病と絵と読書
癌が見つかった頃は、絵を描いていなかった。
その頃より数年前には、絵に心を込めて、何日間、何週間かけて描いていた。アクリル絵の具と筆と画用紙が、いつも手の届くところにあった。しかし、ある頃から絵を描かなくなり、絵の具や筆は実家の押し入れの中で眠っていた。
たまに、紙の余白に鉛筆で、サラサラと何かを描くことはあった。
癌になった。抗がん剤治療をすることになった。入院の準備をしていた。何ヵ月という長期間の入院なので、本はとりあえず10冊くらい持った。
ホームセンターで、スケッチブックを買ってきた。絵が描きたくなった。さすがに病院で、絵の具を使うわけにはいかないので。スケッチブックと鉛筆にしといた。
癌という病によって、半強制的に人生と向かい合った。すると、自然に絵を描きたくなっていた。
癌の治療によって、強制的に生じた余暇。入院中、スケッチブックに、たくさん絵を描いた。
描きたいように、描けなくなっていた。使っていないと、能力って減るものだ。それでも、ひさしぶりの“お絵かき”は、すごく楽しかった。むしろ、うまく描けなかったことで、もっと描きたくなった。
昔好きだった漫画のキャラクター、動物、風景。
変な絵も描いた。今見ると、とてつもなく変な絵だ。どういう心境だったのか。
抗がん剤の副作用が強い間は、絵を描けなかった。ベッドに寝転んで、ひたすら時間が過ぎるのを待った。読書もできなかった。
抗がん剤の副作用が、少しずつ弱まる時というのは、食べれることが本当に幸せに感じられた。精巣腫瘍の患者や元患者が、抗がん剤治療の後、食欲がもどると何を食べたいかっていう話をする。なぜかフライドチキンと答える人が多い。自分もそうだった。精巣腫瘍に使われる抗がん剤の種類によるものなのだろうか。 違う理由によるものだろうか。
吐き気、苦しさ、発熱。精神力が試された。回数を重ねると、副作用も強くなった。偉人の言葉のような、気力を鼓舞する文章を読んで、副作用と闘おうとしたが、あまり有効ではなかった。精神力でなんとかなるものではなかった。「苦しい」という体の状態に、「苦しくない」という意志をぶつけても、余計に苦しくなるだけだった。
トータルで8クール、抗がん剤治療をした。6クールくらいから、副作用が強くてつらい時、ある心構えで乗り越えるようになっていた。“そのまま認める”ことだ。受け入れる、とはちょっと違う感じがする。
「苦しいなあ。まいったなあ。あー。つらい。」とか小さな声で言ってみる。なぜか、少し苦しさが軽くなった。
「苦しい」自分を観察する感じかも知れない。「苦しい」のは、身体的な痛みだ。「苦しい」と観察することに集中することで、体の「苦しい」と心の状態とを、分断していたのだろうか。体は「苦しい」が、気持ち的には、「まあ、しょうがない」と思うことができた。
よく仏教の本を読んだ。仏教と言っても、「極楽浄土に生まれ変われる」とか「現世利益がある」とか、そういう話の本ではなかった。原始仏教は、宗教というよりは、心を成長させ、良い生き方を教える、修業や人生哲学の団体だったようだ。その流れの仏教。アルボムーレ・スマナサーラ長老や、小池龍之介さん。神様の慈悲によって救われるとか、そんな甘いことは書かれていない。心を向上させようとか、哲学的な内容だ。御釈迦様は、リアリストだったのだろう。さっき述べた、抗がん剤の副作用の「苦しい」を観察する等々も、仏教の瞑想法の本の影響だった。
他に読んだのは、五木寛之さん、曽野綾子さん、伊集院静さん、齋藤孝さん等を読んだ。
抗がん剤治療のクールとクールの間、比較的に体の調子のいいうちに絵を描いた。最初自分は、A大学病院というとこで、4回の抗がん剤治療を受けた。約4ヶ月、その頃は比較的抗がん剤の副作用が弱くて、たくさん絵を描けた。写実的に描いたものもある。だけど、良い絵は描けていない。ブランクがあるからというより。やっぱり精神的に混乱していたからだと思う。
A大学病院にいた頃は、精巣腫瘍の治療について、楽観的に考えていた。治るということを。また情報も少なかった。人は、不安になることを考えたくない。でも、無知を自覚して、積極的に学ばなければ、危機を招くことになる。健康や病気のこと以外でも、学ぶ姿勢は、必ず自らを救うことになる。
A大学病院にいた頃は、心がモヤモヤしていた。本能というか、意識の深いところで、置かれている状況を疑っていたからだと思う。A大学病院の入院中描いた絵には、その頃の不安な心境が映し出されていた。
B病院に転院して最初の入院は、後腹膜リンパ節郭清という大きな手術をするのと、その後のケアのためのものだ。絵を描くどころではなさそうなので、最初から諦めていた。手術後は、ベッドの横にくっついている机から、薬を取るのも看護師さんに手伝ってもらった。本を読むのも諦めた。流動食のおいしくないごはんを、頑張って食べた。治りたい一心だった。ひたすら、身体を治すことに集中した。大部回復してきて、スマホの、YouTubeでお笑い番組やコント番組を見た。笑うと傷口がすごく痛かった。笑いすぎたのか、痛いからなのか、涙が出た。
A大学病院と比べて、B病院の窓は大きい。周囲の景色も綺麗だった。富士山もかすかに見れた。その頃、体が自由に動かせないぶん、外の景色ばかり見ていた。今もあの景色は、痛みの記憶と共に心に貼り付いている。
病室の壁にカレンダーが掛かっていて、そのイラストが可愛くて印象に残った。小さな女の子が浴衣を着て、夏祭りの会場を歩いている。3頭身くらいの漫画調のイラストで、詩がついていた。入院中の癒しになった。
数ヵ月後に再発して、抗がん剤治療と放射線治療をした。この時は、再発ということが、かなり精神的にきつかった。最初A大学病院に掛かっていたことに後悔した。けど嘆いても仕方なかった。やるべきことをやるしかないと思って、前向きになれた。
このような状態でも、本を読むことは、いくらかの支えになった。本を読んだところで、自分の状況は変わらない。それでも、マイナス思考で治療を受けるより、やや前向きな現実思考はずっと良かったと思う。
この入院中に描いた絵は、下絵というか、無地のノートに鉛筆でシャシャッと描いたラフな絵だ。今回の入院治療は、絵を描く余裕があまりなかった。ちゃんとしたのが二枚。書き損じが三枚。ただの落書きが無地のノートのあちらこちら。ちゃんとしたの二枚は、自画自賛になってしまうが、構図が良かったと思う。この二枚を元に、いつの日かアクリル画の作品にしようと思った。その後2年以上がたった。1作品は描けた。それはnoteに投稿したことのある『湿地』という作品だ。
自分のnoteとしては、ある時点まででは一番多くの《スキ》をつけて頂いた。偶然とかたまたまタイミングが良かったとかもあるだろうけど、noteユーザーの眼の深さのようなものを感じた。上手にリアルに描けば、良い絵となるわけではない。自分は描き手として『湿地』という絵を、上記のいきさつから真剣に描いた。見る側の皆さんは、そういう描き手の事情は知らないのに、なぜか『湿地』を評価して下さった。たまたまかも知れないけど。
抗がん剤の副作用が最もつらかった時、能動的に何かをすることはできなかった。人によっては、テレビを見ることもキツいらしい。自分も副作用マックスの時や、原因不明の腹痛で、黄色い胃液を吐き続けた時には、テレビは見れなかった。けれど、肉体的に苦しい時を乗り越え、やや体調が落ち着けば、窓からの景色を見ていられた。あんな極限的状態でも、景色を綺麗だと思えたことは、自分にとって喜びであり発見でもあった。
心理学者、ヴィクトール・E・フランクルが書いた『夜と霧』。第二次大戦中の強制収容所でのユダヤ人の悲惨な現実を綴った本。その中で、被収容者達が、自然の風景に感動する場面がある。強制収容所に入れられて、明日をも知れない日々にあっても、自然の美しさへの感受性が失われない。むしろ過酷な現実だったからこそ、美しい自然に魅了されるのかも知れない。