第二章 意志と選択性 1 主体
主体とは、〈生活意志〉の単位である。これは、現象的には、物的な自己自身による〈行為〉と、事的な他物関与による〈所有〉とにおいて存在する。
我々は、一般に物的な具体的人間を主体とみなしている。それは、身体麻痺や人格分裂などの病的状態を除いて、一般に、人間には行動において、行為としての〈生活意志〉の統一整合性が認められるからである。ただし、これは、行為の面から見た人間の主体性であって、所有の面から見た人間の主体性は、実際は歴史的・社会的にかなり限定されている1。
逆に、我々は、一般に具体的人間以外の事物はあまり主体とみなさない。動物の場合には、種類によって程度があるが、しかし、その程度は、かならずしもその生活意志能力と対応しているわけではなく、まったく文化的な問題である2。
たしかに、事物もまた〈意味〉や機能を持ち、他の事物に影響を与えるが、その機能の統一整合性は、自己完結的ではなく、災害のように、内面的秩序を持たないか、道具のように、内面的秩序に他の主体の〈意志〉が組み込まれて所有され支配されているかしている。
我々はまた、組織に対しても、これを主体とみなすことが少なくない。ただし、これにはいくつかの程度ないし種類を分けて考えなければならない。第一には、行為や所有における〈意志〉としての統一整合性があるべきであるとされ、かつ、現にその成員によってその統一整合性の必要が自覚され、実現されている場合。これを、〈意志組織〉と呼ぶことにしよう。一般に「組織」と呼ばれているものはこれを指している。しかし、第二には、これらにおいて、成員によってその必要が自覚されていながらも、実現していない場合がある。これを〈混迷組織〉と呼ぶことにしよう。第三には、成員に行為や所有における〈意志〉としての統一整合性の必要が自覚すらされてない場合がある。これを〈集合組織〉と呼ぶことにしよう。ただし、この場合には、その組織の成員であるかどうかは明確でなければならない。第四に、そもそも成員すら明確ではない場合がある。これを〈類型組織〉と呼ぶことにしよう。これになると、もはや組織の意志的な行為や所有は存在せず、結果としてある程度のまとまりがあるにすぎない。第五に、成員が存在しないにもかかわらず、偶然的な行動の統一整合性から投影的に措定される場合がある。これを〈幻影組織〉と呼ぶことにしよう3。
このような組織の程度ないし種類は、具体的人間の意志人格とも並行している。我々は、先述のように、先験的に具体的人間に主体性を付与しているが、実際には、人間の行為や所有の統一整合性は完全なものではなく、そもそも、多くの行為や所有においては、統一整合性そのものが問題とはならない。このような場合でも、その人間の行為や所有として、集合的にその人間の主体性に帰することが可能である。
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