pycho-pass3の倒錯
慎ドウが過去の写実しかできなくて、新しい何かを作れないのは、pycho-pass3の肝となっている。
劇場版を意識しても以下の点がやり過ぎたと思う。
結果的に3期で行われたのは2期にはしっかりとあったミステリー6元素の破壊行為とpycho-passブランドの信頼低迷、免罪体質者の定義と曖昧さとシュビラシステム内部の作品外部からの否定行為。
これなら3期なく劇場版を迎えた方が作品の世界観や信頼は落ちなかったと思う。
メンタルトレースで過去の写実しかできず、この異能を能力に足される形(有能な能力やパーソナリティーに異能力でパワーアップされる)ではなくて、
この異能力がパーソナリティーの形(無能で足りない欠格を補ってやっと有能となるかたパワーアップではない。頭の悪い御曹司のようなお金で補うだけでパーソナリティーを保って中身が空っぽ)となってるのが何より問題点であると思う。
異能力があるともっと頼りになるのではなく、異能力に頼ってやっと使い物になるのだ。
元は無能以外の何者でもない。
高噛を見ると判るが、異能力を持ってない高噛(と槙シマ)は頼りになるのに、異能力を持ってる慎ドウは異能力がないと頼りにならない。
これはイグナトフが1話辺りで『メンタルトレースがある~』と台詞で言ってるので周知で無能は周りも認めているのだ。
驚くことに免罪体質者で無能が出来上がった。だがメンタルトレースでパーソナリティーが安定してるのであれば、メンタルトレースという異能力が使えない慎ドウは免罪体質者を維持できるの?ってことだ。
しかし、免罪体質者だらけのシュビラシステム、2期では維持できない免罪体質者は消されるのである。過去に消された免罪体質者と同様の宿命背負う慎ドウがシュビラシステムの監視対象になる事は現実味に欠ける。
(現実じゃない、これはアニメだから、と思うならアニメ作品は失敗だと思うけどどう思われますか?開き直るような作品なら創作として雑を私は感じますが…)
そしてこれは2期もだけれど、免罪体質者でありながら、体質だから変わりにくいものなのに犯罪係数に多大な影響出るなら免罪体質を作る意味がないのでは?
免罪体質者なら濁りにくく、体質らしくどんな状況になっても、残存するべきだと思う。
免罪体質者が消されるほど濁ることは、性別転換するぐらい体質が変換することでないと設定そのものの意味がありません。
科学実験で言うと、有意な差がない結論になってるのと同じで免罪体質者と一般人の差は、左利きと両利きの差しかなく体質のような努力でなんとかならんものではなくなってしまっていると思う。
なぜメンタルトレースしかできないキャラが入ったのか?新しいものが出て来ないのか?
ミステリーができずSFが出来ず管理社会が出来ず、写実しか有能さがない主人公を出せないといけなかったのか?
それは作れる主人公ではないからである。写実しか評価されない主人公。写実できなきゃなにもできない主人公。
免罪体質をつけないと主人公になれず、メンタルトレースという異能力がないと主人公になれない主人公。
努力で得てないもので進む主人公。自己犠牲しなきゃ進めない主人公。
つまり慎ドウに能動性がなくストーリーを動かすコマとしてしか慎ドウがいない。主人公なのに主人公の物語ではない。だから引き込まれずキャラを好きになれない(グッズがほしいと言えないキャラ、主人公)作品だ。
主人公が愛されないアニメはつまらない。無能な主人公だとつまらない。
主人公が未来を作れない。だからつまらない。これがシリーズものではなくスピンオフならいいがシリーズものにしたのがつまらない評価が多い理由かと思う。
主人公に才能はありません。作れるのが才能です。写実は作ってるのではなく既存の物がなければ成り立ちません。コピーだからです。
言ってしまえば二番煎じ以降でしかない。
だから異能力であっても才能ではないのです。
そんな人ありき、依存ありきの主人公はpycho-passシリーズでは一般人に近く、集合でなくては生きられず活かせずでした。依存状態のイグナトフに人のせい(旦那でありながら妻の危険を親友のせいにした)にされても説教できない無能でもあったのです。
2期で見られた『集合知』という『心理状態』と『魂』で計る犯罪係数とは無関係の免罪体質者の『知』で集団の犯罪係数を計るという倒錯が行われた。
集団心理学上、集団で濁るものも個人だと濁らないというのが通常だ。それなのに集団で計って特定の個人だけ消された2期は全く現実的ではなかった。
集団は濁る。ただそれだけが確実だ。