サントーシャ
ヨーガの教えの一つに、「サントーシャ」というものがある。
日本語で言うと、「足るを知る」ことだ。
今持っているもので足りていることを知り、必要以上に求めないこと。今に満足すること。
自分を取り巻くもの、自分自身に「満足する」という意識を持つことで、精神的な豊かさや他とない至福を感じられる。という教えだ。
私たちの心は簡単に“今”から離れてしまう。
いつも未来への不安や期待、また過去の栄光、後悔を心に映し、それらに心を支配されている。
あの頃はこうだった、あの時こうしていたら、逆にこうしていなければ、と過去の出来事に囚われたり、こうなったら幸せ、こうゆう環境だったら、あの人がこうしてくれたら、もっと自分にこんな能力があれば、と自分の理想像を思い描き、未来に幸せを求めたりする。
理想を思い描くことも、望みを持つことも悪いことではない。
しかし、私たちは欲深い。願いが一つ叶ったら、すぐに次の願いがやってくる。
もしも誰かを好きになったとする。するときっと仲良くなりたいと願い始める。そして仲良くなれたら、今度は付き合いたいと思い、もしも付き合えたら、今度は理想の付き合い方をしたくなって、相手に求めるものが増えていくだろう。
「好きな人が欲しい」と言っていた彼女の姿はもうそこにはない。
「好きな人が欲しかった」のであれば、好きな人ができた段階でもう満足していいはずだ。
「仲良くなりたかった」のであれば、仲良くなれたなら満足だろう。
しかし、私たちは違う。私たちの欲は深い。欲は留まることを知らない。
どんなにお金があっても、地位や名誉を持っていても、パートナーがいても、友達がたくさんいても、今ある幸せに気付けない限り幸せにはなれない。
外側に幸せを求め続けても、願いが全て叶うことはないからだ。
外側の幸せには限界がある。願いが叶うことが幸せならば、いつか必ず、不幸がやってくる。
サントーシャは教えてくれる。
本当の幸せはそんなもんじゃない、と。
「2024年は、サントーシャを意識していく」と1月に始めたヨガ友とのスタエフの中で話したのだけど、
先日、瞑想をしていたら、抱きしめているような、抱きしめられているような感覚になった。
誰に、ということはなく、なんとなくそんな感覚がしていたのだ。
そのまま目を閉じ、座って“無”ではなく、“ただ在る”だけの“今”の中にいると、突然、瞬間的に自分の生まれてきた理由を知った。
Instagramには「魂の声を聴いた気がした」と書いたのだが、実際は「聴いた」のではなく、「非言語で悟った」ような感覚。だから文字に起こすときにはむしろ無になった。ただこの身体にペンを走らせてジャーナリングした。
ただ、生きたかったのだ。
ただ呼吸がしたかった。
呼吸をする悦びを感じたかった。
ただそれだけの奇跡に、気付きたかった。
ここに在れることの悦びを、息をすることの悦びを、それらに満たされるという悦びを感じる私になりたかった。
私を、生きたかったのだ。
私は、ただ、生きたかったのだ。
このことを悟り、私は私を抱きしめたくなった。
この身体で在る私が、本質である魂の私を抱きしめたかった。
しかし、魂の抱きしめ方など知らない。だから自分で自分の体を抱きしめて言った。
私に生まれてきてくれてありがとう。私を選んでくれてありがとう。私を生きてくれてありがとう。
もう少し(今回のこの人生を、最期まで)一緒に生きようね。
きっと、魂である私も、身体である私を抱きしめてくれていた。
抱きしめているような、抱きしめられているような感覚は、そのすぐ後に起こることの予知みたいなものだったのかもしれない。
この時感じた満足感は、他では感じたことのない幸福だった。
いや、“幸福”という言葉も、意味合いは合っているのだけどしっくりこない。
言葉では言い表すことができない感覚なので、どうか皆に体感してほしい。
今、私は、生きているだけで幸せなのだ。
毎朝起きて太陽の光を浴びて幸せを感じる。
また私は私を生きている。
呼吸をしている。
それはものすごい奇跡だ。幸せでなければなんだというのか。
もちろん、生活をしていると、ずっとこの心ではいられなくなってしまう。
何かに不満を持ったり、「もっと」という欲が出てくることもある。
それでも、目を閉じて心を落ち着かせ、呼吸に意識を向けると、またすぐ至福の中に戻っていける。
“今”の中にいれば、幸せなのだ。
何もせずとも幸せなのだ。
何が得られなくても、ただここに在れるだけで幸せを感じられるのだ。
もちろん、何もしなくてもいいというタマスなことではない。
向上心は持つべきだ。ジャンプできても、足踏みしても、心を乱すことのないように、今いる自分の位置に満足しながらも、先を目指す。バランスが大切なのだ。
今に満足する。今あるもの、今のあるがままの自分。それらに満足することによって、幸福感と穏やかな心が養われる。
もし何かが来るなら来るがままにさせ、来なければ来ないでそれも良し。
サントーシャの教えは深く、あたたかい。
サントーシャという教えに出逢えた、ヨーガに出逢えたこの人生には本当に感謝している。
ヨーガをこの世に残してくれたセージ・パタンジャリ、聖者たち、師たち、先生たちに心から感謝。
そしてこの瞑想からのジャーナリングで最後に与えられたメッセージは
『与えなさい。もらえたなら、受け取りなさい。』
今日もまた長くなってしまったけれど、私の思考と感覚のシェアが誰かの気付きに繋がってくれたら嬉しいです。
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