お遍路ウォーキング日記(244:八十二番根来寺へ)
【2024年9月5日(木曜日) Day 244】
この日の日記は下書き段階でアップし忘れたままだったので順番は前後するがアップさせる。
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今日は札所八十一番白峯寺をちょうど打ったところで終了。そんなわけで今日はこの白峯寺について簡単に書こうと思うのだが、今回ばかりはちょっと簡単には書けないと思う。
白峯寺は札所七十九番天皇寺と少しばかり関わりがある。この地に流されて崩御した崇徳天皇と関係する。札所七十九番天皇寺が崇徳天皇の崩御した摩尼珠院の後に崇徳天皇社となり、神仏分離により天皇寺が独立したのに対し、白峯寺は崇徳天皇陵のある場所である。
そもそも白峯というのはこの一帯を五色台といい、青峯、赤峯、黄峯、黒峯、白峯の五つの山がある。五色台の中で白峯は一番西に位置し、黒峯、黄峯、赤峯は比較的近くにある。赤峯は海に突き出た半島に位置している。そして一番東に青峯があり、札所八十二番の根来寺が正に「青峰山」という山号を持っている。
この白峯は京都の白峯宮との関わりが強く、江戸末期の孝明天皇崩御の二年後に京から讃岐へ使者が来る。孝明天皇は生前かねてより讃岐の陵墓に眠る崇徳天皇の御霊を京に戻して鎮魂させることを希望していたがそれを実現させる前に崩御した。
その際に崇徳天皇の御霊は京都白峯宮に戻り、明治天皇がそれを参拝した後に即位をし、元号は慶応から明治に変わる。崇徳天皇社はその後白峯神社と改名され、その別当寺が神仏分離で廃寺になり、後に高照院が移転して天皇寺となった。
そのためこの地域には崇徳天皇に由来する「天皇寺」「白峯寺」「白峯神社」などが存在してややこしい。
札所八十一番の白峯寺はもともとは弘法が創建した寺で、後に智勝上人が千手観音像を彫って堂を建てた。
崇徳天皇の崩御後、御所だった木の丸殿をこの地寺に移築し法華堂を建て、崇徳天皇が軟禁されていた時の自画像を収めて頓証菩提(亡くなった者が速やかに悟りの境地に達するように祈ること)をしたところ寺は大きく栄えた。しかしながら落雷の火災で焼け、その後上皇の成仏を祈った後小松天皇が頓証寺殿と呼び、讃岐高松藩主が再興させた。
明治の神仏分離で白峯御陵は寺から宮内庁へと管轄が遷移され、頓証寺殿や宝物とともに金刀比羅宮へと移管される。その後は裁判沙汰となり頓証寺殿などが返還されるもかなりの時間を要する。裁判は昭和の時代にも起こりいまだに移管された宝物の一分は変換されていない。
白峯寺は山門をくぐると正面に護摩堂があり、その左手に進む道がある。真っ直ぐ進めば頓証寺殿、更にその奥には白峯御陵があるが、頓証寺殿手前で右手に石段が現れてその上に寺の本堂がある。
石段の両脇には薬師堂や鐘楼などがある。秋には紅葉が美しい寺だが境内到る所に設置されたスピーカーからお寺についての説明が休むことなく放送されている。
この寺に至るまでにはかなりの山登りをさせられるが、それもこの五色台という山に入っているからだ。そして次の札所である根来寺も尾根伝いに進んでいくような感じだ■