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砂漠

アフガニスタン国境近くの街、テルメズ。
そこは8月中旬の日中には42-43℃にもなる、灼熱の、荒野。
テルメズという名前は、ギリシア語で「暑い所」を意味する"thermos"が由来となっているという説もあるようだ(諸説あり)。
このテルメズでの時間についてはまた別で書こうと思っている。


テルメズからサマルカンドへ行く列車に乗り込んでからしばらく経ち、出発時刻間際となったころ、私と同じボックス内の斜め向かいに座った一人の女性がいた。Otwaという名前だった。
今回の旅では、(「会話」というには程遠く、全くと言っていいほど喋れなかったが)現地の人とは現地の言葉で話したいと思い、覚えたてのロシア語・ウズベク語で話しかけた。
彼女はタシュケントまで一人で行くようだ。誰かがタシュケント駅で迎えに来てくれるのかはわからなかった。
「暑いね」
彼女は手をパタパタさせながら言った。
この列車は2等車で冷房がついておらず、列車が動かないと外からの風が入ってこずとても暑い。ただ、湿度はかなり低いので、紙やタオルなんかをパタパタと仰げば割とすぐ汗が引いてくれる。
「暑いね、ほーーーんとに暑い」
私が返事をすると、彼女はうなずいて、また黙って視線を移し、窓の外を眺めていた。


彼女と過ごした時間は、沈黙が多かった。けれどもそこには静謐で穏やかな、そして初めて会ったにもかかわらず前から彼女を知っているかのような懐かしさが漂っていた。どうしてかは、最初は分からなかったけれど、彼女が私を「見慣れない日本人の旅行者」としてではなく、ただの「人」として見てくれていたように思ったからなのかもしれない、と思った。
当然のように自然に「暑いね」と話し、沈黙に身をゆだねる。
時折、目が合って微笑み合う。
「やっぱり暑いね」「あ、でも風が少し強くなったから暑さが少し和らぐかも」と少しだけ話してまた各々の時間を過ごす。
私は「日本人の旅行者」としていなくても、私は私でいいんだ、と思えたときでもあった。そして、この穏やかな沈黙を共有させてくれた彼女の、寡黙に滲むやさしさにとても惹かれた。なんだかもう二度と会えないような気もしたし、またすぐにどこかで会えるような気もした。

小腹が空いてきた17時ころ、Otwaは、自分で持ってきていた肉の煮込みとナンを分けてくれた。直径15センチほどの小鍋に入った羊肉の煮込み料理は、バザールの食堂を思い出させる香りがした。一方の私はバザールで買ったピスタチオと1Lペットボトルの水三本分ほどしかもっていなかったため、
「ピスタチオならあるんだけど良かったら食べてください‥‥」と申し訳ない気持ちでピスタチオの入った袋をテーブルに置くくらいしかできなかった。程よい固さに煮込まれた羊肉は、味付けもちょうどよくておいしい。ウズベキスタンでもカザフスタンでも、列車で食べ物を分けてくれる人が多かった。イスラーム教の教えからなされることなのだろうか。列車内を見渡すと、現地の人達は知らない人同士でもよくご飯やお菓子を分け合っているようだった。一緒にご飯を分け合って食べるということは、その人の血肉となるものを分かち合うことができる、という意味でその人と近くになれる気がしてうれしい。完全に分かり合えることはないとわかっていても、それでも分かりたい、近くへ行きたいという祈りにも似た気持ち。「分けてくれてありがとう。おいしい。」と言うと、彼女はもっと食べていいよという表情で鍋を指差した。「このピスタチオ、おいしいね」彼女はそう言って親指を上げた。

食事後には一緒にチャイを飲み、また二人とも黙って窓の外へ目を向けた。
時折、ポットからチャイを入れ直して彼女に勧めた。「ありがとう。」と言われ、少しだけ「してもらう、与えてもらうばかりの旅行者」と違う関わり方ができたことが嬉しかった。チャイを飲む、というただそれだけのことで、これほど胸がじわじわと温かくなり喜びを感じられるとは思わなかった。


太陽の光を映しゆっくりと色が移り行く砂漠を見つめる彼女の横顔。
どんなことを考えているのかは分からなかった。彼女にとって目の前の砂漠はどんな意味を持っているのだろうか。彼女から見る世界は、どんな風に彼女を照らすのだろうか。それとも、月明りもない夜が広がっているのだろうか。

日が落ち、夜になると、窓から見えるのは一面の漆黒だった。今、列車は街灯もない砂漠地帯の間を通っているようだ。孤独を強く感じた。体がバラバラになって、どこかへ散り散りになっていきそうだ。
車掌の男性がシーツなどの寝具一式を配り始め、私は彼女と一緒に自分の寝床へシーツを敷いた。
彼女は横になり、自分の首に合うように枕の位置を調整している。
一方の私は、あっという間に眠くなって、そのまま寝てしまうのだった。

30分くらい経っただろうか、物音がして目が覚め、微睡の中にいると、
頬杖をつきながら横になっている彼女と目が合った。彼女は少しだけ眉を上げて穏やかに微笑んでいる。
最果てとも言えるような砂漠の中に、涙が落ちて広がり、湖になっていくようだった。悪い夢に、気配に対する恐怖に、国籍や性別によって見定めようとするその目に傷つくことを受け止められる気がした。

湖面にうつる月明りのような人だった。もしくは、天から舞い降りてきたかのような。


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