人生には"しぼりかた"が大切だったりする
2024年1月1日、除夜の鐘が鳴ると同時に、僕はなんとなく人生を俯瞰してみるようになった。このままいつも通りの日常が続いてしまうくらいなら僕の居場所を変えようと。そう決心した。
' 何かしなければ。何者かにならなければ。'
26歳を過ぎたあたりからずっと焦燥感に駆られ、この言葉が頭の隅に少しずつこびり付いて、気付けば3年の月日を経て脳内を黒く埋め尽くしていた。
一体何をやっていたのだろうか。毎日たくさんのモノに触れる事ができる今の仕事は楽しいはずなのに、' 何かしなければ。何者かにならなければ。'という呪文を思い出すたびに、僕は胸を締め付ける。そして、楽しかった仕事も、だんだんフラットな感情になり、人と話していてもどこか上の空のような気がして、同じ目線で話すことができなくなっていた。
僕の外側と内側はまるで別人格で、淀みきったものは誰にも見られない場所に保管し続けた。そんな日常を送っていると隣の芝も青く見えだして、SNSで見るあの人やあの人の事を「なんかいいな、ずるいな」と思うこともしばしばあった。僕はなんて器の小さい人間なんだろうと感じる日々も多くなっていた。
そんなとき、ある記事が僕の行動を大きく変えてくれた。
インタビューの中に「悩まないための『理由』を捨てた」という内容が書かれている。
記事を読んだとき救われたような気がした。心臓に鳥肌が立ち、血管を通って身体中をゾワゾワと何かが駆け巡る。「信じてみたいもの」が見えた瞬間だった。頬に一滴だけ、道筋となる光が流れた。
「転職をしよう」
この直感は、淀みきった心をすぐに飛びだしていた。今あるこの感覚はもう分岐点に違いないと確信もあった。
僕は「家」という枠だけを決めることにした。今までモノ単体に執着してきたが、半歩だけ後ろに下がって俯瞰する。大枠を”しぼる”のだ。
そこからリフォーム、リノベーションという一番惹かれた中枠に入り、しばらく潜伏することを選んだ。
でも、全ての価値観が全部変わるわけではない。古道具から視る「モノの在り方を考える」軸は変わらない、これまで培ってきたことは絶対に無駄ではないはずだからだ。「生きているように生きたいと感じられる30代になるように」仕事に人に、大袈裟かもしれないけれど、これから関わる、もう関わっている人やモノの愛を知り、愛を渡していく人生にしていきたいと思う。
胸を張るときがきた。ぞ。