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漱石山房記念館5周年記念講演「夏目家、松岡家、そして夫 半藤一利」備忘録

こちらを聞いてきたので備忘録として残しておきます。
レポとまではいかないものですし、メモも走り書きなので大意として読んでいただければ幸いです。

最初は区長の挨拶から。
感染症で来館者が3割ほどに落ち込んだ。4月で6割ほど。ただ区民が増えてきた。
聞き役・朗読の野間脩平さんの紹介。

漱石山房は漱石生誕150周年で建てられた。今年5周年なので生誕155年となる。

漱石は偉い人だから完全無欠というイメージがあるが、母(筆子さん)からすると怖かった。怖いお父様。
人間味がなかった。書簡などを見ると他人には優しいようだ。
それは神経症を患っていたから。生まれた頃はそうでもなかったが、ロンドンへ、しかも11月の寒くてじめじめした一番嫌な時に赴任した所為。
現地の人と比べて背が低いのもコンプレックスで、酷くなった。かわいそう。
ロンドンはどん底生活。
『お前が恋しい』と鏡子さんへ送ったのは寂しかったから。根は優しい人。
恋文を出したのは恋しかったから、寂しかったから、それほど追い詰められていた。
筆子さんが生まれた頃、熊本にいた頃は良かった。ロンドンから帰ってきてからが酷かった。
2番目の娘に対してはもっと酷かった。漱石が不在の際に誕生したので疑っていた、どこか可愛くない。
戦争中、友達の家の父親が出兵している間に生まれた子に対してもそうだった。可愛がる気が無かった。
漱石もそう。二番目の子だけ憎まれた。

鏡子さんと漱石はお見合い結婚。
漱石はどうだかわからないけれど、鏡子さんは見合い写真を見た途端に好きになった。面食い。
会ったらもっと素敵だった。漱石に恋い焦がれた。
(鏡子さんは悪妻と言われいるが、という振りに対し)
鏡子さんは変わった人だったから。朝起きないとか、ある意味悪妻。
でも言っても聞きやしなかった。
良い人だけど世間と比べると変わっている人。
木曜会(九日会)には尽くしていた。弟子達に食事を出さないということはない。
人数が増えても食事を出す。そのあたりは鷹揚。

松岡家の話。
(筆子さんを巡って久米・芥川と恋愛沙汰があったが、という振り)
母(筆子)さんが父(松岡譲)にべた惚れ。
父(松岡譲)はどっちでもいい。対等に付き合えると思えない、漱石先生のお嬢さんになんて……。
久米は惚れちゃっていた。ただ気が多い人だから、母が何番目かは知らない。でも筆子さんをお嫁さんにしたい。
父(松岡譲)は半年だけ最晩年の弟子、末弟も末弟だから口もきけない。
漱石へ質問があったとしても出来ない。口がきけない。
久米は最初から聞ける人。だから無理矢理松岡を木曜会へ誘った。
行ったら筆子さんが一目で松岡を好きになる。

半藤一利さんの話
結婚したのはあの人が自分に惚れたから。あれほど自分に惚れた人はいない。ずっと好きだった。
自分とは逆。自分も強いが母も強い。
半藤に惚れられて好きでもなかったけど楽しかった。めんどくさくなったから結婚した。
筆子さんはそんなのいや、好きになって結婚しないと(筆子さんは松岡にべた惚れだったので)
結婚したのは殺し文句に惚れたから。
「女神様、貴方の奴隷になりたい」
(半藤一利さんが)奴隷になるならいいや。自分が下手に出るのは嫌。
(末利子さん自身は)自由奔放で(一利さんに対し)我が儘した。
向こうが好きだと絆されて好きになった。
母(松岡にべた惚れだったので)に取り上げられて貰えなかった(恐らく理解してもらえなかったの意)
半藤は漱石も尊敬していたし、松岡譲もある部分で尊敬していた。
けれど松岡はそれほど作品を書いていないから、寡作。不幸続き。
久米がでたらめなのを書いたから。父を悪者に仕立てたから。松岡は卑怯だ、と。
父(松岡)はその弁解をしなかった。自分が向き合えるようになったのが10年後。
真面目な小説を書く人だが、世間ではそうでもない。
みんな松岡に嫉妬をした。不幸続き。
ちゃんと読めばわかるのに。

父(松岡)のことは好きじゃない。
父は忘れられた作家だから。死んだ時の取材も寂しいものだった。誰も覚えていない。
半藤(一利さん)が死んだ時は騒がれた。悔しかった。頭にきたから悲しくなかった。
それほど惚れてもないし。よくしてもらったから感謝はしている。
あの人(半藤一利さん)だから我慢してくれた。
半藤は運がいい人。自分と結婚したのも運がある。
一人で暮らすのは大変(今の暮らしの話)
でも半藤があれ以上身体を悪くすると介護は続かなかった。
これ以上苦労するだろうから自分(末利子さん)の為に死んだのでは。
(一利さんが末利子さんへ)それほど惚れていたから感傷的にならない。
比べて父が大切に扱われなかったのは悲しい。(末利子さんが)傷ついていた。

漱石の享年は49歳で若すぎる。
末利子さんのお姉さんが大正8年生まれだから(松岡と筆子さんが)結婚したのが大正7年?
久米が筆子さんをいただきたいと鏡子さんへ申し込んだ(ただ久米が本当に結婚したかったどうかは知らない)
鏡子さんは男手の仕事をしてほしかったから、「私(鏡子さん)はいいわよ、本人(筆子さん)がいいと言ったら」となった。
けれど本人(筆子さん)は嫌がった。折れない。父(松岡)が好きだから。強い人だから。
昔の、明治の人なので口では言わない。「母の言いつけだから……」と。
でももう少しで結婚させられそうになった時にハンストをして寝込んでしまった。
周囲が死なれたら困る、と松岡と結婚になった。
結婚後、松岡達は夏目家で暮らすことになる。
他の兄弟(漱石の子たち)は松岡を大事にしなかった。
鏡子さんも自分が良ければ良いと大事にしなかったし間に入ることもしなかった。
松岡に対して小説を書かなくてもいいとも言った。漱石が40過ぎてから小説を書き始めたから。
松岡は家(松岡実家)を捨ててまで小説を書きたかったのに。
だから(キャリアに関して)足踏みしてしまった。
堪えきれなくなって書いたのが7年後。夏目家で仕事を任されて忙しかったけれどその間に勉強をしていた。
それで書いたのが法城を護る人々。売れてよかった。
関東大震災の前に再販をしたけれど地震で全部灰になってしまった。運が悪い。

大正の時代に松岡は漱石の文学館を作りたいと奔走をした。
けれど船頭が多かったし、他の弟子たちがお金を出したくなかったのかぽしゃってしまった。運が悪い。
150年目の節目に(漱石山房記念館)が出来た。
中島さん(中島国彦先生)と区長(最初に挨拶をした方)の熱意がすごかった。

姉二人と兄四人は山房で生まれて育った。
(松岡は)婿に行った訳ではないのに婿扱いされていた。かわいそう。
自分(末利子さん)は山房で育っていない。
だから上は(同居の鏡子さんや漱石実子たちがいたので)良い子で遠慮深いけれど、自分は遠慮しなかったから我が儘邦題。

祖母(鏡子さん)は猫を飼っていればなんとかなると思っていた。吾輩は猫であるで当たったから。
でも可愛がらない。戦前は7、8匹いたけれど名前もつけない。
戦争でネコがいなくなって、戦後は3匹くらい。
ネコがお金を運ぶだろうと信じていた。そういうとんちんかんなところが悪妻と言われるのかも。
でもよく尽くした人。病弱な漱石の看病をよくやった。
悪い人だと思ったことはない。
漱石のお嫁さんは鏡子さんじゃないとつとまらない。

(そのあたりのことは漱石の長襦袢に書いていらっしゃる)
あれはどこかで連載していたものをまとめたのだったと思う。

質問タイム

このご時世もあるし感染症関連のこと。
漱石の娘が腸チフスにかかっていたと林原耕三に手紙を出している。
他に感染症にかかった人はいるか。
→それは母の三番目の妹がかかっていたはず。
一番下の子(雛子)は引きつけですぐに亡くなっている。
漱石家は丈夫じゃない子が多かったが、筆子さんは丈夫だった。
三番目が赤痢だか疫痢だかになっていたはず。
漱石の墓は鏡子さんの弟がデザイン。漱石の椅子をイメージ。


筆子さんがピアノの練習をしていたと聞いた。また、学校に進むのを諦めていたとも。
その後の人生でピアノ(音楽)を趣味でやっていたか。
→漱石が筆子さんにピアノを習わせていた。鏡子さんは関わらない。
また、途中で受験のない日本女子大へ筆子さんを入れた。それまでずっとピアノをやらせていた。
お陰でピアノを弾くために運動会などで苦手な運動をしなくてよかったとのこと。
バイオリンも習わされたけれど、こちらは1回でやめた。
筆子さんの弟は音楽の道へ進んでコンサートマスターまでやった(夏目純一さんのこと)
純一さんの奥さんはハープ奏者だった。でも留学とかはしていない。
なり手がいなかったからオーケストラに入れた。
だから早くやめなきゃ、と言っていた。
(ここで①の質問者が夏目家の女中だった方が「鏡子さんが欧州留学をした純一さんのことを『一人場違いなところへ行ったから困る』と発言していた」と言う)
純一さんは房之介さんの父親。
漱石が多才な才能の持ち主だという訳でもない。
その漱石が音楽をやらせるのが不思議。漱石が直接音楽の先生へ頼みに行く。
漱石自身はうたいもヘタな音痴だから音楽が好きだとは思えない。
なのに音楽を習わせるのが不思議。しかもピアノの先生と喧嘩をするし。
絵は好きだったようだ。

その後、野間さんの朗読。

朗読の合間の話。
・内田百閒が「漱石先生は日本人の先生であり、日本人の教科書である」というようなことを言っていた。
・半藤一利さんのインタビューで漱石のどの作品が面白追いか、というのに対し、「書簡が面白い。素直に書かれている」と答えている。

70人の座席に対して300人くらい申込があったとのこと。


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