猛暑、背を犠牲に腹を守る。
今日は月曜日なので図書館は閉館している。
これは困った。
ひきこもりにとって夏の図書館はお金をかけずに涼める貴重な避暑地になり得るからだ。
かと言って家に居ても何をする訳でもなく、惰眠をむさぼるひきこもり1人の体温を冷やす為に、エアコン様に働いてもらうのは忍びない。
というより電気代が無駄だ。
我が家にそんな余裕はない。
仕方がないので近所のファストフード店まで自転車を漕いでやって来た。
灼熱の太陽に長時間晒されたサドルは、衣服を優に通り越して感じる程の嫌な熱気を放っていて、お尻をそっと浮かしながら、道中を急いだ。
ここは毎度のことだが自転車置き場が文字通り自転車で埋め尽くされている。
そういう場所なのだから何も不思議な事ではないのだが。
その割にはここに埋め尽くされている自転車の数と店内の人数が一致しない気がする。
この謎の自転車達はなんなのだろう。
面倒だが少しこいつらを整理して、新たに生まれた隙間へ無理矢理自分が乗ってきた自転車をねじ込んだ。
入口を塞ぐようにたむろする若者達に睨みを効かせ、店内に入るためのドアを開ける。
室内に充満していた冷たい空気が、ジャンクな匂いと共に一気に溢れ出てくる。
汗をかいて火照った身体と鼻を刺激する。
エアコンが良く効いている。
規定の温度まで冷やされた店内は不自然な程寒く、必要以上に喧騒で満ちた店内はまるでどこかのアミューズメント施設のようだ。
僕は座れないか、空いてる席を探した。
店内を見渡しながら奥へ歩み、四人がけのテーブルと二人がけのテーブルが空いているのを見付けた。
二人がけのテーブルに持ってきた手提げ袋を引っ掛け、他の人に取られないよう、自分の席なんだぞ、と主張を効かせた。
席を確保出来て安心した僕は、商品を注文しに入口の方へ戻る。
喉が渇いていたのでアイスコーヒーを注文した。
慣れないクーポンを使ったので、注文する際に少しもたついてしまった。
少し無愛想な店員にガムシロップとミルクは1つずつで良いかと聞かれたので断った。
席についてから思ったが、ストローも断れば良かった。
150円。
安い。
お店の人には申し訳ないが、これで気の済むまで長居させてもらうことにする。
…しかしうるさい。
ここのところほとんど図書館に併設されている会議室で過ごしていたので、人の話し声や雑音とは無縁の日々を過ごしていた。
だからかどうかわからないが、ファーストフード店特有の喧騒がより頭に響く。
ただでさえ気分が落ちている日は、誰かがペンを机に落とした時の音や、ノートパソコンをカチャカチャと叩く音、本をめくる音等が気になる特性を持っているので、身体がこの場所を嫌がっているのがわかる。
それにそこまで大きくない店舗なので、店内スペース確保の為か、こっちのテーブルとそっちのテーブルの距離が近い。
そうするとほとんど真隣に知らない人が居て喋ったり食べたりしている。
僕はこういうのが苦手だ。
心理的に許せないレベルの距離に他人が存在するのは落ち着かない。
そういう理由から電車やバス、行列なども苦手だ。
と話が脱線してしまった。
この暑さである。
背に腹は代えられない。
金もない。
安く涼める場所を提供してもらえて、なんて有り難いんだと自分に言い聞かせる。
さてファストフード店にはどんな人が来ているだろう。
もう学生達は夏休みに突入しているのだろうか。
人でごった返しているかと想像していたが、すんなり座れたことに運の良さを噛みしめつつ、周りを見渡した。
男子高校生達、家族連れやカップル、おばさま達、老夫婦達が目についた。
様々な人がここを利用していた。
向かいのテーブルにはまだ3歳〜5歳くらいの幼い男の子を連れた女と男、どう見ても家族だろう、楽しそうに談笑しながらテーブルに並べられたハンバーガーやらフライドポテトに手を伸ばしていた。
僕は何気なしにその幼い男の子を見てしまっていた。
溢れんばかりのハンバーガーをその小さな口を開けて、一所懸命に頬張っている。
どこか遠くを見ながらフライドポテトを揚げた油と塩が手について気になるのか、指についたそれを舐め取っている。
紙コップに注がれた飲み物を女が溢さないようにストローを使って慎重に与えている。
至って普通のありふれた光景だ。
何もおかしい所はない。
でも僕はそういう光景を見る度に、やるせない気持ちになる。
僕は今でこそ身体や精神は食べたもので作られると思っている。
何を食べ、何を食べないか、が大事なのではと紆余曲折あって考えるようになった。
身体に悪いであろうものを体内に入れれば、やはり身体は悪くなる、と思っている。
ファストフード店で提供されてる食べ物が健康的だとは、恐らく誰も思ってはいないだろう。
そんなことは皆わかっている。
それでも食べるのは安くて美味しいからだ。
美味しいものを我が子にも食べさせてあげたいからだ。
また食べたいと思うからだ。
僕は貧乏なのでハンバーガーすら高いと思って手が出ないが、世間一般の感覚からしたらまだ安い方なのかと想像する。
我が子の幸せや喜びを願って、良かれと思ってここに連れて来ている。
そういう両親の優しさが傍から見て取れる。
だからこそ僕は落ち込む。
大袈裟だろうか。
もし自分の大切な人や子供が何か病になる可能性が1%でもあり、それを回避する方法を知ってしまったのなら、僕はそれを選ぶ、と思う。
それくらい子供の健康と幸せを願ってあげたい。
ただこれは机上の空論である。
僕には子供が居ないし、子育ての経験も無い。
子育ての大変さや現実を知らないのである。
もし自分に子供が居たらどう接し、何を食べさせるか、などその時にならないと分からない。
これは全て生き辛さを感じているひきこもりの戯言であるので、もし読んでいる人が居たら真に受けないで欲しい。
僕は自分の子供が欲しいと思っていない。
自身の遺伝子を半分受け継いだ子孫を残したいと思っていない。
それに男の僕が子供が欲しい、欲しくないと言うのは何か違和感を感じる。
子供を身籠り、痛みや命のリスクを伴って出産するのはいつの時代も女性だ。
なぜか考えた。
それは僕自身が不幸の渦中に居て、上手く人生を生きて来られなかったと感じているからだと思う。
毎日幸せ!最高!となっていない。
目が覚めると重苦しい感じがして、今日も目が覚めてしまったと思うこともある。
正直ある。
幼少期からの生き辛さを今も抱えている。
将来の希望も特にない。
それはひとえに自分の努力不足もあるのだろうが、育ってきた環境も大きかったのではと最近ではよく思う。
同じ思いを我が子にさせたくはない、と思う。
過去には熱心に反出生主義について調べていたこともある。今はほとんどその内容を覚えていないが、そのスタンスは変わっていないように思える。
この世は一切皆苦なのである、と仏教では真理として語り継がれている。
簡単に言うと、生きるというのは苦しいよってことかな。
四苦八苦も仏教の言葉だ。
とにかく生きていると苦しいことばかりなのだ。
なんで産まれて来たんだろうとか考えることもあるけど、産まれてしまったものはしょうがない。
後ろに戻れない以上、前を向いて、幸せ目指して頑張って生きるしかない。
でもまだ産まれて来てない命に関してはどうだろう。
僕はわからない。
何が正解かわからない。
これから産まれてくる子供達はこの世に産まれてきたいと思っているだろうか。
子供が欲しい。
欲しいとはなんだろう。
なぜ欲しいと思うのだろう。
そういう風に本能で思うのだろうか。
DNAにプログラムされているのだろうか。
僕らは確かに動物だ。
動物なら本能的に衝動にまかせて行動するのかもしれない。
でも人間でもある。
人間には理性がある。
愛する人との子供が欲しい。
賑やかな家庭を作りたい。
出産を経験したい。
親を安心させたい。
孫の顔を見せたい。
子供に美しい景色を見せたい。
色んなことを経験させたい。
ふむ。
わかる、気もする。
でもどうだろう。
ここに子供の気持ちは入っているだろうか。
子供はそれを望んで居るだろうか。
全て大きなお世話にならないだろうか。
自分が幸せになるために子供を利用していないだろうか。
子供のためにも思えるが、これらを望んでいるのは本当は自分ではないだろうか。
日本の未来を憂いて、少子高齢化を解決したくて、子を産む人が存在するのだろうか。
もしかしたらいるのかもしれない。
僕は政治のことはよくわからない。
それでも刻々と日本が悪くなっている、ような気がする。
ほんとに我が子が将来安心してこの国で生きていけるだろうか。
我が子の幸せは約束されているだろうか。
どうやら僕の頭の中には答えはないらしい。
視野が狭くなっているのを感じる。
それでもこれから産まれてくる子供達の為に、日本を良くしようと日々奮闘している人達が存在しているのも知っている。
毎日葛藤や苦難を抱えて、子育てをしながら働いている人を知っている。
精神的に追い詰められながら、それでも不器用なりに我が子を愛している人を知っている。
本当に頭が下がる思いだ。
自身のやりたいことを後回しにして子育てに注力する。
すごい覚悟だと思う。
エネルギーも仕事もお金も時間も愛も知識も覚悟も必要だろう。
僕はそのどれもが不足している。
今日も1人生きていくので精一杯だ。
綺麗事だけじゃ物事が上手くいかないことを知っている。
現実は厳しい。
と、Xを眺めていたら流れてきたポストから色々考えが膨らんでいった。
とても重苦しい空気がこのnoteから発せられているのを感じる。
しかし僕はこういうのが実のところ嫌いじゃない。
眩しすぎるポジティブ思考にあてられて疲れることもある。
このテーマは好まれない言い方かもしれないが面白いと思った。
考えれば考える程、それぞれの生きている人、独自の答えがありそうな感じがする。
と一息ついて画面を見るのをやめた。
お腹が鳴った。
いつの間にか店内に備え付けられている時計の針は夕刻を示していた。
30円引きのクーポンで手に入れたアイスコーヒーは、氷が溶けて薄茶色のぬるい液体に変わっていた。
時計の針から窓の外に目をやるとまだまだ昼間と変わりない気配で、眩しく白んでいる。
西日が走行中の車のフロントガラスを反射して目に飛び込んでくる。
瞼の中で緑色の模様になって、いやらしく残り続けた。
周りを見渡すとさっきまで目の前のテーブルにいた幼い男の子を連れた家族は居なくなり、代わりに会社員っぽい男がノートパソコンを広げてハンバーガーを頬張っていた。
いつの間にか何時間も経っていた。
自分の思考と向き合う時間はとても贅沢なものだと感じる。
腹が減った。
スーパーに寄って帰ろうと思う。
いやその前にせっかく持ってきたのに読まれなかった本達に手をつけるとしよう。
それから数日の間、僕の頭の中でずっと子供を作ることは親のエゴで子供の気持ちを無視しているのでは、と反芻されていて、気も漫ろな生活を送っていた。
こういう自分の中に答えが見つからない時は信頼している人の言葉を頼るに限る。
僕はとあるお坊さんを傾倒してて、何かある度に、この人の言葉を求めて動画サイトで検索をかける。
ご存知の方も居るかもしれない。
ユーチューバー和尚こと大愚元勝和尚だ。
何せ60万人を超える登録者がいるのだから。
それっぽいワードを入力すると、すぐに検索に引っ掛かった。
「子どもが欲しいはエゴなのか」
という目を引くサムネイルと共に、一番上に検索結果が表示された。
大愚元勝和尚のもとには沢山の悩める人から相談が寄せられていて、何年もそれに答える活動を続けている。
なので気になったことはだいたい検索すれば動画としてヒットすることが多い。
僕は晩ごはんを作りながら、画面を見ずに音声だけ流すことが好きでよくやっている。
広告が挟まるたびに手を洗い、ほんのり水分を含んだ湿った指先でそれをスキップする。
いつも良い所でそうなるのでめんどうだ。
静かで落ち着いた態度から発せられる和尚の言葉は心地良い。
私達の身体には命を作り出す器官が備わってる。
魅力を感じる異性に出会うと性欲が高まり性行為をする。
子供を望むのは大自然の摂理であり、何もおかしいことではない。
確かにその通りだと思う。
そういう臓器が身体にはあるのだから。
コメント欄を覗くと肯定的な意見も、批判的な意見もあった。
批判的な意見の中には、僕と同じく反出生主義的な考えを持っている人達が散見された。
そういうコメントを見て僕は少しだけ安心したかもしれない。
視野が広がったのは確かだ。
僕は頭で考えすぎていた、のかもしれない。
子供が欲しくないのではなく、パートナーが居ないことや、子供を現代で育てていくだけの力や自信がないことの言い訳をしているだけなのかもしれない、と。
しかしそれだけではやはり無責任だと感じる。
産まれてしまったら、もう産まれる前に戻してやることはできない。
何が何でも産んだことを正解にしてやらなければならない、と思う。
子供になんで私を産んだの?
産まれたくなかった。
なんて泣きつかれようものなら、ほんとになんて声をかけて謝ったらいいか分からない。
僕はもっと本能に従っていいのかもしれない、という気持ちもちゃんと理解できる、気がする。
狩猟採集時代に将来我が子が幸せになれないかもしれないと憂いて性行為を諦めた民族は居ただろうか。
自らが生き延びることに必死で、なんとか子孫を残せないか、命懸けで毎日躍起になっていたのかと想像する。
そんな時代から一転して現代は豊かになりすぎた。
反出生主義という考えが生まれたのは、その弊害なのかもしれない。
豊かすぎて生きるのが容易くなると、人々は本気で生きる目的を考えなければならない。
自らが生きる目的がないのに、子孫を残そうとは思わないだろう。
避妊具についても考えを巡らせる。
もちろん自然界には存在しないもので、これは現代を生きる人間が作り出したものだ。
野生に生きる動物達が間違って子供を作って仕舞わぬように、性欲の解消や性病を防ぐ目的で避妊具を付けて行為をするなどあり得ない。
避妊具をつけるのは豊かになった現代を生きる人間だけだ。
性行為とは性欲を解消するために行うのではない。
本来は命を作るために行うものであるはずだ。
更に避妊具を付けることで性行為に対するハードルは下がっていないだろうか。
…などなど思考はとどまることを知らないようだ。
だからどういう影響があるのか、と聞かれたら正直分からない。
避妊具は便利だし、なくてはならないものだ。
ただただ考えることは楽しい。
それだけが確かだ。