在り方・動き方の価値 The value of "to be" & "to do"0009
どうあるべきかではない
どうありたいか
とか
何もしなくても生きてるだけで価値がある、存在の価値
と
何かしつづけて成果をだすことで価値を作り続ける、積極的に創造した価値
そして、わたしはよく耳にする、世の中の全てに価値がないものはないんだよ。
価値があるから存在しているんだよ。
もう、この考え、違和感強め
じゃ、あいつらも?、あの殺人鬼も?、戦争を仕掛けたリーダーも?、人を貶めた奴らも?、迷惑かけてる輩なんて、そこに目を向ければ無限にひしめいていて、その人たちが迷惑かけた瞬間に存在が亡くなっていない・死んでいないとするならば全く矛盾すると、頭では考えてしまう。
価値があるから存在しているんだよ。価値が亡くなったらなくなるんだよ。
他人様に、社会に害なすモノが、亡くならないのは、価値があるからなの?
もう、本当にわたしには受け入れがたい考えだった。生理的に
そして、まったく釈然とはしていない。今でも
ただ、もしも仮にそれが本当ならと、その意味を考えてみるようにしてみた。
なにか意味があるんだろうな?
って、
そしたら想像はできる
「他山の石」だったり、「人のふり見て我がふりなおせ」だったり、
身体的・精神的に、弱い人がいた際に、やさしくしようと、ふと思えたり
身体的・精神的に、弱っていた時にやさしくしてもらった経験があるから、目の前に同じような状況の人がいれば、その人の心に響く心強い言葉や行動を投げかけることができたり。
ましてや、一般的に弱者と周りが思っていた人がそっせんして誰かを助ける姿を見た時の、我々の何とも言えない、情けなさ。
それは、最高に心を育てる光景・体験だとも理解できる。
きっと、「価値があるから存在しているんだよ。」
の下の句は
「じゃ、どんな価値があるんだろうね?」
かもしれない。
そのとき、生命の意味、命の意味、生きる意味、死ぬ意味、人生の意味とか、ただそこに在ることの意味を見出すことができる気がする。
それは、誰のためでもない、自分が心穏やかに楽しく生きるための考え方を助けるきっかけであった。
なにか、価値を生み出さなければ生きる価値がないと、思いこまされていたのか?思い込んでいたわたし。
わたしがわたしの価値を見つける。
わたしがあなたの価値を見つける。
そして、見つけたら全力でそこに光を当て続ける。
光を当てれば、それを自他ともに意識できるように磨き輝きを増すことができれば、そこは素敵な世界な気がしてならない。
価値を認めてほしかったら、認めてほしい人の価値を探そう
わたしの近しい人、周りの人の価値を見つけ、そこから尊重し尊敬しよう。
なぜか、すごくそう思った。
そんなずっと自宅で仕事にいそしみ。
破からJPへ、沖縄の先輩とうちあわせをし、
心の友を励まし、励ましあい、プレミアムフライデーは過ぎていく。