
第二章 意志と選択性 6 選択と希望
いかなる主体がいかなる物事を選択するかは、「快苦計算」に基づく、と言われることがある。すなわち、主体は、快楽を追及し、苦痛を回避するように、物事の選択を行うということである。しかし、この選択で問題となる快楽や苦痛は、未来のものであり、現在においては、想像の内容としてしか存在していない。そして、主体は、現存しない快楽や苦痛を感じることはできない。それは、想像することすらもできない34。
しかし、たしかに快楽や苦痛の感覚そのものは想像できないとはいえ、快楽を与える物事や苦痛を与える物事を想像することはでき、一般に、快楽を与える物事を想像することは快楽であり、苦痛を与える物事を想像することは苦痛である。たしかに、一般に、想像することの快苦の程度は、想像する内容の快苦の程度に比例するかもしれないが、想像されている内容の現実の快苦とは無関係である。そもそも、想像することの快苦は、あくまで精神的な意味での快苦であって、現実の快苦とは質的に異なっている35。
このような事実を考慮するならば、主体が快苦によって物事を選択することはできない。なぜなら、想像することの快苦と、その想像の内容の現実の快苦とは、質的にも無関係だからであり、ましてや、量的な比較などできないからである。そして、また、もし、唯一、選択の時点において現存するこのような想像することの快苦が主体の選択を規定するのであれば、むしろその主体は、想像することの快楽に耽溺し続け、永遠に実際に選択することはなく、また、想像することの苦痛を回避し続け、現実に直面するまで対策を採ることはないだろう36。
選択として行為を創発させる原因、いわゆる〈意志〉は、したがって、選択の結果の未来の快苦ではないのはもちろん、選択の結果を想像するということの現在の快苦でもない。行為の〈意志〉は、想像から想像の内容への飛躍であり、その想像の内容は、いまだ何の快楽も与えてくれてはいない。主体の主体性は、ボールが坂を転がり落ちていくように、より小さな快楽からより大きな快楽へと連続して導かれていくというようなところには存在していない。主体は、ある快楽となると思われる物事の獲得のために、手段としてなんらかの苦痛となると思われる物事を負担しなければならない場合であっても、それが必要であれば、これを選択する37。
しかし、この〈意志〉の飛躍性こそが、主体の〈意志〉の特徴をまさに示している。すなわち、現在しかないものには、現在の位置しかなく、飛躍を自覚することはできない。これに対して、主体の〈意志〉が飛躍を自覚するということは、現在的にのみ把握しているのではなく、時間的に考慮しているということを示している。つまり、主体が必要であると判断して選択する物事は、未来の物事ではなく、現在から未来へ連なる物事、すなわち、脈絡である、ということになる。この意味で、主体が選択しているのは、未来の単独の物事の快楽や苦痛ではなく、現在から未来に至る幸福や災禍であり、その選択は、快苦計算ではなく、いわば〈福禍計算〉である38。
この〈福禍計算〉において、完全ということはない。なぜなら、福禍が問われる脈絡は生成していくものであって、完成しているものではないからである。しかし、ある物事が未来においてその〈意義〉として生成していく脈絡は、ある程度は現在において理解することができる。物事の理解は、その物事が未来に派生する〈意義〉の理解であり、その理解自体が、その物事が未来に派生する〈意義〉に対証的に対応するという〈意義〉を現在の主体および〈生活世界〉に及ぼす。つまり、主体の現在の選択は、その理解の志向的内容を理由とすることになる。そして、その志向的内容とは、時性としては未来的なものにほかならない。これは、一見、未来が現在に結果しているかのように見えるが、しかし、正確には、現在の理解が現在の行為に結果しているだけのことで、何の矛盾もない39。
もっとも、その理解は、能力によるところが小さくない。未来の理解とはいえ、その理解そのものはあくまで現在の行為だからである。理解が、対象となる物事の未来的な〈意義〉の把握である以上、状況において派生する〈意義〉をまったく間違える、とか、間違ってはいなかったが、その物事の〈意義〉を部分的にしか把握しておらず、別の〈意義〉が強く派生した、とか、状況が変化したために派生した〈意義〉も別様のものとなってしまった、などの理解の失敗がある40。
〈福禍計算〉を行うには、まず物事を理解する知解的能力が必要である。これは、関係あるさまざまな物事の〈意義〉を考慮して脈絡を理解するものであるが、実際には、それもけっして時間的な推察力によるだけではなく、むしろ、さまざまな物事の現在の特徴的な配置などとして直感的に把握できることも多く、知識や経験が役立つ。しかし、これだけであったならば、物事はさまざまな影響を受けて、いろいろに展開する可能性があり、予測そのものとしても不完全とならざるをえない。そこで、この計算にはすでに同時に、生活における自己の経営的能力が問題となる。これは、行為と所有によって、自己の意図に沿うように、さまざまな物事を統一整合的に運営していく能力であり、所有が大きいほど局所を調整しやすいが、全体を調整しにくい、という傾向がある。知解的能力があっても、経営的能力がなければ、偶然自然に任せるしかなく、また、経営的能力があっても、知解的能力がなければ、自己破綻に陥るしかない。両者の能力が揃ってこそ、物事の〈意義〉の理解はより広範に、より深遠に到達し、それだけ安定した〈福禍計算〉を行うことができ、また、それだけ安定した物事選択を行うことができ、それだけ安定した生活経営を行うことができる41。
さて、選択すべき物事の脈絡のそれぞれがある程度は理解されたとして、それが幸福であるか災禍であるかは、再び〈価値〉の問題となる。ただし、ここでの〈価値〉は、前章で採り上げたような個々の物事の〈価値〉ではなく、全体の脈絡や状況の〈価値〉である。それはどのようにして決められるのであろうか。ひとつには、全体の脈絡や状況に関しても、一連の出来事としての単位をなす場合には、一つの物事として、文化的に〈価値〉が設定されていると言うことができるだろう42。
しかしまた、このような文化的な〈価値基準〉と並んで、個人的に任意に脈絡に対して〈価値基準〉を設定することもできる。これは、いわゆる希望(懸念)である。ある脈絡や状況を希望するとき、定義的に、その脈絡や状況が実現することは、その当人にとって幸福であることになっている。しかし、このような希望は、じつは、それ自体が形式的な選択である。ただし、この選択は、状況が強要するものとはかぎらない。つまり、状況としては選択を行うべき適合性もないとはいえ、選択を行う不適合性もないならば、自由な想像が生じるのであり、その中のいくつかが反復的に想起されることによって、やがて希望として結晶化し、人格の統一整合性における前提となって、実際のさまざまな具体的選択のための形式的基礎となる。したがって、根本的な希望は、その主体の人格の一部を成しており、立場そのものとすらなっている。
34 たとえば、明日の歯医者での痛みは、想像すらできない。もちろん、明日、歯医者が終わった後で、思っていたほど痛くはなかった、と思うかもしれない。しかし、このような表現は、あくまでレトリックにすぎないのであって、けっして文字どおりに先にある具体的な程度の痛みを想像していたわけではない。
35 たとえば、明日の歯医者での痛みそのものは想像できないものの、歯医者の痛みを起こさせる治療の仕方は想像できる。そして、その想像は、同時に苦痛である。しかし、治療の苦痛は、肉体的刺痛であり、想像の苦痛は、精神的恐怖であり、まったく別の種類の苦痛である。
36 しかし、実際、まさしく、想像することの快楽にのみ耽って、現実を選択しない、また、想像することの苦痛から、想像しようとすらしないモラトリアム的精神状態というものが存在する。たとえば、限られた予算において、家を買うか、自動車を買うか、電気製品を買うか、迷い続けているというような場合がそうである。これは、いずれかの選択を実際に行った場合に、他のものの快楽はもちろん、他のものを買う想像する快楽すらをも失ってしまうということが、この選択モラトリアムを助長している。また、たとえば、戦争や株式においては、敗北や危険を無視することで士気高揚を図り、現実を打破してしまおうとする無理なバブル的選択モラトリアムもある。このような選択モラトリアムが起こることもあるとはいえ、現実にはさまざまな選択が行われている以上、そこには別の要因が働いているはずであり、それを追及しなければならない。
37 たとえば、雨に濡れないことは、快楽ではあろうが、しかし、曇り空に傘を持って行くときには、この雨に濡れないという快楽はいまだ存在していない。むしろ、まだ雨が降っていないのに傘を持って歩くのは苦痛ですらあるかもしれない。しかし、人間は、この傘を持って歩くという苦痛すらも飛び越えて、この雨に濡れないという状況に先駆的に飛び込む。
38 たとえば、ある商品を購入するかどうかを主体が選択する場合において、主体が考慮しているのは、けっしてその商品自体の効能ではない。そうではなく、その商品を購入し、使用し、その結果、形成されていく自分の生活の展開そのものである。したがって、たとえば、夜店の的屋の商品のように、買うこと自体が楽しいものもあれば、自動車のように、それに乗って出かける場所こそが楽しいものもある。また、いかによい住宅であっても、それを買ったために、ローンの支払に追われる生活をするとなれば、躊躇するだろう。しかしまた、逆に、いま無理をしても買っておけば、将来が楽になる、と考えるかもしれない。このような問題をこの論文での用語で言うならば、商品は、その固有の〈意味〉ではなく、その購入者の生活における〈意義〉こそ問題である、ということができるだろう。
39 たとえば、これから雨が降ると、現在に理解していることが、傘を持っていくという現在の行為に〈意義〉を及ぼしている。
40 この理解の失敗は、プラトーン・アリストテレース以来、「アクラシア(不忍耐)」として議論されてきた。それは、たとえば麻薬のように、現在に快楽であっても未来により大きな苦痛であるようなものでもなぜ人間は忍耐することができないか、という問題である。プラトーンは、理性的な人間である以上、より大きな苦痛となる快楽を選択する者は存在しない、としたが、アリストテレースは、現実にこのような者が存在することを認識し、理論的な解決を図ろうとした(が、その結論はあまり明確ではない)。しかし、先述のように、未来の苦痛は現存しておらず、その把握は、災禍として脈絡的に理解するしかない。
41 物事の〈価値〉というものも、固有のものではなく、その〈意味〉ないし〈意義〉を生かすそれを所有する主体の経営的能力によるところが大きい。このことについては、前章を参照せよ。また、経営的能力については、次の論文の主題となる。先述のように、とくに所有については、部分限定的なものも少なくなく、また、みずからが他の主体に所属している、すなわち、所有されている場合にも、経営的調整が必要となる。ここでは、とりあえず、単独主体と諸物事の完全所有をモデルとしてイメージしておこう。
42 たとえば、ある民族においては、軍人の生涯の幸福は、手柄を立てて立派に死ぬことかもしれず、また、女性の結婚の幸福は、夫の身長と学歴と収入が高いことかもしれない。