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愛と鬱の日記




まえがき

2025年、明けましておめでとうございます。
新年早々のタイトルにしてはかなり重いですが、今年もどうぞよろしくお願いします。

12月26日に経営しているカフェの最終営業を終え、まるで燃え尽きたかのように28日から鬱に入りました。僕は鬱シーズンがある程度かたまっていて、
毎年冬から春にかけて落ち込んでいるのですが、今回のはそれだけではないように思います。
僕は非HSS型HSE(刺激を求めない外向的な人)で急激な変化に弱く、人間関係や環境の変化があるときも落ち込みます。自分から進んで変わりにいったり、ある程度予測ができていると防御できるんですが、いきなり来るとだめです。不意打ちってやつ。
今年の鬱は急激にやってきたというか、心の底からぶわっと湧きあがってくるようなものでした。こうなることは予想していなくて、というよりも営業のこと以外に頭が回らなくて…。仕事をしていた頃に我慢していた孤独感や焦燥感が「っっあぁ!」と強烈パンチをしてきて、まんまとくらってしまいました。
そのおかげで年末の予定が一気に狂って、遅らせざるを得なくなりました。
10月にオープンしてなりふり構わず進んできた3ヶ月分の精算業務、2025年の計画の見直し、イメージPVの動画編集、SNSでの振り返りや新年の挨拶などなど。。タスクは尽きず、増えていくばかりです。
しかし「早く…早くやらなきゃ」とならずに、潔く諦めて養生することができたのは良かったなと思います。

それは「心のことを安心して相談できる信頼する人たち」に話を聞いてもらえたり、メッセージを送ってもらったり、気にかけてもらえていると感じる関係性があるからでした。すべてを抱えて押しつぶされた状態になってから「ごめん助けて」と急に送ってしまうので、相手もショックを受けてしまっているかもしれませんが…。慣れている人たちの対応は本当に素晴らしくて、まるで「いつものやつね」と適度な距離感を保ってくれているよなぁと鬱を抜け出してから感謝が尽きません。一度連絡したあとはすべてを抱えることはなくなっていて、どばっと床に散らばして広がったもの(気持ちや考え)を一つひとつ眺めることができています。それでもつらいのには変わりありませんが、何か反応があっただけでも孤独感が和らぐのを感じます。

鬱を抱える他の方とその支援者の関係と比べたことがないので何とも言えませんが、僕とこの方々との関係はいわゆる「一方的な依存」なのかなと感じています。でも、余裕があるときは自分で抱えて考えて解決できていて。
「自分では抱えきれない問題」があるとき、誰かに助けを求めるのは自然な行動なのでは…とも思います。

依存の関係についてもっと学ぶ必要がありますが、
「つらくなったときに安心して頼れる関係性」を「複数つくる」のは、
依存先を増やすことが心身安定につながるとケアの領域で学んだからです。
恋愛に関する悩みが発端で、以降実践して2~3年ほど経ちます。


愛と鬱の日記

前置きが長くなってしまいましたが、
僕は長い間「愛」と「鬱」に苦しめられています。
振り返ると中学1年生の頃からなので16年物。
ウィスキーなら相当美味しい年代物です。
当人が愛をどのように受け取り、伝えるかの素地が形成される「愛着形成期」まで含むと、幼年期まで含まれる可能性があります。

人生の半分以上この身を費やして悩み抜いている「愛」と「鬱」は、
もう僕のアイデンティティのほとんどと言っても良いくらいです。

「苦しいなら心療内科に通って、カウンセリングを受けた方が良い」

ごもっともなんですが、どんな人間か分からない人にたいして自分の心のことを打ち明けるのは苦手でした…。そのためいつも睡眠薬を処方されて、経過を観察されるばかり。苦手な先生だったこともあって、通院しなくなりました。
また一人の俳優として個人的なこだわりもあります。人と真剣に向き合い、自分や相手の立場や心情を理解しようとする姿勢を持ち続けるために、
僕はずっと苦しんでいる人の立場にいたいと決めています。暗がりにいる人には、暗がりをよく知っている人が寄り添えると信じています。

愛と鬱の日記についてです。
これは僕が数年間悩み、気づき、参考にし、出してきた仮の答えを色々と書いたものです。noteで開示したいと前々から考えていましたが、色んな本の知識や自身の経験が追いついてきたような感じがしたので、鬱を抜け出したこのタイミングで投稿します。
後半には順不同に加筆していったメモがあります。

この日記で僕の内面を知ってもらえたら孤独感が軽くなる気がするし、「愛」と「鬱」についてどばっと想いを散らばして、一から眺めてみたら、きっと何かが愛おしく思える気がしています。また、ここの言葉が誰かの参考になったらとても嬉しいです。

LINEでのやり取りやSNSでの投稿、日常での書留などさまざまあります。







2022年


3月17日。
経堂の1年間。自分や他人と向き合う時間。ノートを書くことは、進むことでもあるし、戻ることでもある。(新しい知識を得ることは進むこと?)休んでいる間に考えた、色んな記憶を供養する。手紙を流す。祈る。自分を認める。胸に手を当てる。トントン、トントン。

5月10日。
数年前から「向き合う」は僕の中で大切になっているけど、「逃げない」でもあると思うので毎回もれなくしんどくなる...。どうしてそんなに「向き合いたい」んだろうなぁとふと思って、あれこれ悩んでます。自分との時は理由がはっきりあるけど、自分以外の誰かや何かと向き合う理由はなんなんだろう。

5月21日。
自分が誰かや何かと向き合う理由が、より具体的になって見えてきました。演劇・お芝居と向き合うのは「自分が楽しむため」だったけど、今のところ「自分がそこにいる人たちとの“一体感”を楽しむため」になりました。今までよりも自信と実感を持って言える気がします。人と向き合うときはまだ考え中。

10月9日。
人と向き合いたいと思う理由が、なんとなく分かってきた。どうしても今の自分に必要な気がして、エーリッヒ・フロムの『愛するということ』を読み始めた。振り返ると、「この人と向き合いたい」と感じるときはそうだった気がする。人間賛歌の過程も、この本に至るまでに必要な時間だったんだと思う。

11月17日。
今改めて自分は「どうして演劇をやっているのか」を考え始めてます...。楽しみ方は言語化できているけど、それを上回る問題がたくさんある状況になっている(だった)のが分かって、少し居たくなくなっている。先に壁があることが分かっていながら進む力は...本当に居たいのかなぁ...。

12月1日。
12月に入る。新潟出身なので雪景色のイメージが強い。昨日、実家から祖母のことで急に連絡があった。上京して8年間、地元に雪が積もり始めるのを見ていない。「積もり始めたね」とこたつに入りながら話していた、気がする。埋もれてた記憶を掘りだすように、生活を振り返りだしてしまった。会いたい。


2023年


2月2日。
小さい感動なんですけど、なんか今自分の心身の不調と「ネガティブ」の言葉がばちこーんとハマって、成長を感じて逆にポジティブになりました。自覚できた!やったね!心配や不安の海にざぶざぶ入り込みそうなところで意識取り戻せたので、浅瀬でちゃぷちゃぷしてやります!

2月5日。
でも自分の場合、心配や不安の海にしっかり揉みくちゃにされて泣いて向き合うのが一番解決に近くなるのかも。切り替えて逃れるのも大切だけど、泣きたいときはとことん泣いて、戻れなくなったら頼るので良いんだ。余裕ないんだもん切り替える元気すらないよ!最近泣いてない!!溜め込んでるよ!!

3月4日。
余裕なくぼろぼろのときに、近くに誰かいてくれることのありがたさ。いてくれるだけで本当に充分。話してなくても、心でそう感じられる距離感。僕も誰かにとってそうでありたい。恩返ししていきたい。大人になっても、そんな宝物は全部抱えてたいな。

3月16日。
自分にとっての向き合うは愛すること。
好きな愛し方であり、求める愛し方であること。

3月24日。
自分にとって「心の安定=他人に無関心になる、どうでも良くなる」なのかもなぁと実感している…! 自分の自他の境界線は「目の前の人や遠くの誰かに向き合ってるかどうか」で、向き合わないときは興味ないとき。不安定だから向き合うかと言われたら分からないけど、向き合いたいときはいつも不安定。

4月29日。
最近は特に「嬉しいです」「楽しいです」「好きです」「素敵です」「最高です」を感じた瞬間に言えてるのが心身ともに調子良い。伝えたらほぼ100%相手と気持ち良くなれてそうなのがなお良い。素直に軽率にしっかりと伝えていきたい。GW、お仕事三昧ですが楽しく行きます!

4月30日。
だがしかし「気になる」「不安だ」「嫌だ」「悲しい」「苦しい」「怒っている」は言いたいけど我慢している現状。そっちのコップの水は空にできてない。発散できる機会を増やさないと、いずれ八つ当たり的に爆発しちゃうよな…言えたら楽なんだけどな!限界を迎えてはいるから、実験で様子見とこう。

5月2日。
自分は無意識に、人に気遣った分、気遣われたいんだなぁと気づけた。なんてめんどくさいやつなんだ!笑
気遣われないと「観てもらえてない→無関心→雑」と連想ゲームが起きやすく、相手との関係性が深まるほどそうなんだな。「丁寧に接する=気遣う」とすると、まだまだ愛されたい欲があるんだなぁ…!

5月13日。
今年に入ってから。自分の性質を知りつつ、「自分の生き方」がある程度見えた感じもありつつ。個人としてどう生きるかと、集団の中でどう生きるかの間で悩み始めた気がする。周りとの向き合い方、関わり方、すり合わせ方、受け入れ方。社会性…!誰かと生きていく上で、自分はどう在りたいんだろう。

6月11日。
体調を崩して寝込んでて。苦痛で感じる暇のなかった寂しさが、回復に向かうにつれてじわじわと入り込むようでまた苦しい。寂しさは一人で抱え込んで慣れてしまう方が良いのかもしれない。誰かに頼って「辛い」と伝えても、またやってくる。根本からどうにかしないと。孤独と向き合わないといけない。

6月12日。
頼っていいと思える人を、相手の気持ちを勝手に思い込んで「減らしてる」気がする。人に対してとても敏感になってる。距離を縮めると怖いし、遠くなると寂しい。期待をして勝手に裏切られてのサイクルがまたやってきた。捻れてる…独りになりたいのかなりたくないのか。ここに何かある。

6月28日。
心がめちゃくちゃ調子良いときでも、ちゃんと身体の疲れを自覚できるようになって成長を感じている…すごい…!イケイケなときはごまかしがちだったけど、兆候を見逃さなくなった。背中が張ってたり、腕にわずかだけど力入らなかったり。ゆっくり休もう。

7月4日。
「身体が疲れていて休みたいのに働く」と心と身体がズレていく気がする。休みたいときに休めない。そのズレを日常的に受け入れていくと慣れてしまって、心と身体が別々に、つながりにくくなる気がする。自覚していると体調に合わせたペース配分がしやすく、一体感を取り戻しやすい気がする。

8月12日。
ふと、ここ2ヶ月悩んでないことに気づいた。その場その場で解決はしつつも、悩める種をスルーしてる気がする。向き合う時間がとれない。自分の性質的に細かなことを悩み抜くのが一番成長につながると信じてるので、もっと悩んでいたい。

9月23日。
ふと「頑張っていない自分」を誰か認めてくれるのか気になった。何もしていないそのままの自分。今まで仕事も趣味も演劇も「頑張っててすごい」「若いのに偉い」と言われようと思ってやってきた訳じゃないけど、無意識にそれを求めていたと思う。自分の承認欲求を自覚した。コンプレックスと向き合う。
やっと「承認欲求」という言葉に実感をもてた! 他所で聞くそれは色々とうごめく激しいイメージを持っていたし、自分が他者に「頑張り」を求めたときは激しかった。
でも今は、不思議と落ち着いている紫色。自分で自分を誇るだけ、頑張らなくても良いんだ。ほんと良くやってるなぁ。

10月30日。
数日前から睡眠薬にお世話になっていて、前々から興味のあった「(セルフ)ケア」を色んな角度からきちんと学ぶ必要がでてきた…!何もない休みを長い間作ってこなかったので、休養日を自分のためにどう過ごせば良いか忘れかけていた…今日は目一杯、自分に栄養をあげてあげよう。休んでおくれ。

自分の企画も趣味で始めていたのに、仕事のようなタスク感、当たり前のようなマンネリ感を帯びていたかも…!どんなに小さくても喜びをとり溢さず、より大きなワクワクにつなげていきたい。今年はやってみての気づきがたくさんある、チャレンジングな良い年だ…!

「キリエのうた」今日観れて本当に良かった。生きる希望を持てた。「どうして自分は表現を続けるのか」に立ち返られた。キリエは歌い続けてた。「演劇しかないから」とはまだ言えないけど、今日死んだら、ものすごく後悔があると思った。圧し殺してきた言葉がたくさん身体に眠ってる。生きる。


11月12日。
2週間睡眠薬を飲んだ。心身がまるで違う。8時間の深い眠りはエネルギーが自然とわいてくる。そこから「自分のため」に色んなケアができる。4時間しか寝れてないときは頭に無数の言葉が浮かんだけど、今はいない。心に大河ができたようで、穏やかさを手に入れつつある。今日も自分のためにお皿を洗う。


2024年


4月2日。
久々に自分のことを考えている。向き合い受け入れ愛せているとしても、自分も変化する。「ちゃんと見れていなかったね、ごめんね」という気持ち。大切だけど、むなしい気づきをメモした。今年中に「自分」をテーマにした一人芝居をしたい。俳優として、舞台上で自分自身を赤裸々に語ることをしたい。

5月16日。
不調で落ち切ったとき、自分自身を叩きたくなったり、物のように雑に扱う傾向があるなぁと気づいた。心と身体の分離。ネガティブなとき、不調の自分を受け入れられず叩く。でも捉え方を変えて、「叩く」行為は心と身体をくっつけたいのかもと思えば。底に足がついてしまえば、あとは浮上するだけ。

5月23日。
身の回りにどれだけたくさん人がいても、理解して心を許す人がいても、結局孤独。一人になって考えたいけど、一人になりたくない。無言でそばにいてほしいのかもしれない。自分に生きてる価値を見いだせなくなった。どうして生きてるんだろう。向き合い、受け入れ、支えることができない。「愛」は余裕のない人には無力だ。

5月24日。
「愛」は余裕のある人たちが通じあえるもの。余裕がなければ通じない。無力。蓋をされているところに注いでも無駄。自分の生きる意味だと思っている「人を受け入れ、向き合い、支える=愛する」ことができないとき、無力で不安になる。相手から頼られず、蓋を開けてもらえないと、何もできない自分が無価値に感じていやになる。余裕がないとき、「こんなに自分は愛してるのに」と怒る傲慢で身勝手な自分が顔を出す。

自分はやっと、自分も誰かも愛することができることになったのがとても嬉しく感じてて。個人的に、「向き合って受け入れて支えること」を「愛すること」の定義にしたの。俺はそれが人としても俳優としても生きる意味だと思って生きるようになったのね。でも、余裕がなくて心を閉ざしている人にたいしては、愛せている感触がないと思った。反応が返ってこないから、本当に支えられているかどうかがわからない。愛することの定義が揺らいでるから悩んでる。今まで信じてきた「生きてる意味」が通用しないときがある。向き合って受け入れるときに信頼関係を築いてきたとして、相手が辛いときに頼ってくれないのが、俺としてはとても辛い。相手が抱えてるものをどうにか和らげたくて、俺が「頼ってね」「何でも聞くからね」と言っても、「ありがとう」からは先に行かない。抱えているものを話してはくれない。あおいが言ってくれたみたいなことでいうと、たぶん相手には「何もしないで距離を置く」のが最善だけど。俺の方の人生の軸をもう一度固める必要があるということ。

人生を手放すことができたら。より良く「生きたい」と思ってしまうから、生きにくくなるとつらくなる。「明日死んでも良い」と思いながら生きることができれば。すべてを手放し、流れに身を任せる。後悔しないように生きていたけど、後悔を背負う覚悟。自分の人生を背負うのにも疲れたなら、他人の人生はなおさら無理だ。「すべてを抱えて生きること」は「大切なものを抱える」のではないのかもしれない。

向き合い受け入れ支えることは、背負いすぎなのかもしれない。

自分の軸である「愛する」が通用しなくなったと感じた今、「死」と向き合う時期だと、虎に翼を観て。自分や他人の人生を勝手に背負い込みすぎてたのかも。より良く「生きたい」と願うと、できないときに辛い。「明日死んでも良い」と開き直り、人生を手放して見える世界があると仮の答えを出す。

肩の荷が下がり力まず、視界が開けるようだった。大切なものはすべて抱えていたかったけど、そばに置くのが良い。「隠居」がしたいと前から思っていたけど、「余生を送る」が今のところしっくり。「死」と向き合うことは「今生」「余生」をどう生きるか、どう死ぬかを考えることかも。本を読みたい。

5月25日。
「死にたい」と思って生きることにした。追い込まれている状態を受け入れてあげることは、「死にたい」という気持ちを受け入れてあげることだ。その気持ちを感じるなら、消したり隠したりしなくても良い。

6月6日。
今やるべきことは周囲を気にせず閉じこもり、周りに目も暮れず、淡々と手を動かすこと。周囲や誰かに心を開きっぱなしにすることは疲れる。敵はいない。自分を信じる。

6月13日。
「自分で次に何をするか決めて行動する」ことが、自己を回復させる。どんな小さなことでも良い。朝起きて水を飲む、ダルいから二度寝するとかでも充分良い。周囲のことに動かされ続けると、自分を優先できなくなる。選ぶ、決める権利を他人に譲らない。

6月21日。
目の前のたった一人を幸せにするためだけに培う精神

6月25日。
自分がどんな風に「演劇」と生きたいか。今までを経てやっと、夢と現実を結べるようになりました。自分の性質や社会のなかでの立ち位置を含む「アイデンティティ」も掴みつつある。この二つがあと少しでつながる。たった一人を幸せにするために学び、距離感に繊細になり、行動するのを死ぬまで。

6月27日。
僕の生きる意味は、僕自身が感じていなくても良いと思えた。周りの人が感じてくれれば。人を当たり前に愛して、幸せになってくれることが一番幸せ。献身の姿勢で支えようとして、自身をおろそかにして倒れがちな、過去の傷によって「自分を大切にできない自分」を大切に愛する。傷を愛せるか。

6月30日。
ここ最近、改めて自分の根底には嫉妬心と復讐心があると思う。普段は息を潜めて急に溢れ出す自分の攻撃性をまだ、受け入れ愛することはできない。人と関係を深めていくうち、その攻撃性を晒す瞬間が来てしまう。どうしようもなく冷たい想いを信頼する人にぶつけることを繰り返すんだろうな。弱いな。どす黒く冷たい心は、自分を機械のように合理的かつ排他的に行動させて閉じ籠り、柔らかい部分を他人から守ったりもする。でも吐き出せないとき、それは自分を切り刻むため誰かに頼るしかなくなり、その人を傷つけることになる。傷なんてない方が良い。ナイフを手放せない。

7月3日。
昨日、ひとつ「死にたさ」から解放された。自分の「愛する=向き合い、受け入れ、支える」ことはシンプルに「そばにいる」だと思えた。他者が支えを必要としなくても、関係なくそばにいることはできる。入り口であり、根本でもあるなぁと仮の答え。ここからより「死」と向き合う。

7月16日。
思考の海に潜って、ギリギリのところで助けを借りて海の元栓を抜く。息は止まるし手足は痺れる。水は溜まってまた海になる。この生き方は正直つらい。生きるために死にに行くようなもの。それなのに何度も潜ったり傷ついたりするのは、不安定な人生を進むと決めたからだったと思い出した。俳優として。

8月21日。
自分の愛着障害不安型によって周りの大切な人たちに感じてしまう「見捨てられ不安」は、自分をより敏感にさせ、色んな感情を渦巻かせる。一人になるのが怖い分、大切な人たちを傷つける。これを「脆弱性」として渦巻いているものが出てしまうのが俳優なら、たくさんの大切な人を傷つけるんだろうな。本を読んで実感をもちつつ理解できて良かった。心を閉じて生きてきた時期を経て、耐えきれず人に気持ちを伝えられるようになって、依存先を増やし人に寄りかかって生きると決めて2年。認めてくれた人たちのおかげで安定し始めたように思えた。でも改めて、好転してるのかが分からない。どうしたいか。込み上げた感情を抱えてみる。今一度心を閉じて簡単に周りを頼らず、嫌だなと感じながら睨みつけてみる。嫌なことから逃げない。マインドフルネス。濁流みたい…。Xにぽつぽつと吐き出せて良かった。嫌な気持ちに慣れること。ちょっとずつ落ち着いてきた。睨みつけるのが効果的。これからも試す。

8月22日。
7月からざっと「愛着」について学びました。自分の愛着スタイル(不安型)に見合った、"向き合い受け入れ支える"人の愛し方を培ったけど、"ほどよさ"が必要みたい。アイデンティティと絡み合う問題を克服するのは不安だけど、辛さを抱えた自分は、そろそろ幸せになっても良いんじゃないかと思えた。

8月26日。
自分のことをHSP気質と愛着を軸に学んでいて。「適応」という言葉がキーワードなのかもと思えた。気質の芽は多くの人が持っていて、環境によって発芽するような。芽は環境に適応しようとする。今は自立する安定した花になろうと、根をのばす時期なんだろうな。愛の水を注いでくれる人たちはいるから。愛着障害を「克服する」とは、もしかしたら根っこを抜いて、別の環境に植えなおしてあげることなのかもとイメージしました。

9月14日。
大切な人たちを愛するために相手へ言葉を尽くすことができるなら、自分へ言葉を尽くすことは愛することだと思えた。だから自分には悩んだ度に、その思考や感情を言葉にしてまとめてきたんだなぁ。メモを見返したら、自分の言葉も愛おしく思えてくるようでした。尽くしててえらい。

9月16日。
目の前の幸せに気づくには心の余裕が必要で、余裕をつくるには回復することが必要で。心にぽっかり穴が空いて、回復困難なときは目の前に幸せがあると「思い込む」ことで、前に進めるのかもしれない。余裕があるときは自分を愛せるのに、ないときは愛せない。心の状態次第で、いつも捉え方は変わる。頼りたいときに頼れなかったとき、結局は全部自分でやるしかないんだな。つらいよな。

9月24日。
目の前のことに精根を詰めすぎて余裕をなくしたとき、やっと、やっと自分で自分を「労いたい」と思えるようになった。お気に入りの曲を聞いて散歩に出ることに、意義を感じた。支えている実感がある。えらい。

11月5日。
色々溜まって心身がむしゃくしゃしている。安心して気を許せる人にすべて吐き出したい。でもそういう人に限って都合はつかず、孤独に感じる。無理をいって迷惑をかけたくもない。こういう、身体を痛めつけたい衝動を抱えるのは心がゆっくり動かなくなるのでしたくない。自分の「死にたさ」の再確認。

11月9日。
「忙しい」は「人に寄り添う時間がつくれない言い訳」になれない。たとえほんとに忙しくても、その合間をぬってほんとにやらなければいけないことは、やってしまえる。苦しいと伝えた上で、「忙しい」と優先順位を下げられたら、ただ相手を想って黙るしかない。ジャストタイミングの救いはない。自戒。

11月10日。
孤独を感じるといつも妄想することがある。自分が死んだとき、それに真っ先に気づくのは大切な人たちや家族や、友達や知り合いではなく、腐臭を気味悪がった見ず知らずの隣人。画が浮かんで声が聞こえるくらいには鮮明に妄想する。その後、誰かとの温かい時間を思い出して静かに泣く。死にゆく。

12月24日。
僕の心には人からつけられた切り傷もあるし、無意識にやられたすり傷も、自分でつけた打撲痕もある。かさぶたもあるし、癒えてないものもある。共感されないところもたくさんある孤独感から、満足いくまで自分を言葉で責め立てるし物理的に殴って凌ぐ夜もある。それなのに傷がたくさんついた自分をまるごと受け入れられる人は自分しかいないことが寂しい。信頼する人に連絡しても、かえって傷つけてしまうのが本当に嫌い。一回海で溺れて破滅願望を満たしたい。







メモ

「自由になりたい!!」

【自分と相手(社会)との距離感】
何でも受け入れて、相手にのってしまう性質の正体はなんなのか。
嫌なことが嫌といえない?
物、気持ちの消費と一緒。
相手に自分を明け渡せる範疇がある。
どこまでなら相手にあわせられるか、これより先は明け渡さないというバランス。バランスを破って、自分をないがしろにして他人を気遣うことは、自分を感情のないロボットだと思うことと一緒。ロボットのような中学の頃の自分を思い出す。
「ないがしろにされる!」と感じることで働く「防衛本能」がある。「キレる」わけではない。
向こう側から真っ直ぐ歩いてくる人の傘を避けるように傾けたら脇の壁にぶつかる人生。
思い込みが激しい。


【ロボットは独り】
昔、自分で自分のことを「いないもの」として扱っていた気がする。息を潜めて影のように生活していた。特にいじめを受けていた頃。そうやってダメージを回避していた。
自分を実験台、機械のように思うのもその一種で「心がない」と思い込むことで、回避していた。閉じこもることで防御していた。見つけてもらえると嬉しいが、何もないとさみしい。
「居場所がない」「価値がない」。


【独りと愛】
どうして人と向き合うのか。
「居場所がほしい」「価値がほしい」「受け入れてほしい」「寂しいから、誰かに自分をみていてほしい。認めてほしい」。
社会から見ると、これは「わがまま」に入る。


【自立】
「わがまま」を言わないで、一人で生きようとする。
お金、精神の心配をかけない。自分で自己完結させる。
「疲れた」と人に言わない、甘えない。
悩みがあるサインをないものにする。


【自立しすぎない社会】
誰もが理想的に、リラックスして生きられる社会とは?
「わがまま」を言える。
一人で生きようとしすぎなくて良い。
お金や精神の心配をかけても良い。
甘えても良い。
誰かに頼って良い。
でも自分の性質を理解して、上手く扱えるようになることが必要。自分と相手(社会)との境界を知ること。
自分と他人の違いについて知り、受け入れること。
自分を乗り換えるという発想。1号→2号へ。
※自分の場合
HSPの性質、射手座の性質、身体の性質、心の性質、数秘LP33


【自分や相手を受け入れるために必要なこと】
信じてるから、と言われるのが一番嬉しい気がする。
自分の性質について言及されると嬉しい。
向き合うこと、認めることが自分なりの愛し方。
人へ丁寧さ、誠実さ、礼儀を尽くすこと。
「愛する」と「可愛がる」は似てるけど違う。
どちらかというと「愛でる」が愛の行動。
向き合うことは愛すること。
傾聴することは愛すること。
◎受け入れることは愛すること。
手に入れたいということは恋するということ。


【恋愛とは】
手に入れられないけど、それでも追い求めるもの。
距離感がすぐに縮まる感覚、ドキドキする。
好きが分からなくなる。
人として好き、異性として好き。
恋と愛。
愛するには覚悟がいる。


【愛することの方向性】
自分が向き合い、受け入れていたとしても、相手が受け入れてくれなければ、それはただツラいだけ。
受け入れることが愛ならば、それは具体的な外向きの行動ではなく内向き。向き合うことも内向き。相手に向き合ってもらえるか、受け入れてもらえるかどうかの不安がある。


【大切さのジレンマ】
個人的に、人に大切さの優先順位はつけたくない。「この人なら雑にしても良い」みたいな感情を根底に持ちたくない。みんな同じくらい大切で同じだけ向き合いたいの価値観。

「だから僕を雑に扱わないで」と他人に求めると、違う価値観の人を排除して、大切さの優先順位がつくジレンマ。破綻してる。


【強烈な孤独】
病気をしているときは余裕がないので感じない。余裕が生まれると入り込んでくる、もしくは浮き出てくる。
孤独と向き合うには、味わい尽くすしかない?
誰かに甘えて構ってもらうだけではだめみたい。
自立しなくてもよい?
自立しなきゃ、愛さなきゃがある。
一人で生きようとし過ぎていた。
とにかく前に進んで動かす。膠着状態は良くない。循環してしまう。
やりたいことは、結果やれなくても良い。


【気を遣う】
精神年齢が低い≠子どもの感性がある。
ステータスを低くする≠自虐する、謙遜する。
心の底では気を遣ってほしいのかもしれない。気を遣わなくて良い関係性が良いと思うのに…。矛盾した気持ちがあることを知ってほしい! こういう人もいて、無視しないでくれたら嬉しい。


【責め立てない思考パターン】
何かを深く考えて反芻したいときは、事柄ベースで考える。
出来事の再現(どんなシーンがあったか)や、
出来事の想像(どんなシーンがありそうか)を、
解像度高くしてしまう(声色を聞く、身体イメージをする)と、感情に引っ張られてダメージを追いやすい。
出来事と事象。
一度想像の世界に入ると戻ることが難しくなる。
誰かの手を借りるか、自分で這い上がるしかない。
迷惑をかけること。かけあうこと。


【相手にたいして】
押す、押し返す=反発、傷つける?
押される、押さない、押し返さない=我慢、傷つけない?
個としてどう生きるかと、集団の中でどう生きるかの間で悩む。
(ありのままの君でいい、が「生存」。ありのままの君でいいわけないだろ(byマキタスポーツ)、が「実存」。)


【愛着障害】
触れたい、触れられたい。
愛着障害不安型、回避型。
承認のコンプレックス。
自分のケアをする。
自分がいないような感覚?
開いていると周りとの境界が薄れる?
居場所をつくる。精神世界に閉じ籠るか、周りに居場所をつくるか。
自分の実家は居場所か?
自分が一番居場所を求めているのかもしれない。
家族と向き合う必要がある。
信頼関係、どのくらい信頼されているか、愛されているかが分からない。
仲良くなりたいとき、距離感がバグる。境界線を越えてしまう。
認められたい、触れられたい。


【マイノリティ】
自分がひっそりと死んだら、誰が気づいてくれるだろうか。
結局、見ず知らずの他人の隣人が腐った匂いで気づくのだろうかな。
誰かの人生にいさせてもらうこと。
居場所。命綱。
色々なことを抱えているという実感がわいた。
マイノリティな気質、日頃の問題を口にせず、共有しないこと。
誰かに伝えることが、ひとまず認めること、手放すことにつながる。
言葉にして形にしてしまうと、楽になる。
手放す=向き合わないわけではない。
手放す=諦める(自分一人で考えるのを諦めて、認める)
自分は誰かの一番になれないし、一番を選べない。
すべてはタイミング。悔しいけどタイミング。


【新しい環境でのこと】
「慣れるから大丈夫」では現状の問題は何一つ解決しない。何にてこずっているのかを詳しく聞き出すことが解決への糸口であり、一緒に考え、スモールステップに区切ったり、慣れるための時間(新しい課題を与えず、復習する時間)を設けるべき。

答えを雑にまとめること=答えを諦めている=相手に対して何も手伝わない=「自分でやりなさい」。
できたことに対して評価をしない=その人目線の基準になっている。

とある環境や場に新しく入って、構造や人間関係に問題があると感じたとき、どうして新参の方が健全さを求めて、自分や場のために行動する必要があるんだろう?

「そういう人・場だから」の"諦め"で社会が成り立ってるなら、僕はまだ嫌なものを受け入れる器量はなく、距離を取る賢さもないな…!

色んな文脈はあれど「やればいいんでしょやれば」みたいないわゆる逆ギレと呼ばれてしまうものは、その人の中で何かが溜まって、抑え込んでなければそもそも出てこない。

間違いを認めない大人について。間違いを認めた上で変わらない大人とはそりが合わないので距離を取るべき。

できたことに対して喜びをしっかり感じさせる。
次へのモチベーションになる。


【一言】
がんばると承認欲求が生まれる。がんばらないためには、淡々と、ノルマをこなす。

強くなりたいのか、強くありたいのか。「強くなれ」という言葉の特権性。弱さについて。

怒りや悲しみに暮れさせろ。

悲劇のヒーロー、ヒロインぶっているという言葉はひどい。
お前に何が分かる。

愛してる、好きだと心から言ってもらえた覚えがない。
もしくは記憶から消している。


【感情のコントロール】
予期しない刺激によって限界値を迎え、いずれ癇癪で発散しなければいけなくなる。癇癪で発散したところを、原因を聞かれずに怒鳴られると自分が否定された気がする。子どもの頃はこれが多かった。刺激のコントロールの方法を学ぶこと。自分が不安定になることを予期していれば、安定する。


【共感について】
相手が感じていることを、できる限り同じように体験しようとする、共に感じることが大切。
「エンパシー」は相手の立場になるべくなろうとして、相手との距離をなくそうとする。
「シンパシー」は相手がいうことに同意する。思いやりを持ったりする。シンパシーはエンパシーとことなり、相手といくぶんか距離をとっている。


【ナイチンゲール】
ケアとは科学であり、アートである。
解剖生理学的に、全ての人間の共通点にしたがって実践する意味では科学的。
ケアが必要な人の個別性を読み取って、それぞれの人にとっての最善を創意工夫して実践していく過程はアート的。

ラディカルオネスティ(徹底した正直さ)
ストラテジックオネスティ(戦略的な誠実さ)
戦略的な無関心
自認/願望/経験


【森田正馬】
症状を治そうとしてはいけない。
症状のことはかまわず、放置するように。
あるがままにの森田療法






あとがき

ここまで読んでくださりありがとうございました。
僕は「親友」を増やしていきたいと考えています。そうなるまでには時間がかかりますが、「この人なら大丈夫」と感じる人に自分の暗い部分を直接開示しています。

きっとここで悩んでいることは複雑なことではあるものの、
誰でも一度は考えたことがあるシンプルな悩みごとだとも思います。
「愛」について悩むのは「恋愛下手」だから、
「鬱」について悩むのは「働きすぎ」「考えすぎ」だから、
もっと気楽に、気軽に生きていこうよ~と短い言葉で突きつけてしまえるくらいシンプルな悩み。

この二つについて考えることをやめられるのは、いつになるのか分かりません。自分のことを心の底から愛して大切にできたとき、かもしれません。
ただ僕の文脈でいくと、僕の根柢にあるのは「寂しさ」「孤独感」であり、ありのままの僕がそれらを温かく受け入れたら、僕の人生は寂しさと孤独が根底に来てしまいます。人と人は完全には寄り添えず、理解しあえない。

大人たちはみんな自分の孤独を受け入れているのでしょうか…。

人と人とのバウンダリー(境界線)をしくことによって、自分や他者を守り固執しないことはとても大切なことだと感じています。社会はどこまでいっても一人ひとりの集合体。「自分は一人である」ことは僕も理解しているし、腑に落ちています。でも「自分は独りである」ことは耐えられない…。

このnoteを見せていけたら、何かがきっと変わるのかもしれないですね。

「愛」と「鬱」について悩んでいくうえで、
また時期が来たときに作品にして投稿できたらと思っています。
俳優として自分のことを題材にした一人芝居をすることは、
とてもとても大きな一歩を踏み出せる気がしています。

改めて、いつも支えてくれている大切な人たちに感謝を込めて。






ここからは日記よりも過去に書き留めた言葉や作品になります。
ご興味がありましたら、覗いてみてくださいね。



2021年、他







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オガワジョージ
いただいたものはすべて創作活動にあて、全国各地を回って作品をつくったり、地域に向けた演劇活動の資金にします。「たった一人でもいいから、人生を動かす」活動をより大きく、豊かに頑張ります。恩返しはいつになるか分かりませんが、必ず、させてください。よろしくお願いします。