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色褪せず滲まず

早めに書くといって1か月開いてしまった。
何回か言ってるかもしれないが、以前よりもnoteの人口が減ってしまった気がする。というか、同世代~上、くらいの人たちがSNSやらnoteやら、そういう場所から少しずつ消えている。年のせいなのかな、という言葉の中には「自分たちが歳をとったことで発信したい気持ちが薄らいだ」という意味もあれば「インターネットで発信することの意味合いが現代の若い人にあわせて変わってきて、自分たちはその変わった意味合いのあるインターネットに意味を見出せないから」という意味もある。
そもそもインターネットっていう言い方にもう世代を感じる。今はなんていうんだろう。昔はダイヤルアップとかいって本当にパソコンから小さい音でころころころというダイヤル音が聞こえたのだが多分信じてもらえないし、その頃は自分と同世代の子どもたちでインターネットを楽しむものとして使う子は自分の周りには少なかったし、その頃のインターネットの楽しさは今と違うこともあまり理解されないだろう。

この数週間は風邪をひいていた。
今風邪をひいている人も花粉症の人も多いのでどこでもらってきたのか。とりあえず乾燥していると風邪も花粉もよくないので加湿しまくっている。しまくったところで頑張って40パーセントくらいだ。電気代と水道代が気になるが、子がいるとそのへんはあまり節約できないものだと思う。


子にお金をかけるのは必然、とは妊娠中から思っていたことだ。
けれど私は子供が苦手なので、自分基準で自分が満足できるものでお金や時間を使っていこうと思っていた。
なるべく買うのは1つのもので長く使えるようにレンタルしたり、ひとつの汎用性の高いもので代用できるようにしたいと思っていた。ガーゼやおくるみなどしかくい布類は大体応用が利く。タオルでもよさそうなのになぜ準備品に入るのはあえてガーゼなのかとも思っていた。

服や身の回りのものも、性別や年齢を感じさせないものを選んだ。
「生まれて間もない頃くらいくすんだ色を着るな」という私見も持っていたので流行りのくすみカラーも選ばなかった。(生まれたてくらい明るい色であれよと思っている)なのでベージュやグレーは良しとしつつ、パステルカラーは選んだ。けれどそれも無地やコーデュロイのようなのを選んで子供らしさが少ないものを探した。
おさがりをいただくと、子供らしい柄のものだったり派手すぎたりしたので使いたいものだけを使わせてもらった。これらを選ぶのはセンスの問題なのだろうか。そうでないのであれば自分には理解できないと思った。

子どもらしいものを買うことが怖くもあった。
生まれてくるのは子どもであるがいずれ大人になる人間。子どもであることより前に人間。その生まれてくる人に対して子どもであることを求めているような気がして困惑した。選んでいるのは私で、生まれてくる人が自分で望んで子供らしい服や物品を選んでいるのではないから。
「大人になるまでに自立して生活できるようにする役目」と自分に言い聞かせていた。そう思うと可愛いもので揃える必要はないし情が湧きそうだからやめておこうとさえ思っていた。

思えば仕事道具をはじめてそろえた新社会人の頃も新しくそろえたものはかなり少なかった。
色々楽しくそろえたところで、これらの仕事道具がすぐに嫌な思い出にけがされて、目に入れば仕事を思い出す嫌なものに変わるのだから、初めから敢えて仕事のものをそろえたくはないと思っていた。だから逆に、そろそろ捨ててもいいようなものを使っていた。
けれど後輩が何人かできるようになる頃には、好みの道具をそろえることもあった。それを後輩に褒めてもらえることもあった。そんな自分の持ち物をみて、後輩たちが少しでも仕事に希望を持ってくれればいいなともほんの少し思うようになった。
選んだ時のわくわくした気持ちや楽しさを失うのが怖い、その感覚はどこでどうして薄らいでいったのだろう。
それをみたからといって仕事が嫌になるということはなかったから?…そんな気がする。

子が得意げな顔で笑っている。
何もないのに不敵に笑っていたり、テレビで逆上がりを成功させた子を見て私が「お~」と(育休で異常に増えた独り言を)言っている横で拍手をしたり、私がくしゃみを連発していたら笑って「しゃん!」と口で真似をする。
子が今夜もくるまるのは動物の柄がいっぱいのうすいクリーム色のタオルケットだ。
そのタオルケットを選んだ時、「これが可愛いから」「これを使ってるのが似合うから」「可愛いものに可愛いものを重ねたいから」いろんな気持ちが駆け巡っていた。
子はスリーパーを着ているのだが、それとは別におなかに何かをかけたり何かを抱えたりして眠りたい様子があったので試しに買った。
まあ本人が使わなくてもなんかには使うだろうくらいの軽い気持ちで、ついでに絵本も買った。

もちろん出産前に準備したものもどれも今見るとなんだかんだ赤ちゃんすぎて可愛いのだが、もっと赤ちゃんらしいものを選びたかったなと今更思うのだ。今ならついつい「らしいもの」をたくさん選んでしまうだろう。
だって、なぜタオルではなくガーゼをそろえなくてはいけないのかなんて理由はわからないままだけど(タオルでもいいのかもしれない)きっとガーゼのほうがこの小さくて壊れそうな体は触れやすくて、細かすぎる指なんかもよく洗えたりして、この繊細すぎる頬に触れるのは確かにガーゼなんだろうなと思うのだ。理由なんてなくても。
「これが似合う」「これを使っているところをみたい」、この感覚は一人の赤ちゃんに対してでもなければ一人の人間に対してでもない。客人を迎えるのような感覚を、他人であろうとする覚悟を、生まれただけですべて取っ払ってしまった威力が一人の人間には確かにある。
それが生まれてきた本人にとっては、希望や救いなんかではないだろうなとは思うけれど。

あの頃の自分の感覚も確かに本物だけれど子を見ていれば何もかも無駄な誓いになってしまいそうになる。
私は子が自分で生活ができて、幸せに生きられるようになるまで安全を確保し育成をする者というだけだと今も言い聞かせる。
それでも結局、今の我が子に似合いそうな優しい柄のものを選ぶ。(はっきりした色や大きな柄をみると怖がって泣くことがあるからというのもある)

きっとさみしく思う日もあるけれど、多分、そんな単純なものではないよとまた色々取っ払って私に新たな感覚を投げつけてくるのだろう。
小さいだけで可愛い服、大人にはない可愛い柄の小物、それが誰よりも似合っている我が子、そんな子をみてつい笑ってしまう日々に。




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