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仕事以外の居場所を持つべき理由

よく言われることだけど「仕事以外の人間関係も豊かにした方が良い」「仕事だけではなく趣味も充実させた方が良い」と、思う。子どもで言えば「教室以外の人間関係も豊かにした方が良い」し「受験や成績のための勉強だけでなく他の活動も充実させた方が良い」と、思う。

そう思う背景には「資本主義社会は付加価値向上を目指すことが究極の目的であること」と「人間は付加価値労働生産性向上だけではなく、倫理的行動・人間関係・創造活動など、必ずしも生産性の高くない(むしろ非生産的な)行為に歓び(豊かさ)を感じる生き物であること」があります。

資本主義社会は常に付加価値増加を目指します。国家単位では、GDPを向上させ経済力を他国よりも相対的に高めることは、国を守る上でも国民を物質的に豊かにする上でも重要になります。株式会社は、それぞれパーパスはあれど、企業存続の上で株主利益最大化は不可欠です。その資本主義の上で成り立つ株式会社以外の存在も、建前上はそうでなくても、投資対効果を求められることがほとんど、とNPOで寄付を集める仕事をしていたときに実感しました。お金を集める際には多くの場合、その成果が求められます。多くの場合、「効率性」を評価すべく、定量的成果が求められます。もちろん、求めない人も一定いますが割合は非常に少ない。また、求めないと言っている人たちにも、無意識に効率性で評価していることが少なくありません。

したがって、資本主義社会の構造の中に埋め込まれた仕事の「ほとんど」は「効率よく稼ぐ(定量成果を出す)こと」が求められます。
そして、その構造の中で生きる個人の「ほとんど」は、当然「効率よく成果を出すこと」を意図して仕事に励みます。「どんな優先順位で取り組めば効率よく成果につながるか」「だれと繋がっていれば効率的に仕事が進むか」、付加価値労働生産性向上のための議論が繰り広げられるのです。(多くの)仕事上のコミュニケーションにどこか安らぎを感じにくいのは、その関わりの前提に、付加価値労働生産性の向上、すなわちコスパを求めていること(あるいは先方もコスパを求めているだろうという意識があること)があるからではないかと思います。また、付加価値労働生産性によって自分が評価されているという潜在的な意識もありそうです。

この構造の中では、「付加価値労働生産性の高さ」=「自分の市場価値」とされ、「自分の市場価値」≒「自分の価値」と思い込んでしまう人が多いように思います。しかし、人が生きる意味や本来的な自分の価値は、付加価値労働生産性で測れるものではないはずです。本当に大切な人を思い浮かべればその実感が湧くと思いますが、むしろ、生きていることに価値があり、存在そのものに価値があるはずです。
この付加価値労働生産性に紐づいた「コミュニケーション」と「価値づけ」に、働くことが生み出す心的な疲弊があるように思います。

これは大人だけではありません。学校教員を勤め、塾を経営してわかったことは、子どもを取り巻く環境もまったく同じ構造であるということ。学校は社会の縮図と言いますが、本当にその通りだと感じます。
社会の側が「効率よく付加価値を高める」ために「効率よく人を選ぶ」ため、単純化した尺度として子どもの世界に降りてきたのが偏差値や学歴。そして、保護者や子どもたちは「テストの点数」や「学歴」を求め、「効率よく偏差値を上げること」「効率よく合格すること」を追い求めて塾に来きます。

私たちが運営する学習塾の理念は効率的な学力向上にあらずですが、それが顧客のニーズなため、そのニーズに応えていかないと持続可能になりません。効率よく効用を得たい顧客と効率よく資本拡大を目指す会社のマッチングが前提である資本主義の上で事業を継続させるためには当然のことであるといまは思いますが、定量的に成果のわかりにくい活動はビジネスとの親和性が低い。(レストランやアートさえも、口コミ評価や値付けで定量化される。)

そんな構造の中で生きる子どもたちは「これやる必要ありますか?」「効率よく勉強する方法を教えてください」と、効率性を強く求めるようになります。大人の世界の指標が「付加価値」だったものが子どもの世界では「テストの点数(や偏差値)」に置き換わっただけで、同じ構造が存在するのです。特に、学校教員時代にもそのような発想でのコミュニケーションが少なくないことに違和感を感じずにはいられませんでした。子どもたちの多くが「自分の頭で考えること」が非効率的に感じてしまい、だれかが答えを持っている前提で「自分の頭で考えること」を大なり小なりやめてしまっているように映ったからです。さらに、本来的には学問の追究を目的とする大学においても「効率よく良い成績を取ること」や「効率よく就職偏差値の高い企業に就職すること」を目的としている学生も少なくないように思います。

子どもも学生も「付加価値労働生産性の高さ」=「自分の市場価値」の構造に取り込まれ、「効率性と成績の良さ(学歴の高さ)」=「自分の市場価値」≒「自分の価値」と捉えてしまう。だから、「学歴」「就職先」と自分の価値を同一化し、他者との比較の中で苦しんでしまう。

しかし、人間は市場価値を高めることだけに歓びを感じる生き物ではありません。アダムスミスの道徳感情論では、人は功利的判断のみならず、さまざまな状況下で感情が生まれ他者に対する共感を持ち、道徳的な判断をすると言います。前田英樹の倫理という力では、人のためになること自体に人は歓びを感じる、と言う。アドラー心理学では、評価によらない自己受容・他者信頼・他者貢献が幸福を作るといいます。また、年収よりも自己決定が幸福度を上げるという研究もあります。
私の中でのキーワードは、道徳・倫理・愛、真善美。そして、”市場価値”に依存しない自己受容・他者受容・他者貢献の感覚を持つことが幸福感を生むという感覚を実感しています。

このような感覚は本来的に人間に備えられているもので、資本主義社会は人工物だと思います。だから、付加価値労働生産性向上「だけ」にとらわれたとき、人間にとって本来的に重要な部分を置き去りにしてしまうことがあるように思います。

じゃあ、どうすれば良いのか?

個人的には、社会構造自体、その構造を作っている人間を突然大きく変えるのは難しい。社会主義的ユートピアは歴史が示す通り崩壊し、資本主義自体はアップデートする必要性はあれど、その存在意義として、だれかの書籍に(どうしても思い出せない…)「人間のネガティブな側面の欲望による暴走(支配欲による独裁など)を資本で押さえつける役割がある」的なことが書いてあって、なるほど、と思いました。「もちろん、資本主義は最悪の経済システムである。 ただし、これまで存在したすべての経済システムを除けば。」という有名なチャーチルの言葉も示唆に富みます。また、個人の生活に戻ったときに、安直に資本主義から目を背けることは、ただの現実逃避になりかねません。なぜなら私たちは資本主義の恩恵を受けて日々を過ごしているからです。社会インフラから始まり、スーパーで何かを簡単に手に入れられるのも、資本主義の成果の賜物です。資本主義に抗うこともできるのかもしれないけれど、どうしても現実的に思えない。

だから、明快な答えではないけれど、「バランスを取る」がいまの私の答えです。最近では、ウェルビーングを重視した経営や人的資本経営などが取り上げられ、また資本主義のアップデートも語られるようになってきました。資本主義、すなわち、付加価値向上が前提にある社会の中では、根本的には付加価値向上が人にかける負荷は0にならないと思いますが、大きな流れの中で人間にとって程よい調和が取れる状態が見つかれば良いなと思います。

特に、私は「ワークライフバランス」が取れる社会に期待しています。「付加価値労働生産性向上」を求める時間と「非生産的で良い」(むしろ求める)時間の両方を、自分の人生の中にバランスよく持つこと。そして、個人が意識的に「付加価値労働生産性」に捉われない余白を自分の人生の中に作ることが重要だと思います。「付加価値労働生産性」という「市場価値」以外のもので自分に価値を感じられる場所、「付加価値労働生産性向上のための会話」すなわち「仕事で成果を出すための会話」や「受験で合格するための会話」から離れられる場所を作り、非生産的で良い会話ができる人間関係を持つこと。

具体的には、職場(教室)以外の場所に友達を持つこと、家族・パートナーとの時間を多く持つこと、趣味を持つことなどです。何のためになっているのかわからないけど、「あー楽しかった」「豊かな時間だった」と思える時間を自分の人生の中に増やすこと。経済的に、キャリア的に、世間的に、評価されなくても、自分の人生にとっての価値を感じられる場所や人間関係を持つこと。一切のコスパも他者からの評価も求めない場所、生産的な行動や言動が求められず「ただいるだけで良い」人間関係です。

資本主義社会の上に成り立つ仕事の場では「付加価値労働生産性」を追い求めて戦う一方で、人はそれだけを追い求める存在ではないことを自覚し、「付加価値労働生産性」を追い求めなくて良い居場所を作ること。

ちなみに私は、「付加価値労働生産性」を追い求める場にも充実感や人間的成長から得られる豊かさが存在するので、一定割合の時間を使って向き合う価値があると思っています。いづれにしても避けることはできないのだから、疲弊しすぎない程度に全力で成果を求めて味わった方が豊かである、と私は思います。生産性と非生産性の両方の豊かさを求める自分が内在していることを認識することが大事で、いまはそのバランスをきちんと取ることこそが、人生を豊かにしてくれる気がしています。

これが私が考える「仕事以外の場所に居場所を持つべき理由」です。というわけで、このような付加価値のまったくない思索も楽しんでいこうと思っています。

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