パスポートを取りに
今週も地元、滋賀にふらりと帰った。
パスポートをもらいに。
夏にイタリアに行く予定をしているため、必要になったのだ。
パスポートの交付場所と駅が遠くて、駅に直接向かうのもなんとなく味気なく、ぼーっと湖岸を歩いた。
湖岸は風が吹いていた。
暖かな湖岸沿いを冷たく緩やかな風が吹き抜けていく。
その緩やかな風は、琵琶湖沿いを自転車で通っていた頃の記憶を思い出させた。
あの頃。
なにを思い、自転車を漕いでいたか。
私が夢見たものは、その先にあったのか。
歩きながら、目に映るもの全てが懐かしく、地元が遠い存在になったことを感じた。
そしてそのものたちを、自分と過去を繋げるものか、あるいは建築を学ぶ視点でしか見ることができないことを悟った。
湖岸とその側に伸びる道ののびやかさ。
湖面と道の作る大阪にはない視界の広さ。
琵琶湖ホールのゆるやかなカーブとオペラハウスとしての機能。
至る所にある大きな広場と滞在する少数の人の贅沢な空間。
浜大津を中心とする大津港の、統一されたモチーフ的デザイン。
路面で走る京阪と横を通る車の非日常感。
脇道に広がる古き街の生活感。
タイルながら重厚な図書館の古風なデザイン。
どれも五感に残るわずかな記憶があり、シーンがあり、思いがあった。
私が滋賀をたつ数年は、苦しい日々だったから歩くたび感情を思い出し、囚われた。
過去を思い今を思いながら、私はふと、滋賀を出ていく前は自分を統制するのが苦しかったのだと気がついた。
自分にあるべきものを求めて、自分の理想に反するものを自分の中から排除していくことを繰り返して作った自分すらも自信が持てなかった。自己否定が自分の本来の形を捨てさせたけれど、その自分すらも自分を拒絶して、結局残り続けたのは自己否定だった。
今でもたまに起きる、人と話した時にふっと出そうになる苛烈な感情は、大体自分の根幹に関わるときに起こる。自己否定の中で自分を維持するために正しいと信じると決めた、自分が守ってきたものがどうでもいいと気づきそうになったときに、認めたくなくて、人のその言動に拒絶反応を起こす。
でもそんな反応をしてしまう自分も、大嫌いなのだ。だからその感情が頭をまわって、また数日して消えていく。
大学に入ってからの日々は、自分と他人の拒絶と縋ることとの繰り返しだった。直截にいってしまえば、愛みたいななにかに縋りたかった。満たされたかった。
けれどそれは、一時的なものに過ぎないことも知っていた。苦しさを紛らわす逃避。私が私を嫌いでなくならない限り、解決できないのだろうと。人から受ける思いは回復の助けにはなるけれど、自分が自分自身を出さない限り、自分でないキレイな偽物に対する思いだと受け取って、どうしても背伸びをしてしまって、自分をさらに出せなくなるのだと。
自分を出すことは理想に反する行為で、だからこそ憧れが邪魔をしたところはあると思う。憧れがあると醜い自分を見せたくないと思ってしまってさらに自己否定が加速してしまう。
だからまあきっと、恋とか愛とか向いてないのだ。諦める。背伸びしようとする、追いかけたくなる、そんな恋なんてしてしまったら今の私は私を隠して勝手に絶望しそうになる。
ゆっくり自分のペースで歩けるようになってから、細かいことはいろいろ考えよう。
…ここ数年言うことが変わってない気がするけれど、少しはできるようになってきたのかなと思っている。いろんなことはボロボロになったけれど、それでもまぁいいかと思えるようになってきたから。
そんなこんなで。
私は今日も生きていく。