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お遍路ウォーキング日記(267:札所一番霊山寺へ)

【2024年9月28日(土曜日) Day267】



※お遍路ウォーキング三周目結願※

 今日で札所八十八番大窪寺を打つことができ、無事に結願を果たした。

 しかし実際にもお遍路をして大窪寺を打てばそれで終わりというわけではなく。札所一番霊山寺へ戻り結願の報告をする。納経帳にもお礼参りのページがあってそこにご朱印を頂くことになっている。そして記念品がもらえるのだが今はどうなのだろう。念珠や記念のバッジなどいずれも霊山寺で頂いたことがある。

 さらに納経帳にはもう一つページが残されている。それは高野山だ。高野山にも巡礼の結願のご報告に行く。

 高野山の金剛峯こんごうぶ寺奥之院、弘法大師御廟は今でも弘法大師が生きて住まわれていると考えられる聖域。そこでこれまでと同じように読経をし最後に弘法の光明(南無大師遍照金剛)を七回唱えて巡礼はやっと終わる。

 と言うことで大窪寺を打って結願した段階ではまだまだ先が残っていて、これからそれも行うのかと思うと気が遠くなってくる。

 今日はいよいよ最後の札所、八十八番大窪寺について簡単に書いてみようと思う。

 八十八番大窪寺は大きな窪みに弘法が天竺、唐、日本の三国伝来の錫杖を納めたところからこの寺号がついたと言われている。

 はじめはこの地を訪れた行基菩薩が草庵を建てて修業をしたところから始まる。後に唐から帰った弘法がこの寺に等身大の薬師如来像を彫り、堂宇を建て安置をした。

 大窪寺は比較的早くから女人の解禁が行われ寺は結願寺として栄えたものの天正の兵火で焼かれてしまう。誰がこの寺を焼いたのかは定かではないが長宗我部元親ではなさそうだというのが通説らしい。

 この寺の北にある女体山の麓にあった寒川さんがわ氏の昼寝城を攻め落とせなかった三好・安富軍が腹いせにこの寺を昼寝城の代わりに焼き討ちしたという話もある。昼寝城跡は遍路道のすぐ近くにあるらしい。

 その後高松藩主のおかげで寺は再興したが、明治三十三年に再び失火によって焼けてしまう。それでも四国八十八ヶ所の結願霊場として歴代住職の努力により現在に至る。

 この寺はさすがに他の札所よりも思い入れも思い出そのものも違うように感じるが、一度でも逆打ちをするとそのあたりは特別なことでもないなと思ってしまうものだ。納経所でお願いすると結願証明書を一部千円で発行してくれる。名前の部分だけ手書きの賞状みたいなもので筒のケースに入れてくれる。見た目はまさに一時代前の卒業証書だ。納経所の人によっては労いの言葉をかけてくれるがそうでないこともある。

 また金剛杖を納めることもできるが、「高野山まで持ってってください」と納経所の人は最初受け取りを拒む。これがあまり印象良くない。金剛杖を納めることも個人の意思。拒否されてもハッキリと申し出れば受け取ってもらえる。

 門前にはいくつかのお店が出ているがそんな中のひとつでなめこうどんを食べるのが個人的にはこの寺でのお約束事になっている。

 そしてこの寺を打ったらその日のうちに一番霊山寺へ行って結願の報告をし、その日の晩は鳴門か徳島で1泊してから船で帰る。

 これまで結願の日は鳴門か徳島のどちらかが阿波踊りの日と言うことが多く、阿波踊りを見てから(場合によっては踊って)帰ることが多かった。

 この日記も時間はかかるがお礼参りで一番までは行くことにしている。そしてこのアプリ、お遍路ウォーキングは一番霊山寺に戻るとまた次の周回が勝手にスタートされる。キレイにリセットされるように見えてアプリを始めてからの累計歩数と周回数は記録されていく。因みに今日までの累計歩数は、

5,299,261歩

 このアプリで言えば4周目が始まるが、また新たに遍路日記を書こうかどうかはまだ決まってもいない。どうするか思案中だ■

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