得る自信と得るもどかしさ。
僕はアパ技になった2年生のとき、どこかしこから湧いてくるパターンへの自信に満ちていました。
どのくらいの自信だったのかを臆せず正直に言うと、他の人たちは眼中にないくらいでした。
正直、今思うとヤバイですね(笑)
お察しのとおりたかだか1年間学んだだけです。しかも、手縫いの技術のバリエーションを知ったり、ポケットなどの部分縫いを創ったり、服で云うとタイトスカートやブラウス、テーラードジャケットをそれぞれ1着づつ創ったくらいの内容だったと思います。
じゃぁ、何故そんな自信があったのか?
1年次の僕の周りには基礎がある程度(それ以上かもしれません)できる友人がチラホラいたんです。
その状況が僕にしてみたらやっぱり悔しかったんです。
だから負けず嫌いの感情がアクセル全開だったんだと思います。
前にも書きましたが、わからないことがあったらできる友人に教えてもらいながら、わからないことはひたすら勉強して、できる限り学校でも家でも人より手を動かすことを意識していました。だから、専門学校生活の華やかな世界、所謂学校終わりに誰かと遊びに行くなんてほとんどしませんでした。
僕のあっちこっちできない不器用な性格も災いしていたこともあると思いますが、創ること、創れることにただ一極集中だったのです。
………
でもその甲斐あってなんと、1年生が終わる頃には担任にもパターンの線がキレイ!と褒めてもらえたり、提出課題がスムーズに提出できるまでになって、モノをツクレルことがかなり進化したんです。
正直驚きました。
このことで自分の頑張りだったりそれまでしてきたことが間違いじゃなかったんだ、って肯定できた自分がいて、気持ちが 「スーッ」 と満たされたんです。
些細ではあるけれど、なにか指針になるきっかけが欲しかった僕にとっては水を得た魚で、このきっかけで得た『自信』はかなり意味のあるものだったんです。
これが冒頭の自信につながる訳です。
…………………
ただ、水を得た僕ですが、2年生のあるときに思うわけです。
学校の勉強っていうのは結局のところ教科書の中の世界だなぁ。と。
(もちろん教科書がなくては成立しないセカイで、至極当然あって当たり前、なくてはならないものです。)
だけどよく考えたら教科書の寸法やパターン、やり方は当然自分で突き詰めた結果でもなければ答えでもなくて、どんな理由であれ他人が導き出したもので。
ということは、それは他人の理解であって自分の理解じゃない。
今現在なんとなくつくれるようになってきていることは、一応経験はしてるけど、ただの知識でしかない。
それに、ある程度方程式みたいに数字を覚えちゃったら簡単で、誰でも一応はツクレル様になるんだな。
って。
せっかく得た自信だったのに、途中もどかしさも得たわけです。
「作る=クリエイト」はできても
「創る=クリエイト」は?!
………
とは言っても、なにもできなかった僕の中に『自信』持ち続られることができてよかったです。それが、もどかしさと共存していたとしてもです。
もしなかったら、とっくの昔に挫折して他の道に進んでいた可能性だってあったかもしれないので。。。
そんなもどかしさのなかの自信でも有る事難しだった訳です。
今日も素敵な日をお過ごし下さい。
タカハシ カズキ