは、その人が勝手に考えた独自ルールでしかない。政治に高い関心を持っているが、考えに考えた末に「棄権」を選択した者には「政治に文句を言う権利」がなく、政治にはまったく興味はないが、なんとなくの義務感で投票所に足を運び、その場のノリで投票した者には「政治に文句を言う権利」があるというのでは、あまりに不当であろう。重要なのは「選挙に行ったかどうか」ではなく、高い関心を持って政治に関わり続けることなのだから、選挙へ行こうが行くまいが、政治に文句を言いたければ別にいつでも自由に文句を言っていいのである。ただ、「投票しなかった者に政治に文句を言う権利はない」という独自ルールを勝手に信じる分には特に害はないし、それが選挙に行くためのインセンティヴになるのであれば、そのように信じてみるのも悪くないだろう。

4.応援したい人がいるから

 その昔、「AKB48選抜総選挙」というものがあった。これは要するに、投票券つきのCDをファンに何枚も買わせることで、オリコンチャートを占拠しようという秋元康のあくどい商売なのだが、その商法が天才的であることは間違いなく、中には実効的な影響力を及ぼそうと千枚以上のCDを買う者も現れ、投票総数は最多で380万票にも及んだ。さてここに、CDを「大人買い」するほどの資金力はないが、それでも自らの「推し」に清き一票を投じようとしているAKBオタクがいたとする。候補者の得票数は数千票から数十万票のオーダーになるので、彼の一票が選挙結果を左右することはまずないだろう。そんなAKBオタクに、次のように問いかけたとする。

「投票とかして意味あんの? 別にお前の一票で結果が変わるわけでもないでしょ」

 すると、AKBオタクは次のように答えるはずだ。

「バカヤロウッ!!!!!!!!!!!!!!!」

「こういうのはなッ!!!!!!!!!!!!!」

「応援したいという気持ちが大切なんだッ!!!」

 そう、心から推したいと思う候補者がいる者にとっては、己の一票が結果に影響するかどうかなど、心底どうでもいいことなのである。この者たちにとっては、応援したいという気持ちを一票に込めることこそが大切なのであり、仮に「推し」が勝利することができなかったとしても、頑張って戦っている「推し」の姿を眺められたというだけで、そんな「推し」を応援する一人になれたというだけで、投票に対する充分な見返りとなるのである。

 アイドルオタクの比喩ではよく分からない人もいるだろうから、例えば、あなたの親友が市議会選挙に立候補することになったとしてみよう。

「おれ、次の市議会選挙で立候補しようと思ってるねん」

 このように親友に打ち明けられれば、たとえノンポリであっても、誰もが次のような反応するのではないだろうか。

「え、マジで!? おれ政治とかよう分からんけど、選挙では絶対にお前に投票するわ!」

 そして、己の一票が選挙結果を左右することはないと知りつつも、己の一票が親友を勝利に導いてくれますようにと、祈りを込めて票を投じるのではないだろうか。

 こうした「実効的な意味はないと知りつつもせずにはいられない行為」の例としては、他にも大きな災害があった際の寄付が挙げられる。数億円規模の寄付が集まる募金に対して、千円ぽっちを寄付したところでマクロには影響しないだろうし、ミクロには己が金銭的に損をするだけである。だが、災害に見舞われた人々のことを思って心を痛め、少しでも助けになりたいと考えている者にとって、そのような実効性や損得に関する勘定などは、脳裏をよぎりもしないだろう。

 このように、己の損得を超えてコミットしようと思える候補者がいる場合は、「選挙に行った人間になる」といった自意識的な目的は必要ではなくなる。「地球のみんな!元気を分けてくれ!」という悟空の呼びかけに自分一人が応じなかったとしても、超元気玉の威力にはほとんど影響がないだろうし、魔人ブウを撃破することは充分に可能であっただろう。だが、それでも元気を分けたくなるのがヒトという生物のサガなのであり、このような見返りを求めない贈与には或る種の崇高性が宿るのである。まあ、実際は悟空ではなく、ミスター・サタンのために元気を分けたのだったが。

 ただ、このような「推し活」的な投票行動は、必ずしも褒められたものではなく、大いなる危険性を内包したものであることは指摘しておかねばならないだろう。なぜなら我々が生きているのは、ポピュリズムによって今まさに民主制が破壊されようとしている時代だからである。今やYouTubeやTikTokなどの動画サイトは政治に関する主要な情報源となっているが、そこに氾濫しているのは、人々の鬱屈した感情を刺激することによってアテンションを稼ごうと企むポピュリスト政治家や言論人たちの扇動的な言葉だ。

「今まで政治に興味がなかったけど、やっと支持したいと思える政治家が出てきた!」

 このように生まれて初めて内発的な動機付けを与えられ、「おれの一票が未来を変えるんだ!」という祈りを込めて投票した先は、アドルフ・ヒットラーやドナルド・トランプのような人物であるかもしれない。もしくは、ワクチンには実はマイクロチップが埋め込まれているとか、世界の支配層はすべて爬虫類人間によって乗っ取られているとか、荒唐無稽な理論を唱える陰謀論者という可能性もあるだろう。

 あまり極端な例ばかり挙げると「そんなアホに引っかかるわけねえだろ」と否認されてしまうので、もう少し広範な人々にも当てはまる話をしよう。現代人のほとんどは、なんらかの鬱屈した感情を抱えながら生活をしている。政治やマスコミに対しては強い不信感を抱いており、「支持したいと思える政党や政治家が存在しない」というのが決まり文句だ。だが、「支持したいと思わせてくれなければ政治に関心なんか持てません」という態度は、もはや主権者意識などではなく、ただの消費者根性である。「一票で未来を変えよう」といった従来の標語が心に響くことはないが、最もフィジカルで最もプリミティブで最もフェティッシュなやり方を採用しさえすれば、実はこのような鬱屈した感情を抱えた消費者たちを政治的に動員することはそう難しくない。既存の政治体制や「マスゴミ」を舌鋒鋭く批判し、分かりやすくて歯切れのいい言葉でスカッとさせてやればいいのである。相手は己が「政治家として充分な資質のある人間」かどうかを精査する主権者ではなく、精神的な慰撫を求めるだけの単なる消費者なのだから、言葉の中身など空っぽでも一向に構わず、「世直ししてくれそうな雰囲気」を醸し出すだけで充分なのである。そうして既存の政治体制や「マスゴミ」を容赦なく痛罵したときとは打って変わって、支持者向けの配信では「人間的でお茶目な一面」や「カワイイはにかみ顔」を見せてやれば、それで一丁上がりである。

 こうしたポピュリストや陰謀論者の支持者たちは、意識的には「おれは社会を善くするために真剣に政治を考えているぞ」と思い込んでいるのだが、無意識的には己の鬱屈した感情を慰めてくれるポルノとして政治を利用しているだけに過ぎない。政治の本来の使用方法は、社会を善くするためのツールとして活用することであり、そのためには「どうすれば公共の利益を実現できるか」ということを一人一人が真剣に考える必要があるのだが、そんな面倒なことをしたところでなにかリターンがあるわけではないので、これは消費行動としては不合理である。ミクロな消費者の観点からすれば、マクロな合理性のために己の欲望を律するよりも、己の鬱屈した感情を慰めてくれるポルノとして政治を消費してしまったほうが、実は合理的なのだ。

「そうだそうだ! おれたちの正しさを理解することができず、あんな政治家に簡単に騙されてしまう連中はみんなバカだ!」

 一部の左派はこのような同意を示すかもしれない。だが、「おれたちは正しいのに世間が理解してくれない!」と嘆くばかりで、どのようにすれば支持のウイングが広がるかを真剣に考える気などなく、閉じたサークルの中で自分たちの「正しさ」を確認し合うことに安住しているのであれば、こうした一部の左派も同じ穴のムジナに過ぎず、実質的には政治によって精神的な慰撫を獲得しているだけの存在であることに変わりはない。

 そうなると、政治とは距離を置くようにすることこそが「安牌」となる。ノンポリを貫けば、民主制が想定するような「立派な主権者」になる可能性は断たれるが、その代わり「イタいウヨク」や「イタいサヨク」になる可能性はなくなるし、ポピュリストに踊らされるバカになる可能性もなくなる。「もう恋なんてしない」と決心すれば、二度と失恋によって傷つくことはないように。だが、失恋を重ねながらも恋愛にコミットし続けることがなければ、人を愛するということに習熟することはないように、誤った政治家を支持してしまったり、誤った政治活動をしてしまったり、そうした恥ずかしい失敗を重ねることがなければ、政治に習熟することは永久にできない。なんやかんやとイチャモンをつけてきたが、「この人なら日本の政治を変えてくれるかもしれない」と思える政治家がいるのであれば、まずは信じて飛んでみることだ。もちろん、反省も忘れずに。

5.もったいないから

 飲み会の席では、おれは残飯処理係に徹することにしている。友人や同僚との会話を楽しんだり、いろんな種類の酒を嗜んだりするのは二の次だ。飲み会において米一粒たりとも残飯を発生させないこと、それこそが天からおれに授けられた使命なのだ。

 牛肉や豚肉を食べるということは、牛さんや豚さんの命を食らうということである。牛さんや豚さんは、ごみ箱に廃棄されるために殺されたのではない。また、世の中には満足に食べることもできない人々が大勢いる一方で、別のところでは有り余った食材を大量に廃棄しているという現実は、あまりにグロテスクである。

 もちろん、おれが残飯をすべて処理することができたとしても、殺された牛さんや豚さんが生き返るわけではないし、ひもじい思いをしている者たちの腹が膨れるわけでもない。ただの自己満足である。それどころか、無理して食べても別に美味しくはないし、腹が膨れすぎて苦しくなるだけだし、翌日には皮下脂肪や内臓脂肪が増加するだけだし、良いことはなにひとつない。そもそも「残さず食べる」というのはローカルな道徳に過ぎず、それが正しいのかどうかは疑問である。それでも、目の前の食材が廃棄される未来を想像するたびに、「もったいない」という強迫観念が頭をもたげ、今日もおれを残飯処理へと駆り立てるのである。

 これは選挙権についても同じことが言える。選挙権は天や地から降って湧いたものではなく、先人たちの血のにじむような努力の末に獲得された、かけがえのない市民の権利である。今年話題を集めた『虎に翼』というドラマでも描かれていた通り、1925年に成立した普通選挙法が主権者と認めるのは「満25才以上男子」のみであり、戦前の女性たちには政治に参加する権利は与えられていなかった。彼女たちが選挙権を行使できるようになるためには敗戦を待たねばならなかったが、1946年の衆議院選挙ではようやく手にすることができた権利を行使しようと、66.97%の女性有権者が投票所へ足を運び、そして39人の女性議員が誕生した。もちろん、明治より以前には男性にも選挙権はなかった。

 さて、このような歴史を振り返り、我々が「タダ」で手にしている選挙権は、先人たちが喉から手が出るほどに渇望していたものであることを知ると、そのような貴重な権利を行使することなくドブに捨ててしまうというのは、どこか冒涜的であるように感じられる。己の一票が選挙結果を左右することはまずないし、己が選挙権を行使したところで過去の人々に選挙権が与えられるわけでもない。それでも、目の前の一票が廃棄される未来を想像するたびに、「もったいない」という強迫観念が頭をもたげ、今日も我々を投票所へと駆り立てるのである。

 ただ、「選挙権は天や地から降って湧いたものではなく、先人たちの血のにじむような努力の末に獲得された」と述べたが、この表現は正確ではない。明治時代における日本の近代化は、一部の下級武士や知識層の主導によってトップダウンで行われたものであり、日本国憲法や女性参政権なども、戦後のGHQの占領政策によって与えられたものであるというのが実情だ。憲法や選挙権にいまいちありがたみを感じられないとすれば、それらが「歴史の中で勝ち取られてきた貴重な権利」ではなく、「天から降ってきたもの」だからである。

 多くの民主主義国家は、選挙権を自らの手で勝ち取ってきた歴史を持っているので、選挙権を与えてくれた先祖たちを誇りに思いながら投票するということができる。しかし、残念ながら日本は自らの手で選挙権を勝ち取ってきた歴史を持たない国なので、せいぜいできるのは、選挙権を与えられなかった過去の人々たちに思いを馳せて、「もったいない」と思いながら投票することくらいなのである。

6.投票行って外食するため

 日曜日は選挙に行ったご褒美に、寿司か焼き肉でも食べに行こうかな……

7.投票を呼びかけたいから

 「あなたの一票が未来を変える」という言説は虚偽であると冒頭に述べたが、しかし「あなたの一票が未来を変える」と有権者に広く訴えかけること自体は、とても合理的で有効な選挙戦略であると言える。というのも「おれの一票で未来が変わるかもしれない」という期待を千人の有権者に抱かせることに成功すれば、千票もの票が動くことになり、これは投票結果を左右し得るだけの充分な物量となるからである。それだけではなく、心を動かされた有権者たちがさらに他の有権者たちに投票を呼びかけるといったネズミ算式の波及効果も期待できるので、その威力は絶大である。
 しかし、「選挙に行こう!」と投票を呼びかけている者が、実は選挙に行く気がないことが判明したらどうなるだろうか。

「みんな選挙に行こう!!!」
「ふーん、行ってみようかな」
「そうだ、選挙は大事だ!!!」
「参考までに誰に投票する予定か教えてくんない?」
「おれは行かない!!!」
「えっ」
「みんな選挙に行こう!!!」
「えっ」

 ……これは流石に意味不明であろう。選挙で未来を変えたいのであれば、なによりもまず多くの有権者に投票を呼びかけることが肝要となるが、しかし他者に投票を呼びかけるためには、まずは自分自身が投票していなくては示しがつかない。投票を呼びかけたい者たちにとって、「選挙に行った人間」になることは政治活動のために絶対不可欠な条件となるので、雨が降ろうが槍が降ろうが、彼ら彼女らは這いつくばってでも投票所へ足を運ぶのである。

 ただし、「選挙に行こう!」と呼びかけるだけでは、むしろ逆効果になる可能性が高いことは指摘しておこう。おれが初めて選挙権を得たのは2012年の第46回衆議院選挙であると先に述べたが、実はおれはこの選挙では誰にも投票することなく棄権している。というのも、住民票を地元から大学の下宿先へ移していなかったため、不在者投票の手続きをするのが面倒だったからである。
 さて、「選挙に行こう!」という呼びかけを行うのは主に左派であるが、もしおれが左派の呼びかけに応じて不在者投票を行っていたとしたら、結果はどうなっていただろうか。

「若者よ、選挙に行こう!」
「えー、不在者投票の手続きめんどい」
「貴様も成人した立派な大人だろう! きちんと有権者としての意思を示せ!」
「うーん、わかった」
「よし! これで打倒・自民党に向けてまた一歩前進したぞ!」
「投票してきたよー」
「えらい! 君は有権者のかがみだ!」
「自民党に」
「えっ」
「やっぱり意思を示すのって大切だよね」
「違う! そうじゃない!」
「えっ」
「自民党に投票するなんてバカか貴様は!」
「は? 意思を示すことが大切なんでしょ? これがおれの意思なんだが?」
「バカ! おたんこなす! あんぽんたん!」
「なんやねんコイツ、きっしょ」

 2012年と言えば、「2ちゃんねるまとめサイト」の全盛期である。当時の「まとめサイト」はネット右翼的な思想が支配的だったので、ネット文化に親しんでいる若者のほとんどはマイルドなネット右翼と言ってよかった。「ミンス党」を支持するような連中は頭がお花畑の情弱バカであり、ちゃんと「ネットde真実」を知っている賢い「現実主義者」たちは自民党を支持するものである……ヘイト・デモをするようなガチガチのネット右翼には冷めた視線を投げかける者であっても、このような世界観についてはしっかりと共有していた。
 2012年におれが棄権したのは、どうせ自民党が勝つことが分かり切っており、そのことに対して別に不満もなかったからである。よって「選挙に行こう!」という呼びかけに応じていたとしても、左派の期待とは裏腹に、おれは自民党に投票していただろう。そして2014年の第47回衆議院選挙では、住民票を移し終えて郵便受けに投票券が届いていたので、おれはかけがえのない市民の権利を行使し、きっちり自民党に投票している。喜べ! 言われた通りちゃんと選挙に行ってやったぞ!

 そもそも、なぜ左派が「選挙に行こう!」というキャンペーンに熱心なのかというと、それは自民党を支える「組織票」に対抗するためである。例えば、絶対に自民党に投票する人が20万人、絶対に民主党に投票する人が10万人いる選挙区では、民主党は差分の10万票を無党派層から調達しなければ勝利することはできない。だからこそ左派は無党派層へ向けて懸命に投票を呼びかけるのであり、自民党は「どうか無党派層は寝ていてくれ」と祈るのである。2009年における政権交代は、無党派層の多くが選挙に行って民主党に投票し、69.28%という高い投票率が実現したからこそ可能になったのであった。

 ただ、ここで重要なのは、無党派層の支持を集めた「結果として」投票率が上がることに意味があるのであり、投票率それ自体を上げることに意味はないということである。ふだん棄権している者たちの潜在的な投票先が民主党であれば、なるほど投票率の上昇は民主党を利することになるだろうが、潜在的な投票先が自民党であれば、当たり前だが投票率の上昇は自民党を利することになるのである。

 こうした前提をまったく踏まえていない、投票率を上げることそれ自体を目的化した議論を見ると、本当に呆れ返ってしまう。例えば、「ネット投票を導入すれば確実に投票率が上がるのに、どうしてやらないんだ!?」といったものだ。国民の主権者意識が高まり、貴重なプライベートの時間を削ってまで投票所へ足を運ぼうと思う者が増えた結果として、投票率が上昇するのであれば、確かに社会は善くなっていくに違いない。だが、投票行動の物理的なハードルを下げることによって投票率が上がったとしても、投票所まで足を運ぶのを億劫に思うメンタリティーが温存されたままであれば、社会が善くなるはずなどないだろう。むしろ、投票所へ行くことさえ面倒に思う者が政治参加するようになれば、利益を得るのはポピュリスト政治家やN国党のようなふざけた政党であり、社会が悪くなる可能性のほうが大きい。
 ネット投票に関する議論については、それが身体の障害や疾病のために投票所まで行くことが困難である者や、高いコストを払わなければ投票できない海外在住者のための措置なのであれば、おれは全面的に賛成である。だが、「投票率が上がるから」などという理由でネット投票を導入しようというの本末転倒であり、あまりに思慮が浅いと言わざるを得ない。

 つまり、選挙に勝つために無党派層を取り込みたいと考えているのであれば、「選挙に行こう!」という毒にも薬にもならない呼びかけではなく、己が応援している政党への投票を促すような呼びかけをしなくてはならない。では、どのような呼びかけをすれば、己が入れてほしいと思っている政党への投票を促すことができるのだろうか。

「選挙に行かないのは大人として恥ずかしいぞ!」
「せっかく手にした権利を無駄にするな!」
「〇〇に投票する奴はバカだ!」
「打倒自民党!」

 こうしたオールド左派的な呼びかけは、もはや現代の無党派層にはまったく訴求しないものであることは、すでに見てきた通りである。SNSで流れてくる左派の投票への呼びかけは、放っておいても左派系の野党に投票するような層だけが「そうだそうだ!」と同意するような内容ばかりで、本当に無党派層に言葉を届ける気があるのかとウンザリしてしまう。少なくとも、別の世界線で生活している無党派層のおれに関しては、左派の言葉によって心を動かされる可能性は99%ないと断言できる。

 もちろん、これが社会運動などであれば、世間の顰蹙を買ってでも「正しいこと」を堂々と主張すべきであろう。社会運動家たちは、実際にそのようにして世の中を少しずつ変えてきたのであり、おれはそうした人々のことは心の底から尊敬している。だが、選挙の目的はなによりもまず「勝利すること」である。選挙で勝利することができなければ、左派が求める「正しいこと」はいつまで経っても実現することはない。いくら「正しいこと」を主張しようとも、負けてしまえば意味はないのだ。選挙においては勝利に資するような手段だけが「正しい」のであり、なにが目的に対して有効な手段であるかについては、冷徹な判断を下さなければならない。
 これは「勝つためには汚いことでもなんでもやれ」と主張しているのではない。少し混乱してきたので、「正しい/正しくない」「勝てる/勝てない」という二軸のマトリックスによって、以下の4つの戦略に整理してみよう。

①正しい&選挙に勝てない戦略
②正しい&選挙に勝てる戦略
③正しくない&選挙に勝てない戦略
④正しくない&選挙に勝てる戦略

 ①は内輪だけで盛り上がっているツイッター左翼の言動のことだ。④はドナルド・トランプのようなポピュリスト政治家の言動のことであり、自民党の「裏金」スキームもここに含まれるだろう。③はどうでもいいので放っておく。要するに、選挙に勝って世の中を変えたいのであれば②を採用しろということだ。

 例えば「野党は批判ばかりだ」という意見があったとする。それに対する「正しい」応答は次のようなものである。

「野党は批判をするのが重要な仕事のひとつだ。自民党だって野党時代には立派に批判をしていたぞ」

「それになんでもかんでも批判しているわけではない。例えば立憲民主党の法案賛成率は80%であり、批判しているのは問題のある法案だけだ」

「不正や汚職などの犯罪行為であれば批判するのは当たり前の話だ。なぜ犯罪者を糾弾せずに批判者を糾弾するのか」

 これはまったく正しい反論であり、おれも100%同意する。だが、このような「正しい反論」をしたところで、「やっぱり野党は批判ばかりだ」となるだけである。不正や汚職を問題視する人であっても、自民党が犯罪者集団であることは「知ってた」という話なので、毅然と批判をする態度を見せつけれられても、「そんな批判は誰でもできる」としか思わない。重要なのは「野党は批判ばかりだ」というイメージが現実に有権者の中に存在するということであり、そのイメージによって多くの票を失っているという事実なのである。「正しいこと」を言うだけでは片手落ちなのだ。
 「私たちは毅然として批判をします!」といった態度は、はっきり言って有権者にはウケない。有権者たちは、正確には「批判ばかり」であることに反応しているのではなく、「批判の仕方」にこそ反応しているのである。例えば、石丸伸二や橋下徹のような元政治家たちは、いろいろな物事について舌鋒鋭く批判しているが、彼らが「批判ばかりだ」と言われているのは見たことがない。それは「有権者にウケる批判の仕方」をしているからだ。左派は「批判の内容が正しいかどうか」に拘泥するばかりで、それが「有権者に伝わる批判の仕方になっているかどうか」ということに関しては、まったく無頓着なのである。もちろん、有権者の俗情に媚びろと言っているのではない。「正しさ」はそのままに、なおかつ面白い批判を工夫せよということだ。

 ただ、「批判の仕方」を改善することができたとしても、それだけでは選挙には勝てないだろう。なぜなら有権者が求めているのは、汚職議員が払拭されて国会や行政が正常化することではなく、いま目の前の生活が改善されることであり、そのために有効な経済政策を打ってくれることだからである。

「いやいや、左派だって現実的で有効な経済政策をたくさん公約に掲げているぞ!」

 確かにその通りだろう。だが、どれだけの有権者が左派の経済政策について知っているのだろうか。左派に対して「政権交代が起これば確実に有効な経済政策を打ってくれる政党」というイメージを持っている者はほとんどいないだろうし、それよりも「批判ばかり」のイメージが勝っているのである。やはりここでも重要なのは、「有効な経済政策を掲げているかどうか」ではなく、実際にそのようなイメージを持たれているかどうかなのである。

 まあ、この程度のことは、選挙活動をしている者たちが誰よりも身に染みて分かっていることであろうし、ここまで述べたのは完全な素人考えによる意見である。ただ、左派をそのような目線で見る有権者が一人存在するということも、また事実なのである。

8.歴史の審判に備えるため

 1932年7月のドイツ国会選挙において、国民社会主義ドイツ労働者党が第一党となったのは、民衆の支持を集めて合法的な選挙で勝利した結果であった。このような事実を初めて知ったとき、おれは次のように思ったものだ。

「おれが当時を生きていれば、絶対にナチスになんか投票しなかったね!」

 だが、これはすでに「正解」を知っている者による後出しジャンケンに過ぎない。もしも1945年8月14日にタイムスリップして上官に特攻を命じられれば、おれはなんとしてでもその命令を回避しようとするだろう。なぜなら次の日には敗戦することを知っているからである。だが、1945年8月14日をリアルタイムで生きていたなら、次の日に戦争が終わることを知ることはできない。近い将来に本土決戦となり、一億が火の玉となって玉砕すると信じているかもしれない。いずれ死ぬのであれば、ここで鬼畜米英に特攻を仕掛けて、少しでも本土決戦が有利になるよう華々しく散ってやろうと考えるかもしれない。己がどのような行動をするかについては、実際にその時代を生きてみなければ分からないのだ。

 1932年のドイツを生きていれば、おれもナチスに投票していたかもしれないし、していなかったかもしれない。それを証明することは不可能だ。それはすでに「歴史」の中の出来事となっているからだ。
 だが、今まさにこの瞬間も「歴史」の中の出来事なのではないか。数十年後から見れば、今まさにこの瞬間こそが歴史の教科書に載るような重要な岐路なのであり、未来人たちは次のように毒づいているかもしれない。

「気候危機が現実のものとなっていることは明白だったのに、そしてそれに対処する方法もすでに解明されていたのに、どうして気候危機を止められなかったんだ!? バカなのか!?」

「どうしてあんなポピュリストの台頭を許してしまったんだ!? どう考えたってヤバイ奴だったじゃん! バカなのか!?」

「おれだったら絶対にそんな選択はしなかったね!」

 だが未来人よ、それは「正解」を知っている者による後出しジャンケンである。歴史の中を生きている我々からすれば、どのような選択をするのが「正解」であるのか、そもそもこの瞬間が歴史の分岐点であるのかどうかさえ、分かってはいないのだ。それでも未来人よ、おれは「正解」を選択した側の人間でありたいとは思っている。おれの一票によって未来が変わることはないだろう。気候危機は止められないし、いずれはポピュリストが社会を滅茶苦茶に破壊してしまうだろう。「正解」を選択した側の人間でありたいというのは、ただの自己満足であり、あなたは我々の世代を恨むかもしれない。それでも、おれは「正解」を選択した側の人間でありたいのだ。

9.単純に楽しいから

 「今日から1年以内に365本の映画を見てください。さもなければ死にます」

 このような呪いをかけられたとしても、おれは別に困らない。もともと映画鑑賞は趣味のひとつであり、年間400本くらい映画を見ていた時期もあったので、「まあ、今日から1日1本ずつ映画を見るようにするか~」と思うだけである。しかし、映画鑑賞などほとんどしたことがない者にとっては、これは地獄であろう。

「うわ、あと30日しか残ってないのにノルマが120本も残ってる……おれは死ぬんだ……」
「くそ、なんで映画なんてくだらないものを何百本も見なきゃならんのだ……ふざけやがって……」

 これは政治についても同じことが言える。おれが政治に関心を持っているのは、いわゆる「意識が高い」といった要素もあるだろうが、それよりも単純に好きだからという理由のほうが大きい。余暇の時間に映画を見たり音楽を聴いたりして楽しむように、日々政治のニュースを追うことも、投票所へ足を運ぶことも、おれにとってはすべて趣味の一環なのである。

「市民としては現代ほど気が滅入る最悪な時代はないんだけど、でも学者としてはこれほど面白い時代はないんだよね~」

 このようなことを述べる政治学者は多い。世界中で痛ましい紛争が起こっているし、経済は停滞して格差は広がるばかりだし、おそらく気候危機を止めることはできず地球環境は取り返しのつかない状態になるだろうし、アメリカではドナルド・トランプのような人物が大統領になってしまう始末だし、現代というのは本当にろくでもない時代だ。だからこそ、これほど研究しがいのある時代もないのである。

「ゾンビウイルスが研究所から流出して世界が滅茶苦茶になんねえかな~」

 このような妄想に浸ったことのある者は多いだろう。まあ、生きるか死ぬかの極限のサバイバル状態において、自分だけは死なずに生き残って「ヒーロー」になれるだろうと想定するのは、いわゆる「楽観バイアス」であり、実際にはほとんどの者が開始10分くらいで死ぬことになるだろう。しかし、生きる屍によって既存の社会システムがすべて崩壊してしまった世界というのは、ぬるま湯に浸かったなんの手ごたえもない時代に比べれば、やはり「面白い時代」であることには違いない。

 「支持したいと思える政党や政治家が存在しない」からといって、「政治に興味が持てない」という結論が導かれるとは限らない。「支持したいと思えないクソ政治家ばかりだ」と認識したうえで、「だからこそ面白い」といった発想をすることも可能なのである。不正を徹底的に追及され、もはや言い逃れ不可能となった政治家が「最後っ屁」として放つエクストリームな自己弁護は、下手なお笑い芸人のギャグよりもずっと面白い。おれがニュースをネタに「床屋政談」をしているYouTube番組をよく見るのは、「一票で未来を変えるぞ!」といった使命感に燃えているからではなく、雑談そのものが娯楽として面白いからである。

 かつてイギリスには「コーヒーハウス」と呼ばれる社交の場があり、そこに集った人々は様々な情報を交換し、政治的な議論を戦わせることで「世論」を形成していった。彼ら彼女らには「社会をどう変革していけばよいか」といった使命感も当然あっただろうが、人々と交わす知的な会話そのものを楽しんでいたという側面もあっただろう。中には「ちゃんと流行のドラマを追っとかないとクラスの会話についていけなくなる!」という現代人と同じような通俗的な動機で、みんなと話を合わせるために政治に関する情報を仕入れていた者も存在しただろう。このような社会においては、友人との知的な会話を楽しみたいという動機によって、政治に関心を持つことが可能となるのである。

 翻って、「政治を語る奴はイタい」とされる社会においては、政治に関心を持とうという動機を獲得することは困難となる。頑張って政治的な知識を蓄えたところで、「イタい」と思われてしまうので、それを友人と共有することはできない。できるのは、ただ一人虚しくスマートフォンの画面越しに世を憂うことだけである。そんなつまらなそうなことを、わざわざ余暇の時間を削ってまでするのはバカげている。

 また、政治の話ができる友人がいなければ、「なにが真実であるか」といったことは、ほとんど価値を持たなくなってしまう。政治の話ができる友人がいれば、「うわ、そんなデマに踊らされてんのかよ」と恥をかくことを避けるために、情報の真偽には細心の注意を払おうという動機が生まれる。だが、そのような友人がいなければ、誤った情報を信じてしまったとしても恥をかくことがないので、まったく不都合はないのである。孤独に政治のニュースを追うことも可能ではあるが、もし「実は地球は平面だった!」「支配者たちは爬虫類人間に入れ替わっている!」といった情報を信じてしまえば、「いやいや、流石にそれはおかしいだろ……」と訂正してくれる友人がいないので、「ニュートンの力学法則の捻じ曲がった地球を爬虫類人間が支配している」というのが世界の真実の姿となってしまう。先にも述べたが、「なにが真実であるか」ということの価値が失われてしまえば、政治は己の鬱屈した感情を慰めるためのポルノとして利用したほうが合理的なのである。

 このように「家族や友人と普通に政治の話ができること」というのは、社会が健全に機能するための必要条件なのであるが、別に「社会が健全に機能するためには~」などと真面目くさったことを考えずとも、単純に政治の話もできるようになったほうが会話の幅が広がって楽しいだろう。

「付き合って三年にもなると、話すこともなくなっちゃうんだよね~」

 こうした悩みを持つ者は多いが、おれだったら次のようにアドバイスする。

「政治の話をしなちゃいッ!!!」

 これには二つ理由がある。一つは、政治にコミットするようになれば話題が尽きることは永久になくなるからである。「子ども時代はどうだったの?」「前の恋人との関係は?」といった個人史に関する話題は、あっと言う間に尽きてしまうが、政治のニュースというものは人類が存続する限り永遠に尽きることのない無限の話題のリソースなので、政治の話ができれば毎日の話題に事欠くことはなくなる。
 二つは、政治を語ることによって相手の人となりが分かるからである。例えば、恋人と政治の話をすることによって、相手が「生産性の低い社会のお荷物など切り捨ててしまえばいい」と考える人間であることが判明したとしよう。それによって分かるのは、その人があなたに優しくしてくれるとすれば、それはあなたがその人にとって都合のいい有用な人間だからであり、あなたがその人にとって都合の悪い無用な人間になってしまえば、その人はあなたのことを簡単に切り捨ててしまうだろうということである。また、相手が「〇〇人は日本から出ていけ!」といったふうに、政治を己の鬱屈した感情を慰めるための道具として利用するような人間であれば、あなたのことも己の鬱屈した感情を慰めるための道具として利用しようとするだろう。「え、なに?政治?www意識高いっすねwww」と嘲笑的な反応をするようであれば、おそらくそいつはなんの信念も持たないしょうもない人間である。

 さて、「政治は個人的な趣味」といったことを書くと、真面目な人たちは怒るかもしれないが、しかし「大人として政治のことを考えなければ」といった義務感によって政治に関心を持ち続けることには限界がある。社会の不正に対する憤りを失ってはいけないが、しかしその憤りを持続可能なものとするためには、「クソ社会だからこそ面白い」といった学者的な視座を獲得することもまた必要なのだ。
 「別に学者的な目線で政治を楽しむことに興味なんかねえよ」と思う人もいるかもしれないが、それは単純に政治の知識が不足しているからである。「ボールを蹴り合うだけのスポーツのどこが面白いの?」と思ってしまうとすれば、それはサッカーのルールや戦略についてなにも知らないからであるのと同じだ。サッカーの基本的なルールや戦略について学び、各々の選手の経歴や得意なプレーなどを知っていけば、今まで「ボールを蹴り合っているだけ」に見えていた競技にも、様々なドラマがあったことを発見するだろう。
 次の選挙の楽しみ方をひとつだけ教えると、いわゆる「裏金議員」の当落に着目することだ。具体的には、東京11区の下村博文、東京24区の萩生田光一などであり、いずれも接戦となっていて結果は分からない状況である。彼らと対抗馬のどちらを支持するかはともかく、エンターテイメント的に面白い選挙区であることは間違いない。また東京9区には、汚職によって有罪となり、3年間の公民権停止となっていた菅原一秀が無所属で出馬している。果たして彼は再選を果たして自民党議員として返り咲けるかのかどうか、こちらも要チェックである。

補足資料

 これまで様々な「選挙に行く理由」を見てきたが、もちろんこれらが「選挙に行く理由」のすべてではなく、ここには書かれていない他の動機も数多く存在する。その中では特に「組織票」を投じる者たちの心理がもっとも重要なのだが、都市を浮遊する匿名的で孤立的な幽霊であるおれには、そのあたりの実存的な感覚がよく分かっていないので、これについては他の人に説明を任せたい。

 さて、「我々はなぜ投票するのか」というテーマについては語り終えているので、ここで記事を終了してもいいのだが、最後に補足資料として「おれはどうやって投票先を選択しているのか」についても書いておこう。というのも、「選挙に行くかどうか」というのは実際のところ大した問題ではなく、「選挙に行っても投票先が分からない」ということのほうがずっと重要な問題だからだ。これから述べるのは一個人の意見なので、「そうやって投票先を決める人もいるんだな~」と思いながら、ひとつのモデルケースとして適当に読み飛ばせばよい。

 例えば、経営陣が軒並み汚職で腐敗している会社があったとする。贈収賄は日常茶飯事であり、コンプライアンスを蔑ろにして平然と利益相反を行い、不正の疑惑を隠蔽するために文書を改竄させられた社員が自殺したりもしている。汚職をなんとかしろという批判に晒されているが、改善する気など毛頭ないことは経営陣の態度から透けて見えている。それで会社の業績がいいならまだしも、会社は経営不振に陥っており、国際的な競争力は急激に低下している。
 さて、あなたがこの会社の株主だった場合、あなたはどのようなことを会社に求めるだろうか。

「贈収賄がどうとか、コンプライアンスがどうとか、改竄がどうとか、本当にどうでもいいよ! 大事なのは新商品を開発したり、生産性を上げたりして、会社を成長させることだろ! 経営陣と対立するグループは経営陣への批判ばかりで頼りない!」

 もし、このようなことを言う人がいるとすれば、だいぶ頭がおかしいだろう。資本主義社会においては、会社の目的は利益を最大化することであるから、会社を成長させることが最も大切であるというのは正しい。だが、現在の会社の経営不振の元凶である腐敗しきった経営陣を続投させたままで、どうして会社を成長させることができると考えるのだろうか。会社を成長させるためにすべきことはただひとつ、腐敗した経営陣をクビにし、他の者たちに会社の経営を任せることだけだ。絶対に会社が成長できるというような確信を持てる有能な経営者が見つからなかったとしても、まずは腐敗した連中を追い出さないことには話が始まらないし、現状で最もマシだと思われる者たちに経営を任せるしかないだろう。

 さて、ここまでの理屈に異論を唱える者は少ないだろう。あるとすれば、代わりの経営者があまりに無能すぎて以前よりも会社が混乱してしまうリスクへの懸念だが、この代わりの経営者たちは以前に会社を運営した経験があり、多少のノウハウは持っている者たちなので、会社がまったく機能不全に陥ってしまうような事態にはならないだろう。また「代わりの経営者がいない!」と言っている限り、いずれは会社が倒産する運命にあることは確実なので、他の者に経営をさせることで新たな経営者を育てるしか方法はないのである。

 これが現政権のアナロジーであることは言うまでもないが、まずはこうして自民党と公明党が投票の対象から除外される。政権与党については「この数年間でなにをしてきたか」を審判することが第一なので、マニフェストになにが書いてあるかは重要ではない。いくら立派なマニフェストを掲げていようと「今までなにをしていたんだ」という話でしかない。

「じゃあ、あとは自分がもっともマシだと思う野党に投票しよう!」

 と言いたいところだが、衆議院選挙は小選挙区制なので、残念ながらそういうわけにはいかない。小選挙区制とは、選挙区から1人しか当選者が出ない制度のことであるが、これは1994年の政治改革の一環として導入されたものである。もともと日本は1つの選挙区から3名から5名を選出する中選挙区制であったが、これが金権政治の温床として批判されたのだ。また、当選者が1人しか出ない小選挙区制では政権交代が起こりやすいとされ、英米のような二大政党制の実現が期待されたのである。
 だが、現実にはそうはならなかった。まず、比例代表並立制という中途半端な制度にしてしまったので、比例で小党が生き残れるようになり、野党は細かく分裂する結果となった。そもそも、日本には英米のような大きな価値の対立軸がなく小党に分裂する傾向にあるので、二大政党制を目指すこと自体が誤っている。また、地盤・看板・鞄を持つ世襲政治家が圧倒的に有利であり、誰が勝つかが分かり切っているので投票する気がなくなる。死票も増える。よって1996年の選挙では投票率が急落した。もちろん、金権政治が解決されたわけでもなかったし、小選挙区で汚職政治家を落選させることに成功しても、重複立候補が可能なので比例でゾンビとして復活してくる。要するに、クソ制度である。

 たまに「選挙結果が民意のすべてだろ! 文句を言うな!」といった意見があるが、これには「そもそもその選挙制度は民意が反映されやすいものになっているのか?」という視点が欠けている。

「日本の衆院選の仕組みは?」
「小選挙区比例代表並立制!」
「正解!」

 現行の選挙制度を所与の自然物であるかの如く受け取ってしまうのは、このように試験で正答できることが「社会科の成績がいい」ことの条件となっていることの弊害であろう。例えば、右派政党A、左派政党B、左派政党Cが争っている小選挙区があったとしよう。票の配分がA:40%、B:35%、C:25%であった場合、Aが勝利する結果となる。だが「過半数の票を得た者がいなかった場合は、上位2人の候補者で決選投票をする」という仕組みであった場合、右派政党Aと左派政党Bの決選投票となり、有権者の60%は左派を支持しているので、左派政党Bが最終的に勝利することになる。このように、誰が勝利するかは選挙制度の仕組み次第なのであり、どのような仕組みがより民意を反映させやすいかという「メタ」な視点こそが必要なのである。

 話を戻すと、小選挙区制がクソ制度であることには違いないが、それが日本の現行の制度なのだから、とりあえずは受け入れるしかない。このような制度において、「政権の運営者を交代させること」を目的とするのであれば、与党に対する最も有力な対抗馬に投票するのが理に適った選択となる。おれの選挙区で最も有力な野党候補は立憲民主党の議員なので、自動的におれは立憲民主党に投票することになる。このような理路においては、「支持したいと思える政党や政治家が存在しない」といったことは問題にならないし、実際にそのようなことで悩んだことは一度もない。比例代表については、こうした考え方に縛られることなく自由に投票先を決めても問題ないのだが、やはり最大野党の議席を増やしたほうがいいと考えているので、立憲民主党でいいかという判断になる。まあ、これはあとで変わるかもしれない。

 以上がおれが投票先を決定するまでの思考の過程であるが、もちろんこれが絶対的に正しいわけではない。そもそも自民党を支持しているのであれば、自民党に投票すればいいわけであるし。また、多くの候補者は初出馬でいきなり当選するわけではなく、何年も地道な選挙活動をした結果としてようやく議員になるわけだから、「この人は日本の未来を担うべき人だ!」と思う候補がいるのであれば、「今回は負けるかもしれないけど、私はあなたを応援していますよ」という願いを込めて当落線上にない候補者に投票したほうが、長期的には日本のためになるという考えもある。おれの「実利」を優先した投票行動よりも、こちらのほうが人の心情としては正しいと思う。

 最後に、本記事は「選挙に行こう!」と有権者に呼びかけるものではない。そもそも選挙だけが民主主義のすべてではないし、「選挙のときだけ政治に関心を持ってあとはお任せ」といった態度が民主主義から程遠いものであることは、ルソーなどが何百年も前から指摘していることである。強いて読者になにかを求めるとすれば、選挙に行くにしろ行かないにしろ、「なぜ私はそのような判断をしたのか」ということを明確にしておくことだ。おれは選挙に行ったかどうかではなく、自分の頭を使って考えている人の意思を尊重する。

おわり

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