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【中身のない独り言】合理的配慮が義務化すると聞いて障害当事者の私が思うこと。
※注意。
ダラダラ長くてキモい女さんの戯言+文章力ねえです。後言い訳↓
こちらのnoteは個人の考えに基づいたもので、思慮も断片的、個人の感想であるため必ずしも正しいものではないことをご理解ください、心体的に重く悲しい表現を用いるところがあります。心の中で思ったとしても言えない時があると思いますがその言っちゃいけないのを嗚咽を出しながら絞り出す掃き溜め場所ですので嫌だなと思ったらできるだけブラバするか見ないふりをお願いします。
本編
今回書こうと思った経緯について
長い言い訳をご覧いただき申し訳ない。まず最初に。私は精神障碍者で、現在自立訓練に通い社会復帰を目指しています。 訳:無職ニートです。
2年前に鬱病を発症し、高校中退、そして精神障がい者手帳を申請+手帳を取得してから数ヶ月が経ちました。そんなある日TikTokを見ているとTwitter(現X)にてこんなのがあったよーという感じで転載画像がありました。それについて、自分の考えを自分のために書こうと思った次第です。
その内容は、新聞の小さい切り抜きにあったらしく、「合理的配慮が義務化されるらしいけどこんな小さい切り抜きでなく大々的に報じたほうがいいんじゃないか」的なニュアンスで投稿されていたと思います。ふと障害当事者として出てしまった声は
「え、なにこれめんどくさくね。てかだるくね?んで確かにもっと大きい声で報道しなよ」です。
その「めんどくさいしだるくない?」の中には、
「いやいやいや…こちらとしては配慮していただいている側なんだから義務までしなくともいいのでは…?」や
「でも義務化しなれば配慮されない人もいる…?」とか
「配慮って親切心な訳で…義務化ってなに?」や「そもそも合理的配慮って当事者からしてもあんまわかってないんだけど当事者も他の障がい者にするやつ…?てかやっぱなにするの?」やら
「もし、嫌な思いしたとしても健常者の方だったり他の障がい者の方は我慢を配慮という形で強いられるということなのかなそれは嫌だな。」などなど思うことは多々ありました。
そもそも合理的配慮とはなんぞや
こうらしい
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懸念という仮定のハナシ
そして義務化に対し懸念点がいくつもあります。
配慮をして "いただく" "いただいている" という認識が根底にある程度あるのならば大丈夫かもですが、"配慮されるのは当たり前"になると遠慮がなくなって無理強いをし配慮することを押し付ける形になってしまわないかということ。
無いと思いたいけど、合理的配慮を利用した犯罪が起きてしまう可能性があること。そしてそれが障がい者だからという形で有耶無耶にされてしまうこと(叔父が障がい者で性被害に遭っても有耶無耶にされることはよくあったので自分の経験談でもあります。)
我慢を強いられた健常者の方、若しくは他の障がい者の方がストレスを抱え込んでしまうこと。
それらに対して声を上げづらくなるかもしれないこと。
お互いに(健常者の方と障がい者の方で)差別意識が生まれてしまうかもしれないこと。
また、具体例に上がっていたのですが障害の方がが入店されるとき対応ができそうにないと判断した場合拒否することが"今まではできた"(拒否理由などは理由は下に書きます)けど今後”義務化”されるとそれができなくなる。(差別行為に当たる…‥らしい?ここ曖昧です申し訳ありません)
【拒否理由について】
接客中、障がい者の方が転倒してしまう可能性がある場合。
バリアフリーに対応しておらず車椅子などのスペースを確保できないことがある。
お店の広さなどにより、障害者やお店側、他のお客様など圧迫する状況になりうる。そしてその状況は圧迫することによりストレスが掛かり、健常者、障がい者にとって精神的に不安になる可能性がある。
そうなると店側に責任が追求される可能性があるやもしれないため拒否せざるを得ないこと。
が拒否理由です。
んー、、、なんで義務化したんだろうね…そもそもそのツイートがなければ私自身知らなかったし。努力義務でよかったんじゃなかいかな…。
自分の場合は、障がい者の方も健常者の方も圧迫する状況になるのが嫌ですし、そもそも、どこまで頼っていいのか線引きが難しい問題もあり、配慮を押し付けてしまう可能性が怖いのと、仮に自分が気づかない間に押し付けてしまっていたら自己嫌悪に陥ると思う。(マニュアルとかあるのかな…)
なんでそんなに仮定するの?なにかあった?
※きっと心の中にしまっとくべきで言ってはいけないでしょうがここは自分の掃き溜め【定期】
なぜそんなことをぐちぐち考えるのかは自分が通っている自分が見聞きしたことや自立訓練や、日々過ごしている日常での一コマに引っかかる点があります。
自立訓練編
まず、自立訓練の職員の方は障がい当事者に対し合理的配慮という形でうまく、気にしすぎないように言葉のニュアンスを変えてしゃべってくれます。発達の人、精神の人それぞれ"特性が違います"と。
昔の健常者でクズな私はこう言うでしょう。
「いや欠点じゃん。なんだよ特性って。治そうとはしないの?受け入れるのもいいけど合わせる人のこと考えないとダメじゃん。」
……ごめんなさい。なんなら今でもたまに思います。
そのうち利用者の一言一言も気になっていくことになります。
自立訓練では当たり前の日常に少しでも慣れるため講座を受けます。その際、例題についてはある程度健常者寄りだった自分は素直に受け入れることができます(つもりですが)が、しかしその発達障がいの方はその例文の隅をつつこうとします。(まぁ職員の方はそのヒトにとっての課題だから気にしないほうが楽だよと言ってくださるのですが自身の"欠点"により気にしてしまいます。)
例えばこんな感じです。⇩
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さて、私個人の回答としましては以下の通りです。⇩
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回答は人それぞれあるかもしれませんがそれは一旦どこかに投げ飛ばしときましょう。(ほぼほぼ答えはありませんがだいたい「d」が一番最後になるかなぁと考えます。)
さて、どんなところに突っ込みどころがあるのかは問題文です。[イレギュラーな仮定をするように、こうじゃないかこうなってしまうのではないか。]という考えがあるようで、まぁその気持ちはわかります。しかし、その利用者さんは
「プロゲーマーかもしれないじゃないですか!?問題に配慮が足りないと思います!!」と仰っていました。その現場を見ている私はこれ対応しなければならない職員さん大変だわ…。とドン引きしてしてしまいましたね。
合理的配慮が義務化された今、これは例題なので深く考えなくともいいんですよ。とは簡単には言えないしどんな対応をするか職員の方によって違います。これめっちゃもやもやした!!でも言っていいのかわかんなくて勇気なくて黙ってた。
また、訓練所の雑談の中でも思ったことがあります。
職員の方と趣味や好きなものについてお話しさせていただいた時に急に話に割り込んできて
「そんなものより僕が好きなもののほうがおもしろいと思うのだけど。」とその利用者さんは仰られました。これは他者理解を深めずに趣味嗜好を否定し自分語りをする形だと個人的に考えています。その他にも
ゲームの話をする際私が「このステージのこれが個人的に難しかったんですよね。」という会話で「なぜそんな簡単なことができないのですか?私は簡単にできましたよ」という会話がありました。
これは私自身の持論になりますが私は人は仲良くしたいとするとき自分の弱さや苦手なものを見せ緊張を緩和するように動くのではないかと考えます。つまり、この発言などは普通の会話では起こるはずがない事象であるものだと私は思ってきました。
友だちと話していたこと
そして、友達の彼氏が
「俺、ADHDだからできないw」「俺うつ病だからできねえわw」を多用し友達の精神が壊れかけることがありました。
別の友達もやられていたと聞いて、なんならそういうのは良くないと咎めてたが直そうとしなかったと聞いてこいつマジでなんなん??ってなってました。
もし、その彼氏が自分であったならばできない自分はなるだけみせたくないしできないだけで終わらせて行動を制限するのは、申し訳ないので代替案を出しできる限り一緒にやろうとします。そのできないは家族にだけ少し発揮するくらいにするくらいに収めようとしますし頼りすぎてもいけないと思う。
けれど自分もたまに親に発動してしまうかもしれないので戒めとして、「○○だからw」で終わらせるな察してちゃんをやめようどうしてほしいか言わないとわかんねえ。自分でもわかんねえときはそのまんま言えるようになきゃなと私も痛感しました。
コミュニケーションは、会話を普遍的に受け取るか、直接的に受け取るかで別れると考えています。大袈裟に言うならばこの二つで二極化するのではないかと私は考えている。例えば、「〇〇で困っている」といった話が上がると普遍的に受け取る(大半)人は、共感や簡単な対処法を その場で調べたり、今までの自分自身の経験から話して終わります。ところが直接的に受け取る人はこの人はこれで困っているんだ!!と大げさにとらえてしまい一度話を持ち帰り”対応計画書”を表現することがあります(実際私がそうです)。また、直接的で受け取る人の別のパターンとして自分の軸のみで判断し最悪の場合、例:「そんなこともできないのか」や「自分であれば簡単に対処できた」など相手を批判しかせず否定を押し付けてしまう状況が起こってしまう。⚠普遍的か直接的か人柄によっても変化してしまうのがまた厄介なところではあるけれど前者か後者のタイプでは普遍的に受け取るほうが良い方向に進むのではないかと考える。なぜなら、少し前まで私自身も直接的に受け取り対応計画書を送るタイプだったからだ。そして、直接的に受け取る人の最悪なパターンで見えてきたのはこの人はこのまま育ち、言動も修正されることなく、されていたとしても意図が伝わらずに生きているのだと、”そういうヒト”に失礼な対応をされたときでも怒りの感情で見るのではなく可哀想な人であるという慈悲の目で見てしまう。もしかしたら指摘があるかもしれないので補足も含めるが、この「可哀想」には「自分でなくてよかった」という意味も含まれるのではないかと言う意見もあると思います。率直に言えばそのとおりです。自分でなくてよかったと思います。そう言うことを言わない人で、よくないと考えられる人間でよかったと思います。
なぜなら指摘・注意される環境があるのならば、そして人が自分から離れていくならばどこかのタイミングで自分の間違いに、いち早く気づくことができるからです。ところがその環境がなかった場合(あったとしても聞く耳を持たない、受け流してしまうなど)自分だけが正しいと思い自分から離れていく人のほうがおかしいと思う錯覚を起こしてしまいます。これは普通の人々が指摘するのを躊躇してしまうことも少なからず影響するでしょうが大抵の場合は半ば諦められ、その人から離れる、または受け流してもらっていると思ったほうが正しいのかもしれません。
思うこと。
いつかの日、友達がソウイウヒトに嫌な気持ちにされたとき、もしくは自分に被害が及んだとき何度だって思いました。これ…何も言わないことが、我慢が、配慮になるのかな。
小さいうちから何も言われず咎められずそのままのヒト。言われたとしても右から左へ受け流し何も変わっていないモンスターを早いうちから客観的にも比較的にも見ることが多く、その度に慣れてない方は怖がってしまうのに対し、私だけが「…あぁ、慣れてるので大丈夫です。」という言葉を発する。
これは何も言えなかった結果なのだろうか。気づかない間に配慮(我慢)をしていたのだろうか。そうしてぐちゃぐちゃが増え続ける。だって、今まで話したものは自分が見聞きし、経験してきたもので、これから私と同じ感覚を情景を見る方が増えるかもしれない。それは…嫌だな。正直いろいろと難しい問題だとは思う。でも、新聞のちっちゃい切り抜きなんかじゃなくてもっと大きく説明した方がいいと思う。ところで皆さんはなんでモンスターとかそういう人という言葉を使うのか、こんだけいろんなことを書いているなら筆者は相当できているんだろうな?そんな偉そうに言える人間なんか?と思う方がいらっしゃるかもしれません。実際のところ私は普通の人とそうでない人=ソウイウヒトと言う表現にしましょうか。その両方を併せ持っていると考えています。なぜなら幼少期の自分を思い返したときモンスター側だったと思うから。しかし母と祖母(個人的には祖母の影響が強かったと思う)のしっかりとしたお叱りとどうしてだめなのかを耳タコくらい聞かせていただいた結果少しずつ第三者目線で見るようになっています。
今も出てしまうとき(家族の前)もある”欠点”なのでなるだけ抑えて出さないようにしています。できてるかな…。
感想!!!目標,etc
加筆するところがきっとある。書きたいと思う日がくる。書きたくないだろう日もある。
【感想】合理的配慮って適材適所のところありすぎてめんどくさそうだなぁというのが率直な感想です…。
【目標】としては、なにをするにも難しいときは正直に伝えて、代替案を提案する。自分は人の好意に甘えさせていただくというのが苦手なので職員さんに察して提案していただくこともあるからそこも気をつけていきたいな。といろいろ思うところがありますが日々訓練にて距離感を保ちつつ進んでいきたいと考えています。
【余談】
義務化するによって良い点はあると思う。けれど私は(自分はこんなこともできないのか、頼ってしまった)という申し訳なさが勝つので頼れずにいて何も動けねぇ負のループ始まると思う。そうしないように"頼らせていただく"ことがあること。頼りすぎないこと。 訳:頼りすぎたくないけど頼りたい気持ちもある。誰かができないことがあったとき手伝えるときは頼ってほしいときもある。それを察していただいてる状況だから自分から進む事が大事だ。