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人と違うという違和感は、発達障害という名前で払拭された話

みんな一緒、の社会で育ったことから、それに従えない自分の苦悩は長らく消えることはなかった。

すでに20年以上の人生を歩んだ。
両親は私の”独特”な性質に気づかないのか、面倒だから見えないふりをしてたのか、もしくは信じたくなかったから目をつぶっていたのかは分からないが、(気づかない原因には親本人にもその症状がある可能性。また子供の身の回りのお世話として子育てはこなしたが精神的な部分に寄り添い理解することには欠けていた。)「脳が変だから病院に行きたい」と言った小学3年生の私の必死な訴えは、「そんなことないよ。普通だよ。」の一言で打ち消され、ネットで発達障害そのものや種類をよく知ることになる近年まで、自分と戦うことになった。(その戦いで大いに周囲に迷惑をかけたことは言うまでもない。)

・PDD ・ADHD ・HSP(性質として)

PDDを抱える子供たちを相手に仕事をしてきた友人がいる。私は自分の想いを誰にでも伝えられるわけではないが(態度は立派だが、心では他人に否定されることが恐怖で、自分の考えと発言に自信が持てない)、彼女には聞いてほしいと思い、出会った当初、胸の内を打ち明けた。話を聞いた彼女は、程度は重くないものの私はこれら発達障害の特徴を兼ね備えていることを認めた。その瞬間私は嬉しく思ったのを覚えている。周囲と比べて”普通じゃない”のは(その特徴に名前が存在することからも)自分だけではないことを感じ、そして居所が見つかったような気分になり安心した。

言葉 ”障害” は”害”の字が連想させるように多くの人と比べて負であり劣っているように聞こえてくる。できるできないで言えば、確かに"みんな"がするようにはできないこともある。でもその代わりに私たちだけしか持っていない能力もある。(ということを多くの人は知らないかもしれない。私はそれを誇りに思い、障害と名付けられたその症状を兼ね備えた自分の独特性を喜んで抱える。)

一概に障がいと言っても種類がたくさんあり、程度もあり、列挙された症状の中には実は誰にでも少なからず当てはまる部分があるように思える。もしかすると世界中の人々全員を障がい者と呼べるかもしれない。であればそれと同時にみんな普通でもある。さらには私にとってはこの私が普通であり、みんなは変わり者だとも言いたい。

私たち”社会の変わり者"(私に共感する人が一人だけでもいれば安心するし、またそれを信じるがゆえ一人称複数で示すこととする。)は、社会でわりと静かにしているから目立ちにくいが、声をかければ続々と名乗り出てくるだろう。人の生まれ持った性質は努力しても変わらない。それは私が経験済みだ。それを乗り越えようとするならば、自分を周囲に順応させるように変化させるのではなく、客観的に見つめて受け入れ、愛し、その性質を生かしてゆくべきなのだが、その話はここでは省略する。

私はこの世界に散らばった仲間を探し集め、世界を創り上げることを望む。私がここで上げる声が仲間に届くことを願って。


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