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第二章 意志と選択性 5 未来の理解

過去と同様、未来もまた、任意に想定できるわけではない。未来が未来であるのは、あくまで現在の物事の結果としてであり、いかにしても現在の物事の結果とはなりえない物事は、未来ともなりえない。したがって、未来とは、日常的には、むしろ、ある未来の物事を結果する現在の物事そのものの問題である。すなわち、未来とは、ある現在の物事がある未来の物事の原因となる、という脈絡的な意味での現在の物事の理解の仕方にほかならない。したがって、理解は、つねに問題の物事と適合的でなければならない28。

しかし、ある物事を理解することは、たんにその物事の問題ではなく、その物事に対する自分の立場を確立することでもある。つまり、ある物事の理解の仕方は、その物事に関する自己の立場の設定にほかならない。なぜなら、理解とは、たんに頭で認識するだけでなく、さらに自分自身の対応の仕方をも決定することだからであり、理解の対象である物事の〈意義〉とともに、まさしくその〈意義〉を理解したこともまた、脈絡において主体に〈意義〉を派生する。すなわち、〈背景事象〉となって、他の物事の適合/不適合を規定する。つまり、物事の〈意義〉の理解は、脈絡的に未来に派生するその物事の〈意義〉に対証的に対応するという意味で、すでに現在において主体自身の〈生活世界〉に〈意義〉を派生する。したがって、通常、物事の理解は、その物事と適合的でなければならないのと同時に、それを理解する主体の〈生活世界〉とも不適合であってはならない。

とはいえ、いかなる理解も、それ自体は矛盾することがなく、また、矛盾が問題となる理解の〈意義〉が、かならずしもすぐに他の物事の適合性を決める〈背景事象〉となるわけではない。したがって、その理解の〈意義〉が可能的であっても機能的にはならない以上は、いかなる背反的な理解も、潜在し続けることができる。しかし、現実に問題の物事に接して、その理解が〈生活世界〉の統一整合性を破壊する〈意義〉を派生する場合、また、複数の理解が矛盾する〈意義〉を派生する場合には、混乱のためにその物事への対応が遅れ、事態を悪化させることが少なくないために、このような理解の背反的両立状態は、好ましいことではない29。

理解は、理解する主体の〈生活世界〉と不適合であってはならないとはいえ、適合的でなければならないわけでもない。つまり、不適合でさえなければ、採り立てて適合性がない飛躍的なものであってもかまわない。なぜなら、理解という自己の立場の設定は、あくまで向後の布石的なものであるからである。そして、むしろ、いったん成立した理解こそが、〈意義〉を派生し、その理解の〈意義〉にしたがって、その主体のさらなる〈生活世界〉が統一整合的に形成されていく。物事の理解は、このように〈生活世界〉を変えていくきっかけとなる。

しかし、主体は、すでに特定の状況にあり、立場を与えられている。そして、立場というものは、理解すべき物事を〈意義〉として派生し、特定の物事に着目させ、さらには、その立場の〈意義〉によって、その理解の仕方まで規定される30。[状況の理解は立場に基づき、立場の理解は状況に基づく]という問題は、「解釈学的循環」と呼ばれるが、しかし、これは、問題のための問題と言うべきだろう。なぜなら、いかなる主体も、歴史の中にあって、好むと好まざるとにかかわらず、選択の余地のない特定の立場に生まれ、これを、さまざまな経験の中で変化させていくことはあっても、立場のない立場になることはないからである。したがって、いかなる主体も、従うにせよ、逆らうにせよ、なんらかの所与の立場から出発しなければならない31。

しかし、物事の理解は、まさしく立場を変えさせるきっかけともなる重要な経験のひとつである。すなわち、ある物事を理解することによって、その理解はさまざまな〈意義〉を派生するが、これらの〈意義〉に基づいて〈意志〉が統一整合的な〈生活世界〉の改編を行っていくとき、その〈生活世界〉の統一整合性の主軸がいつのまにか別のものにシフトすることがある。このほか、抗しがたい外界の変化や圧力によって、〈生活世界〉の統一整合性を破壊されてしまった場合も、立場を変えざるをえない32。この場合も、その主体の意識および〈生活世界〉は、好むと好まざるとにかかわらず、その出来事の理解に沿って、統一整合的となるように革命的に再編されることになる。つまり、それは現実を受け入れるということである33。

28 たとえば、雨が降る、という「予想」は、けっして未来の予想などではなく、黒雲が出てきた、という状態の把握の仕方にほかならない。したがって、この場合にも、雨は降ることも、降らないこともある。しかし、いずれにしても、雨が降るという理解は、黒雲が出てきたことと適合している。逆に、たとえ事実として晴れたとしても、黒雲が出てきたときに、このことを晴れると理解することは、規範的に不適合であり、理解とは認められない。この場合、それこそそれは単なる予想である。

29 たとえば、共産主義者だった人が、外国の影響を受けて、共産主義こそが経済の停滞の元凶である、と、現状を理解することがあるかもしれない。しかし、彼が大統領や経済官僚でもないかぎり、たとえば、軍人や農民であるかぎり、一国の経済など、どうしようもないことであり、どのように理解していようと問題になることはない。また、たとえば、雨が降る、という「予想」と、雨は降らない、という「予想」とは、理解自体としては両立可能である。すなわち、雨が降るかもしれないし、降らないかもしれない、と、現状を理解するということである。しかし、たとえば、外出しようとするとき、この二つの理解は、矛盾する〈意義〉を派生する。雨が降るという理解は、傘を持って行くという行為を要求し、また、雨は降らないという理解は、傘を持って行かないという行為を要求するからである。

30 ただし、理解すべき物事と着目すべき物事は、かならずしも同一ではない。一般に、着目すべき物事は、理解の対象であり、現在の物事であるのに対して、理解すべき物事は、理解の内容であり、未来の物事である。粗雑に言えば、理解の内容は、理解の対象の〈意義〉である。なぜなら、主体が対証的に対応すべきものは、現在の物事ではなく、その物事から脈絡的に派生してくる未来の物事だからである。したがって、正確に言えば、多くの場合、理解の対象は、あくまで指標であって、そのものが実際に直接に理解の内容となる未来の結果を起因するわけではない。

31 たとえば、道路において、人間は、運転者なり、歩行者なりの立場を与えられている。そして、その立場にしたがって、運転者は、運転者用の信号に着目すべきであり、歩行者用の信号に着目すべきである、とされる。そして、たとえば、歩行者用の信号への着目によって、安全かどうか、渡っていいかどうか、を理解することができるのである。この場合、歩行者用の信号が規範的に渡っていいかどうかを決定するにしても、あきらかに、歩行者用の信号が物理的に安全かどうかを決定するわけではない。それは、あくまで安全かどうかの指標にすぎない。

32 たとえば、善良な政治家を志していたとしても、政治には金が必要だということを理解していくにしたがって、悪辣な政治屋になってしまうということがある。ここにおいては、彼は、何が正義かを問う立場ではなく、何が利益かを問う立場に変質してしまっている。また、たとえば、突然に会社が倒産してしまった場合、いかにその会社の重役であったとしても、この激変とともに、その立場は失われ、失業者の立場を受け入れざるをえない。

33 もっとも、主体が組織の場合は、この革命的再編なしに不適合な理解を抱え込むということもある。主体が個人の場合でも、このような不適合の吸収はないわけではない。それは、その理解の〈意義〉の矛盾が表面化しないからか、状況の変化や立場の喪失の結果、現実的対応の必要性すらも薄らいだからである。たとえば、社内の派閥が分裂したとしても、人事異動などの具体的な問題がないかぎり、対立は表面化しない。また、たとえば、廃位された皇帝が、いつまでも皇帝を自称しているとしても、誰も問題にしない。

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