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滑川渓谷のカマキリ

愛媛滞在中、お休みにルームメイトと滑川渓谷という場所へ行った。

道中は段々と山に入っていく景色が楽しめて、山の中にもポツンポツンと家々がありそこでの暮らしはどんなものなのかと皆で想像しながら向かった。
車を降りるともうそこは下界とは違った空気が流れていて、とても寒かった。

行ったことがあり今回案内をしてくれたルームメイトが事前に寒いことを伝えてくれていたので、完全防寒で渓谷を目指す。


川の横を登っていく。
紅葉の絨毯、木の手すりにまで伸びた苔、倒れた大木をくぐって、何度か川の上の橋を渡りながら五感いっぱいに自然を、プラーナを感じる。

私の見る景色の中に、いてくれたら嬉しい人がいた。
何度も写真を撮りながら、自然の美しさを感じながら進んだ。

渓谷に着くと、それまでの景色とはまた違った空間に言葉を失った。
礫岩の岩肌で囲まれた渓谷は、自然が作り出した、まさに芸術。とても幻想的で、神秘的に感じられた。


一番奥まで行くと、滝が流れている。
その滝の横に低く平らな岩があったのだけど、私にはそこに、女神・サラスヴァティーが座っているように感じられた。
だからこそその場所が、その滝が、川が、川の水が、礫岩から流れ落ちる一滴一滴が、より神秘的に感じられたのだと思う。


一人ずつ滝に近づいて滝から直接流れ落ちる水に手を伸ばしたのだけど、私は内心行くことを躊躇った。
それでも岩に近づいていくと、サラスヴァティーは半眼で微笑んでいるように思えた。
私は自然と岩に手で触れ、額に持ってくるというインドのお寺のお参り方法をとってから滝に触れた。

インドでは生徒が先生に、弟子が師に、目上の人の足に対しても同じことを行うことがある。
私は神の足元へ行ったため、自然と体が動いたのかもしれない。



その後、滝から安全な位置に戻ってくると滝をバックに写真撮影会が始まった。
一人撮り、もう一人撮り、私の番がやってきた。(別に撮らなくてもいいのだけど笑)

各々に面白いポーズを撮っていたので、何しようかなと考えながら皆が撮っていた岩の近く(サラスヴァティーが座っていた岩とは別の岩)へ行き、そこでパドマーサナでもしようかなと岩を見た瞬間、そこに今にも死にそうなカマキリがいた。

私はそこに座るのをやめ、「死にそうなカマキリがいる」と言うと、一人がその子を優しく掬い上げ手で包み込んだ。
「どうする?(写真)」と聞かれ、向きを変えた先の岩を見ると、今度はそこに元気なてんとう虫がいた。
私の写真を撮ってくれようとしているルームメイトたちをよそに、私はそのてんとう虫を愛でていた。
てんとう虫を写真に撮っていると、今度は右手の甲のあたりにカメムシがとまった。


私は、“みんな神のもとへ行きたいのだ”と思った。
車を降りてから山道を進み、渓谷はさらに寒く感じられた。
それでも皆、滝の方へと向かっているのだ。


一人はカマキリをそこに置いていくわけにはいかない、と、両手に優しく包んだまま車まで戻ったけれど、私は正直、そのまま、そこで逝かせてあげてほしかった。
彼にとってはそれが悦びだったかもしれない。
命を落としてでも神に近づきたかったのかもしれない。本能として。



大きな祭りでは人が死ぬことがよくある。
神を讃えて、神に近づこうと危険な行為をして、亡くなる。
その行為を馬鹿げていると言う人もいる。
私もそう思う。
でも、私もそうやって死にたいと思うこともある。

祭りとはそういうものだ。
神への祭事とはそういうことだ。
神へと一直線の道を行く心意気。
自ら死ぬのではない、死にに行くのではない。
ただ、その瞬間ど派手に命を燃やして明るく散るのだ。それくらい、堂々と神へと一直線なのがかっこいい。馬鹿であれることがかっこいいのだ。
私もそうでありたいと思う。


手の温もりで生かされたカマキリは、家まで連れて帰られそうになったので
「せめてこの山の中で」と言い、車の近くまでで草の上へと下ろされた。
私は心の中で「ごめんね(ここまで連れてきてしまって)」とカマキリに言った。


生きることだけが喜びではない。
死ぬことが必ずしも悲しみではない。

坂爪圭吾さんが「生きることも死ぬことも全部祭り」というnoteを書いている。

本当にそうだ。
生を良しとして死を悪とするのはやめよう。

もちろん、生き急いで死ぬことはないし、今回の地震のように悲しい最期もある。死を悲しむことはけして悪いことではない。
大切な人の死は悲しいし、苦しいし、時によっては悔しい。
ただ、死そのものを悲しみだけで見るのはやめよう。


死を見て悲しみだけになるのはよそう。
死をもって私たちは神のもとへ帰ることができる。
(私は毎晩眠りにつく時に神のもとへ帰っていけると思っているけれど)

毎日神様の元へ戻り、まだこの身体でやるべきことがあればまたこの世界にやってくる。
一生が終わり神のもとで一休みし、まだカルマが残されていればまた私たちは旅に出る。
これを繰り返し、いつかはこの世のすべて、仕組みのすべて、自分とは何か、そのすべてを思い出し、与え切って何も持たずに、何にも縛られずに、最期の一生を終えるのだろう。

それまで私たちは何度だって出逢う。
だから死を悲しみだけにしてしまうのはやめよう。
もしも誰かの最期の一生を目にすることができたなら、私はきっと感動すると思う。

私はあの寒さの中あそこまで来ていた死に際のカマキリに感動していた。
手で掬い上げられる前、カマキリに向かって私は
「今回もよくがんばったね!
おつかれさま!また会おう!」
と言っていた。

カマキリももしかしたら
「今回もよくやった!ここまで来れたぜ!
愉しかった!ヒャッホイ!」
と言っていたかもしれない。

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