友人関係を断捨離したお話
まえがき
気持ちを無理矢理にでも落ち着けるためにここ数年間を振り返る。気持ちが落ち着かない理由はわかっている。それは把握している事態が今後も改善される見込みがないからだ。本人が変わる以外に状況が改善されることはないけれど、人は決して変わらない。道を踏み外しているのならなおのこと。
とはいえ、いい加減時間ももったいないので関わるのはこれで終わりにする。たぶん。
ぼくが今回の経験を通じて、感じたことや思ったこと、学んだこと決意したこと等々の記録。明るい記事ではなく、また人が普段隠している部分を書いているため、不快な表現があるかもしれません。未熟者ゆえ予めご容赦ください。
さてぼくは最近、数年前にSNSで知り合い、友人・仲間として懇意にしていた人を断捨離した。そう決断するにあたって、普段であれば大概のことを即決するはずのぼくが、半年以上も思い悩んでいた。そんな最中、彼のある行動を見たときにぼくの中で描いていた全ての甘い考えが潰え、いままで聞かされてきた話に合点がいき、その時点でやっと迷いがなくなり断捨離することを決めた。
ぼくは人を見る目には自信を持っていると思っていた。にもかかわらず、なぜ彼の人間性を見抜くことが出来なかったのか。そしてなぜぼくは彼と仲良くなり、仲間として信頼するようになって、どんな過程を経たことでその信頼に疑問を覚え、断捨離するに至ったのか。
これは今後のため、そして自分と向き合うために書き切ろうと思う。
2023年5月からずっと、自問自答を繰り返した1年間だった。
自己紹介
簡単な自己紹介。こんな感じにシンプルな人間だと思う。
■人を嫌いにはならない。好きな人かどうでもいい人か。なだけ。
■決断は早い。2秒で決めても時間掛けても答えは一緒。それなら決めた後で考えればいい。飲みの誘いならイエスしかない。飲みの誘いならイエスしかない!
■好きな人の応援は全力でする。例えば、仕事柄作家への応援の対価はお金が一番ありがたいことをしっているから、とにかくその人やその場所に多くお金を支払うためにはどうすればいいか、利益の最大化を考えて実行する。
■性善説を採用している。母の影響だろうか。基本的に人は疑わない。そうそう悪人らしい悪人なんていないし、例え法を犯してようがぼくにとっていい人ならその人はいい人。でもだからこそ、ぼくに合う人は少ない。人はいつでも簡単に傷つけてくるから。社交辞令だけでも傷はつく。嘘つきは嘘つき同士でやってりゃいい。
知り合ってから断捨離の岐路まで
彼とはSNSで知り合った。最近ではよくある話である。お互いの投稿にいいねやリプライをしつつ、距離感が縮まっていったかのように思っていた。十分かどうかはわからないが適当に距離感が縮まった頃、彼の『職人を撮りたい』という投稿を見て、是非うちの職人をということで撮ってもらったのが実際に会うきっかけだったのではなかろうか。彼に対する印象のうちのひとつはブランド品を多く身に着けてるなーと思ったものである。ぼくは過去に税務や会計業界に長く携わっていたので、ブランド品をまとう彼の会社の収益構造が気になったのはただの職業病。
しばらく経ってから、撮影してくれたことへの感謝の意を込め、彼を食事に誘った。その際に、彼が運営する店舗での展示会開催の話を持ち出され快諾。2022年のゴールデンウィークに展示会を行うこととなった。それまでの間に彼自身もイベントをいくつか開催していたり、展示会を開催していたので、ぼくも東京へ行ったり京都へ行ったり。ぼく自身が言い出しっぺとなり東京の彼の店舗で新年会兼お誕生会、その他色々兼ねたお祝いみたいなのも行ったりもしていたな。いい思い出。
そうこうやってるうちに、彼が趣味のコミュニティを運営するというので、内容も聞かず二つ返事で参加を決めた。
ぼくにとって応援するということはその人自身を応援するということなので、内容は後からでもいい。そして職業柄作家への応援は現金がありがたいのは理解している。だから直接的な出資こそしないが、間接的な出資は惜しまない。
彼に関することで言うと、デザインパーカー10着以上を購入したり、2年連続彼の運営する店舗で展示会を開催したり、その展示会では売上の最大化を目指しフリードリンク制を導入してみんなのドリンク代を定価で支払ったり(尊敬するウイスキー好きの社長には苦言を呈されたけど)、期間中のレンタルスペース代とは別に売上割合での販売手数料も提案したり、彼が出版?した作品集(限定版)も購入した。応援するにしても、往復の交通費とか宿泊費とか食事代とか展示する作品の送料とか諸経費だとか諸々掛かるもんだ。
コミュニティにしても月額を支払い、各種有料イベントや展示会にも参加した。課金に関しては色んな声も上がっていたが、その当時は応援したくないならやめとけくらいにしか思ってなかった。
コミュニティも順調に人数が増えてきた。そうなってくると変な人間も少なからず湧いてくるから、特に女の子たちのためにはフラットに助けを求めることが出来る駆け込み寺みたいなものも必要やねと提案したことがある。結局そんなものは作る前にコミュニティは解散。そして駆け込み寺を作ってもないのに彼の件で駆け込んできたけれど。
2023年5月には2年連続で展示会を開催することとなる。 敢えてコミュニティ内では宣伝しなかったが、そのコミュニティ仲間も多数観にきてくれた。ありがたい限りである。
展示会開催中のある日、コミュニティ仲間の女性から呼び出され伝えられた。
『色々あってコミュニティを離れなきゃならなくなりました。でも、これからも仲良くして欲しいです。』
基本的にこういうときは、心の中を空っぽにしてしまうまで吐き出した方がいいと思っている。
「こんど家に遊びにおいで。なんなら泊まってってもいいから。」
これが2023年5月に出会った岐路。
ここで彼女がぼくに伝えてくれなければ、おそらくは2024年のゴールデンウィークもぼくは呑気にこの場所で展示会を開催していたかもしれない。
「相手のことを知る」までの今昔
それではここで一般的に「相手のことを知る」ということを考えてみようと思う。「相手のことを知る」ということは昔と今とではどう違うのか。ぼくが想像出来る程度に考えてみたところ、恐ろしい事実に気付くことになる。しかし、そこに根拠はない。
昔の「相手のことを知る」
人との出会いは実際に会うことから始まった。実際に対面して、相手の目を見て声を聴いて、話している時や話を聞いている時の所作を見て、そこから第一印象を感じる。その後また会ったり電話したりメールなどのやりとりをして少しずつ関係性を深めていく。その過程では、視覚的にも聴覚的にも嗅覚的にも情報があるかもしれない。そしてそれ以外にも溢れるほどの情報があり、自分にとってどのような立場の人なのかを判断するために、自分自信で情報を取捨選択することが出来た。相手の情報は飽和状態となっている。だからこそ心地よく見せるためにマナーが大切だったり、その洗練された所作に感動したり、雑な行いに共感したり、目や耳だけじゃなく身体中で感じとれる情報に様々な感情や感想を持ち、そこに人間であることを感じたのであろう。
今(SNSから始まる場合)の「相手のことを知る」
たとえば実際に会うよりも前に、SNSで知り合う機会も増えてきた。今回のぼくの1件だってそうだ。この場合、実際に会うわけではないので、SNS上で相手の人物像を判断するための情報を見出さなければならない。アイコンと投稿されたテキストの内容や画像。相手について得られる情報源はこれだけである。あとは真偽は定かではない自己紹介文や生年月日、錯覚資産や粉飾資産となりうる経歴等々。それらのテキストや画像を見て相手がどんな人物なのか想像を膨らませなければならない。しかし、想像を脹らませるのは自分自身である。
「こんな文を書くのだからきっと優しい人に違いない」とか。
「こんな写真を撮るのだからきっとしっかりとした人に違いない」とか。
生来のポジティブな人ならば、未だ見たことも聞いたこともないその相手にポジティブな印象を作り出していくかもしれない。その逆も然り。でもそれはただの妄想で、自分自身が育て上げてきた感性に基づいて作り出した人物像。つまりはもうひとりの自分自身を投影しているに過ぎない。そこに見えているのはSNS上の向こう側にいる相手ではなく、相手の投稿を自分の期待通りに映している自分の心なのである。
そもそも投稿されたそのテキストも画像も、本当に相手のものかどうかわからない。相手の心から生み出された言葉なのか、それともどこかで見かけたものを薄っぺらく真似したものなのか。相手の心はこれだけの情報で見えるわけがない。
となると今は昔とは違い、相手が自分にとってどのような立場の人なのかを判断するための情報は、自分が自分の中から紡ぎだしていっているに過ぎない。自らの経験や感情が相手の人柄を補完するという不思議な現象が起きている。真面目な人は真面目な人を投影するし、優しい人は優しい人を投影する。
相手からすると勝手にそう思われているのだから迷惑な話だ。いや、まんまとそう思ってくれるならとほくそ笑んでるかもしれない。
振り返りその① 〜知り合ってから断捨離の岐路まで編〜
ここでぼく自身の経験を振り返る。なぜ彼と仲が良くなったと思ったのか。まずはSNSで知り合った頃を振り返り、紐解いてみる。すると、ひとつ気付いたのは「共感」の多さ。
『私もそう思う』
『私も同じような状況で』
『わかります』
『私も』
『私も...』
『私も......』
いま思うと「そんなに共感することある?」と思ってしまう。あるにはあるんだろうけれど、それはホットミルクの膜の様に薄っぺらで、そもそも本質が伝わっての共感なのかどうかはわからない。仮に本質が伝わっていたとしてもこんなテキストベースで理解し合うには、視座や思考のレベル感、文章力、読解力、表現力、その他価値観に至るまで近しい必要があると思う。いまでこそ気付いたことだが、ぼくと彼とは価値観が異次元レベルで異なる。視座や思考力だけでなく、文章力や読解力においてもレベルが違う。にも関わらず、この多数の共感は本当の意味で共感されていたのだろうか。とはいえ、人は共感された風でも多かれ少なかれ嬉しさを感じてしまうものである。少なくともぼくはそうだった。
そしてもうひとつ。
「承認」も数多くみられた。画像や動画のアップに対して
『めちゃくちゃきれい』
『めっちゃ好き』
『とてもいいっすね』
自分の投稿に『めちゃくちゃきれい』と書き込まれたテキストを読むのは自分自身。つまり相手が本当にそう思ってるかどうかはわからないにも関わらず、自分が承認されていると思い込んで心が弾む。だってそのテキストを読んで心が弾むのは、そのテキストを読んで承認されていると受け取った自分の捉え方だから。言ってしまえばコピペで貼られた内容であっても、読み手によっては宝物になりうるのだ。
振り返るうちに、この質の薄い共感や承認の多さにすこしなりとも恐怖を覚えた。本来信頼というものは、その人となりや約束と実行の繰り返しが信用するに値するかどうかを図り、そしてその信用が積み重ねられた結果、揺るぎない信頼へと転じていく。
であるならば、今回のこのSNSでのやりとりのどこに約束と実行の繰り返しや、信用するに値する出来事があったのだろうか。すべてはテキストを読んだ自分の頭の中での出来事でしかないのに、真意の不明な共感や承認を信用に置き換えていたのだろうか。
出会うまでのやり取りを改めて振り返ってみたが、ぼくが思っている信用や信頼は何処にもなかった。ぼくは根拠もなく彼を信用していたということになる。
出会ってからも違和感を覚えることはなかった。いや、なかったことはない。違和感はあった。いま振り返ると感じた違和感は正解だった。それを持ち前の何事もポジティブに受け取るぼくの性格が、信用と思しき何かで上書きしている。そして見て見ぬふりしていることもあった。ぼくは人が気付かないことに気付いてしまうことが多いから、気のせいということで済ますことも多いけど、いま思うと気のせいではなかった。
彼とは特別深い共通体験を持っているわけじゃないが、展示会や各イベントなどさほど責任がいらない共通体験は積み重ねてきた。実際に会うということは同じ時間を過ごすということ。言葉を交わし、談笑するなりなんなり。言葉のキャッチボールをするとなんとなく距離が縮まるもんだ。
その共通体験の微かな期待に応えるやりとり、その積み重ねが信頼へと勘違いさせていった。
人物紹介
さて、ストーリーを進めるために改めて人物紹介。
ぼく(さかいけんじ🍻)
■どうでもいいことに対してはサバサバしてる。大切だと思うことにはとことん前のめり。白黒も善悪もハッキリしなくていいしむしろどっちでもいい。でも0か100か、有か無か、生か死かでは考える。コントラスト強め。
■比較的優しい方だと思う。なぜなら優しくあることを選択しているから。優しくないということが何かを知っている。
■日本語が好き。ハッキリせずとも色んな想いが包み込まれているから。言葉には想いが詰まっている。逆に、ぺらい人のぺらい言葉は好きではない。想いのない言葉は浅はか過ぎて、まずはいっぺん辞書を読み込んでから使って欲しい。
■ぼくは幸運である。だから運気が落ちると思うものや人とは遠慮なく距離を置く。ぼくの運はぼくのものではなく、大好きな人たちのものだから。
戒めくん
今回の断捨離対象者。
ことあるごとに自戒を込めてるから戒めくんと呼ぶことにする。自戒の意味を知っているかどうかは不明。
▼ぼくが思っていた戒めくん
■人当たりがいい
■フットワーク軽い
■面倒見がいい
▼相談を受けた後に見えてきた戒めくん
■日常的にその場を誤魔化すための嘘をつく。
■他責思考 人のせいにする
■大切なこととは向き合わない。逃げる。とぼける。
■出会ったほんの数年前と、付き合ってる人が大きく異なる。
キロさん
ぼくの人生に重大な岐路を与えてくれたのでキロさんとでも呼ぶ。
■すごく頑張り屋さん。
■真っ直ぐと前を見て生きている。
■でも真っ直ぐすぎてよく壁にぶつかってそう。
■情報がすごく整理されている。
キロさんが関わるお仕事の件でぼくがメッセージを送ると数分足らずで関連データが送られてくる。仕事が出来る。尊敬。
そんなキロさんがあのとき岐路を提示してくれたおかげで、いまのぼくがある。とても感謝している。
岐路から断捨離まで
展示会開催中のある日、コミュニティ仲間のキロさんから呼び出され伝えられた。
キロさん『色々あってコミュニティを離れなきゃならなくなりました。でも、これからも仲良くして欲しいです。』
基本的にこういうときは、心の中を空っぽにしてしまうまで吐き出した方がいいと思っている。
ぼく「こんど家に遊びにおいで。なんなら泊まってってもいいから。」
これが2023年5月に出会った岐路。ここから断捨離するまでを振り返っていく。
キロさんとぼくとは2022年5月に初めて出会い、そこから主にSNSでやりとりをしていた仲。キロさんとのSNSでのやりとりを振り返って思ったのはあまり共感に関するものはなく、自分たちの意見のやりとりが多いように思える。それぞれの意思がしっかりしているからだろうか。
そんなキロさんに打ち明けられた。ぼく自身キロさんを応援していることもあったし、なにか力になれることがあればと素直にそう思った。キロさんにとって失礼な表現ではあるが、その時は一般的にいう「私情のもつれ」だと思っていた。こういう話は今までもたくさん相談にのってきたし、今回もそんな話のうちのひとつだと思い、まったく重くは捉えていなかった。
上記のような話をキロさんから伝えられて10日ほど経った深夜、一通のLINEが届いた。戒めくんからだった。長々と2スクロール分くらい。
それを簡単に要約すると
『いまのコミュニティはもう抜ける。相方にも約束破られたし。キロさんがおかしなこと言い出してるけど、また来年も展示会してね。』
という内容。(簡単に要約しすぎ)
いまならツッコミどころが多く感じられる上記のような内容も、当時のぼくはこの内容を100%受け入れた。特に疑いもせず「なんか大変なことになってるんやろなー」くらいに思っていた。この時ぼくは、まだ彼のことを信じている。違和感を覚える内容ではあるが、その違和感をぼく自身が勝手に補完した上で前向きに理解しようとしていた。
例えば、
『いまのコミュニティはもう抜ける。』
→自分で立ち上げたのにそれを続けられないくらい大変なことが起こっているんだろうな。とか
『相方にも約束破られたし。』
→いろいろと情報が錯綜してるのかな。大変な状況なのね。とか
『キロさんがおかしなこと言い出してるけど、』
→ほうほうなるほどそうきたか。話せばきっと大丈夫よ。とか
『また来年も展示会してね。』
→もちろん、助けになるなら全然やるよ。
という風に。
なんの疑問も持たずに受け入れてしまった。この時だけじゃなく彼の人間性を知るまでは彼の言うことを信じている。いや、人間性を知ってからも彼の言い分を信じたいという気持ちを持っていた。だから彼を取り囲む周りの人たちを敵だと思っていたし、彼の言い分に惑わされ、関係のない人たちに対しても醜い気持ちを抱いてしまった。本当に悔しいし情けない。1年前の自分をぶん殴ってやりたい。情けないこの羞恥を晒すことでぶん殴った変わりにしたい。
その2日後、彼に実際に会う機会もあった。その際にちゃんと別れたのか。ちゃんと話し合ったのか。を確認したが、
『ちゃんと別れましたよ。』
と言っていたから、ぼくはそれを信じた。
基本的に、ぼくは彼と会うことも彼にこういうことを伝えるよっていうこともキロさんと共有している。逆の場合もそう。キロさんと会うこともキロさんにこういうことを伝えるよっていうことも彼と共有している。彼の味方といえど、アンフェアなことはしたくないので、情報はどちらにも共有するよと伝えたうえで両者に伝えている。
2023年6月、キロさんが会いに来た。それまでもいろいろな話が錯綜し、ぼくもちゃんと出来事を把握しきれていない部分もあった。なによりもテキストコミュニケーションが多かったので理解の齟齬も多かったと思う。戒めくんバイアスも掛かっていたしね。ぼくからキロさんに質問をすることはないけれど、キロさんの意思で伝えてくれることは全て受け止めるつもりでいた。
「わたしは周りにどう思われてもいいので、今回話すことは誰にも伝えなくていいです。ここに全てを置いていって終わりにします。」
キロさんはこう宣言していたが、この潔さの裏側には苦しさが隠されていた。
最初の予定より1日多く滞在し、キロさんは帰っていった。キロさんの気持ちが楽になったのか、言いたいことを全て置いて行けたのかどうかはわからない。けれどキロさんから伝えられた内容は、ぼくがキロさんを信じると決めるには十分だった。
もちろん戒めくんにもキロさんが遊びにくる日程は伝えていた。にも関わらず、キロさんが帰った後もぼくがアクションを起こすまでは彼からの連絡は一切なかった。
しかしながら、キロさんを信じると頭では決めていてもなかなか心の足並みがそろうまでは時間がかかるもんだ。なんとなく踏ん切りもつかず、だらだらとした状況を過ごしていた。
そして2023年も終わろうとしていたある日、SNS上でキロさんが戒めくんからブロックされたことがわかった。傷付けられたキロさんがブロックするならわかるし、むしろ情報の遮断はすすめてたくらいだが、彼の方からブロックした。
それを見たぼくは「やっぱりキロさんがいう通りか。話し合うつもりも皆無。完全に逃げ切るつもりなんやな...」と思い、彼に対するすべてを諦めた。
振り返りその② ~岐路から断捨離まで編~
さて、2023年5月からこの1年間。当初は時間を問わずいろんな人からLINEが届いたりしていて、そういうのは温度感が大切だから出来る限り速やかに対応していた。そのことが誰かの役に立ったのかどうかはわからない。今でこそ静かにはなっているが、燻りが未だあるのもわかっている。だからこそ、ぼくなりに向き合い苦しみ考えはしてきたけれど、これもいつか誰かの役に立つのだろうか。
当時キロさんがぼくに伝えてくれたこと。これが今回の岐路だったのではないかなと思う。この行動がなければ、ぼくは今年もゴールデンウィークの展示に向けて呑気に準備をしているかもしれない。ぼくの周りの環境から想像してみてもきっとこの時伝えられたのがベストタイミングだったし、ベストな選択だったと思う。
物事というものは遅かれ早かれ平均値に収束しようとするから、結局は断捨離することにはなってたんだろうけど、でもこのタイミングでよかったよ。グッジョブ。
突然届いた長々LINEの振り返り
2023年5月、戒めくんから最初に届いた長々としたLINEも、いま振り返ると違和感しかない。LINEメッセージ2スクロール分を要約しているが、おおまかに言うと内容はこう。
2023年5月18日 午前 1時51分
戒めくん『いまのコミュニティはもう抜ける。相方にも約束破られたし。キロさんがおかしなこと言い出してるけど、また来年も展示会してね。』
では、ひとつずつツッコんでいくと
『いまのコミュニティはもう抜ける。』
→自分で立ち上げて人を散々巻き込んでるのに、立ち上げた張本人が抜けるってどういうこと。コミュニティは月額も発生しているし100人近いメンバーも参加している。その責任を一切鑑みないのもどうかと思う。都合悪いと投げ出す行動にでるのか。そういうことで言うと、前に会社立ち上げたってTweetしてたけどあれも、、、
『相方にも約束破られたし。』
→それは相方に伝えたのだろうか。そもそも本当に約束したのだろうか。相方と直接話すべき。
『キロさんがおかしなこと言い出してるけど、』
→それはキロさんに伝えたのだろうか。これもキロさんと直接話して確認すべき内容。そもそもキロさんから直接聞いたわけではないのに、本当に言い出してるのだろうか。伝聞なんて所詮は伝聞。真意はわからない。
『また来年も展示会してね。』
→この話の流れで展示会の話は関係ありません。
おそらくはキロさんがぼくに伝えたということを知って、彼は慌てたと思う。キロさんが彼と付き合っていたということ、そして別れたということ、別れるに至った理由その他諸々のどんな内容を伝えたんだ...!!と憎しみに近い感情が彼の頭の中を巡ったかもしれない。
なぜなら付き合ってたことは誰にも言うなとキロさんには言っていた。それも意味がわからないけれど、せっかく2年以上も隠していたことを他人に打ち明けられたのであれば、そして他人には知られたくない後ろめたい内容をそこに抱えていたのであれば、真っ先に自分を正当化させなければと思ったのであろう。そして清々しいくらいの他責っぷりを見せ、自分が一番の被害者だということをアピールしてきていた。
だってせっかく閑散期であるゴールデンウィークに売上を見込んでいたのにね。だからこそこの最後のひとこと『また来年も展示会してね。』
彼が自分を守るため嘘の説明を行っているのは、ぼく以外の複数の人たちがされているのも確認している。それは今回とは別件のことでも。そうやって嘘をつくのが日常的になっているんだろうと思う。今回のことに関しても
『キロさんのせいでコミュニティが解散する』
と思っていた人が中には存在する。だからぼくが知り得た範囲で誤解は解いてきたつもりだけれど、彼の嘘をまんまと信じていまでもそう思っているひとはいるかもしれない。
ぼくが思う解散理由はひとつ。彼が原因となり噴出してきたものに対して、彼が真摯に向き合わなかったからだ。相方にも真実を話さず、ただただ他責に徹した結果なるべくしてなっただけ。
そんな彼はというと、23年5月18日の未明に上記のLINEをぼくに送ってきている。そして18日の夜にはすでに新たなコミュニティ名を決め、23日にはTwitterのコミュニティ機能を使って新たなコミュニティを始めていた。ぼくが新しいコミュニティのSlackに誘われたのは9月末頃だけど、その時にはすでに数十人が参加していた。ちなみに新しいコミュニティの人数がなかなか増えないのも相方のせいにしていた。
キロさんや相方に責任を押し付け、方々に嘘の説明を伝え、自分は我関せずと新しいことを始めている。責任を放置したまま、一切の責任を果たそうともせずに。
コミュニティを解散するにしても、彼は何も考えていなかった。そのままほおっておくつもりだったのだろうか。
こういう解散するというネガティブな出来事はリスクを最小限にする必要がある。そのために課金を止めろとアドバイスしたのも、コミュニティメンバーの募集を止めろとアドバイスしたのもぼく。いま思えば危機感どころかメンバーに対して感謝の気持ちも敬意でさえもなにもかもを持っていなかったのではなかろうか。物事が終われば、新たに始まる。しかし終えてないならば、それは決して始まりではない。その無責任さに呆れてしまう。
このとき長々とした言い訳じみたLINEを送ってこなかったら、また未来は違っていたのかもしれない。これは彼にとっては悪手だったと思う。だってまだこの時ぼくは、キロさんからほとんどなにも聞いていないのだから。
キロさんを信じると決めた理由
2023年6月、キロさんや彼の相方にも直接会って話を聞いた。ふたりとも経験してきたことを話していた。当然、ぼくからはなにも言えなかった。ぼくがいままで聞かされてきた話はいったいなんだったんだろうか。
戒めくんはぼくにこうも言っていた。
『恋愛なんて大人なんだから当人同士で終わる問題だし、犯罪を犯したわけでもない。』
確かにこれはぼくもそう思う。珍しく意見は一致する。ただ前提が大きく違う。仮に大人だと仮定するのであれば、当人同士で終わっていない状況を自ら作り出してるのに、さらにそこから逃げるのはどうなんだろうか。当人同士で終わる問題なのであれば、終わらないこの状況をどう受け止めているんだろうか。ぼくは直接会ったときにも彼に確認した。
ちゃんと別れたんか? ちゃんと話したんか? って。
その時には『ちゃんと別れましたよ。』と言っていた。目線は逸らされたけれど。
きっとちゃんと別れてないという自覚が脳裏に浮かんだんだと思う。だから目を逸らした。2年そこら付き合ってるのに、あんな手紙を届けただけで当人同士で終わらせたつもりだったんだろうか。いったいどこにふたりの合意があったのだろうか。それが彼の言う大人の恋愛なんだろうか。
ちなみに日本語的には『犯罪を犯したわけでもない』ではなく、『罪を犯したわけでもない』な。
それだけじゃない。ここには書かないが、やってることがひどすぎて本当に言葉にできない。40代にもなろう男が20代の女の子にやることではない。いろいろありすぎてもう申し訳なくも思わないが、その人間性を強く疑う。
さて、ぼくが戒めくんではなくキロさんを信じることにした理由。
それはキロさんが自らの経験をひとつひとつ思い出しながら語っていたから。自分で感じたことを自分の言葉で話していたから。思い出してそれを絞り出すのは辛かったと思う。でもキロさんは頑張って伝えてくれた。
一方の彼が語っていたことは
『ぼくはこんなにがんばったのに』
『〇〇があんなこと言ってる』
『△△はぼくにこんなことしようとしてるらしいですよ』
、、、、、?
キロさんの話の内容は実体験が9割、伝聞の話は1割にも満たなかった。
対する彼の話は伝聞が9割、実体験は、、、あったかな。あぁ、浮気がバレたってことくらいか。
キロさんがぼくに会いに来てくれた後、彼はぼくに連絡してこなかった。むしろ出来なかったんだと思う。内容が内容だから。隠していたことの何を話されてしまったのかわからないし、知られたら都合が悪いことしかないから。向き合わずに放置するという選択が彼らしい。
痺れを切らしてぼくからアクションを取ったらやっと反応したけど、
「なんで連絡してけえへんの?」って聞くと
『いや、特に何もなかったと思って』と言っていた。
いや、、、この状況でなにもないわけがないし、キロさんがわざわざ東京から大阪まで来てる。その目的も一連の流れを理解してるんやからわかるはず。だって基本的に情報は共有している。どれだけ酷いことをやらかしたのかは自分が一番理解してるはずなのに、そこをとぼけるというのはどうかと思う。そしてこの回答、人としてもそうだけど社会人としてもアウトよ。
『この度は、ぼくがちゃんと別れなかったために色々と時間取らせてすいませんでした。なにか不都合はありましたでしょうか?』
くらいのことを真っ先に連絡してくるのが筋だとぼくは思っている。自分のことで人に時間を取らせてしまったなら当たり前のこと。自分のことで人に時間を割いてもらうということは、その人の命を貰うことと同義だということを理解してるのだろうか。
自分が過ちを犯しているにもかかわらず、自分の正当性を誇示しようとして、事実を語らず人のせいにする。そしてその対応のために嘘までついて自覚なく周りを巻き込んでいく。まっすぐ前を向くキロさんのためならいくらでも時間を使うけど、なんで40代にもなるおっさんの自己保身を補完するために、関係のないみんなが命を削られなければならないのだろうか。
彼の連絡を待っていたぼくもぼくだ。ぼくもアホなので「はやく連絡よこさないとキロさんが言ってることの真実味が増すだけやないか、、、」とか思ってた。キロさんの言ってることのほうが真実だとわかってるのにね。
でもそれはぼく自身が信じたものを、ぼく自身で否定することに抵抗があっただけだと思う。彼が常に逃げ腰なおかげで、ぼくの目も覚めてよかった。
その他
他には、、、、
▼
『今回ぼくは被害者面するつもりはなくて、、、』
『全面的にぼくが悪いです。』
潔さそうに見えるけど、全く説得力が感じられない。被害者面出来る隙間をどこに見出したのか。どこからどうみても彼は加害者だと思っている。『ぼくが悪い』と言いつつもなにが悪いのかは説明出来ないし、キロさんにも何が悪いのかを全く説明していない。説明責任を果たさずしてなにをどう悪いと思っているのだろうか。
▼
自分の作品集を販売しているけれど、どんな気持ちで今もなお販売しているのだろうか。販売文句通り、今後追加していく予定はあるのだろうか。それともないのだろうか。それとも追加することが出来ないのだろうか。制作過程の話を聞く限りでは、無責任というか、責任の欠片もそこにはなかった。川辺のカフェであんな得意気に説明していたのはいったいなんだったんだろうか。
▼
価値観について。ぼくとは全くもって正反対だった。彼の複数の投稿を要約すると
『やってあげたことは忘れないで欲しい。ぼくはずっと覚えている。でも、自分に都合の悪いことは忘れたい。人はそういう生き物』
と、言っている。
ぼくはそもそも「してあげる」とか「やってあげる」という表現が苦手で、そしてそれが反対給付を前提とするならなおさら嫌いで。やると決めているのは自分自身なのに、なぜ恩着せがましいことを言う必要があるのだろうかと思う。
ただ敢えて合わせるためにその表現を使うなら
「やってあげたことは忘れてしまえ。覚えているなら後輩にしてあげろ。そして自分に都合の悪いことは絶対に忘れるな。その経験がいまの自分を作り上げている。」
という生き方。だって自分がやると決めてやったことでしょう。そんなこと覚えてもらっても脳の容量の無駄遣い。そして自分がやらかしたのならそれは絶対に忘れてはいけない。2度と同じことを繰り返さないために。
他にも戒めくんは
『やってあげたことの感謝を忘れるから、みんなぼくの周りからいなくなる』
と、自分から人が離れる理由をこう分析されていた。恐るべき他責力だと思うのだが、是非なぜ距離を置かれたのか、いなくなった人たちにちゃんと聞いてみて欲しい。責任を持とうとせず向き合おうとせず、すべてを他責にしているうちは何も変わらない。
振り返ると本当にぼくの価値観とは正反対というか、次元が異なる投稿ばかりしているのに、ぼくは気付かなかった。彼の投稿のなにがよくてぼくはいいねをしていたのだろうか。脳が都合よく理解したいように意訳して、それを理解したつもりになっていたのだろうか...
▼
キロさんの件があった後、
「人との付き合いのはじまりは、終わりの始まりだと思っている」
「だから終わった時にいい時間だったと思ってもらえるようにしている」
「すべて円満に別れてる」
これはいつかのSNSLIVEでしていたお話。ほんとによくもまぁ。
ぼくに届く声を聞く限りでは、最悪な話しか聞こえてこない。ぼくの44年の人生で類を見ないほど。終わる前提で付き合ってるくせに、それなのにちゃんと終わらないから不幸をどんどん増やしていく。人にも自分にも嘘をつき出したら誰のためのなんの人生を生きてるんだろうか。彼が何を語ろうとも、一番大切にしなければならない人を大切に出来ないのであるならば、その言葉からは何も伝わらない。伝わったところで賛同出来ない内容ばかりだけど。
これもまた彼とは異なる価値観だけれども、ぼくは人との付き合いは終わる前提ではなく、継続を前提に付き合っている。都度終わった時にいい時間だったと思ってもらえるのはいい。その次にまた始まるから、そこではもっといい時間だと思ってもらえるよう付き合っている。だから両手に収まるだけでいい。薄っぺらいものはいらない。
▼
結局いくら自戒を込めたところで自分基準の戒めだし、なんなら全て他責にするのに何をどう戒めているのだろうか。いちど戒めLIVEでも見てみたい。自戒の時間までもらったんだから、大好きな自戒をたくさん込められてよかったね。
本当にふたりの話を聞いてよかった。ぼくは昔から揉め事に介入することが多いけど、当事者たちに会えることも多い。だからこそいつもフラットな判断が出来ているとは思いたいけれど、片側だけの意見を信じるのは本当に危険だ。特に今回のように他責思考で、かつ自己保身のためには仲間に嘘をついてまで自分を正当化しようとする彼の様な者を信じてしまっていた場合には特に。
そういや彼は片方の話だけを聞いて判断しないとかなんとか、、、(いい加減止めないとどんどん溢れ出てくる、、、笑)
嘘をつくということ
嘘をつくと人はどうなるのだろうか。
嘘をつかれた人。嘘をつかれた人はその時は傷付くかもしれない。でもいつかはその傷も癒えるし忘れてしまう。そのうち無関心になり、嘘つきのことなんか記憶のゴミにすらならない。
では、そのついた嘘はどこへ行くのか。それは嘘をついた本人にだけに残される。人に尋ねられる度についた嘘の背景を思い出し、またそれを誤魔化すための嘘を重ねる。もしくは周囲に嘘がバレているのではないかと疑心暗鬼になる。ついた嘘は巡るから。その都度都度で思い出し、そのついた嘘は何倍にも膨れ上がって心を欺瞞に満ちた闇で充満させる。それは心に居場所がなくなると、いずれ外に現れる。人相や性格、外見、所作、言葉の端々に。そして気付いた頃には周りに誰もいなくなる。人を欺き自分だけを守ろうとした結果、自分も守れず自分を滅ぼすこととなる。
お望み通り、死ぬときはひとりだ。
最後に
全部が全部否定するわけではない。もちろん感謝している部分もあるからね。彼のおかげで、かけがえのないものを手に入れた。
だからと言ってそれが免罪符にはなり得ない。金輪際、ぼくが身内と思っている人たちに手を出さないでいただきたく。
老婆心ながらアドバイス的なことを言うと、人に胸を張れない非常識なことを多々している自覚があるのであれば、SNSの使い方には気を付けた方がいい。だって今回の件は氷山の一角だから。
今後ぼくの人生において彼が関わることはないけれど、最後にひとこと物申すとしたら
「おまえ、なんなん」
あとがき
こんなにも違和感を覚えてたんか 笑
この件を書きだしてから、ついに16,000文字を超えてしまったけれど、これでもまだまだ書いてないことはある。8割ほど書いたものを1度ゼロから書き直して、そこからトゲをそぎ落としていく作業。これでも丸く表現するために遠慮や配慮はしたつもりだ。そのおかげか、その都度心と記憶を整理しながら書いているので思いの外スッキリした。ぼくは書くことを生業としているわけではないけれど、数十年もなにかとメモを取り続けているからか、書くことで気持ちを昇華できるようだ。昔からの習慣がぼくを落ち着かせてくれる。
一歩踏み込んだところにこんな光景があるとは思いもしなかった。知らぬが仏とはよく言ったものだ。ぼくが思うに彼との付き合い方は、責任が伴わない薄い付き合いだったらいいんだろうと思う。それなりに楽しいんじゃないかな。それか逆に一生面倒みるって覚悟をしていたら。どっちにしろぼくはそんな付き合い方は出来ないから、ぼくの場合は彼には近づかない方がいいと思っている。彼の生き方に触れると不幸が感染る。
ずっとなんとかなるんじゃないかと淡い期待を持っていたんだけど、信じる心が折れたというか、千切られたというか。いや、淡い期待じゃない。自分が信じていたものを自分で否定することが出来なかっただけだと思う。
彼を信じ、彼の周りが言う事を否定していた。つまり嘘を信じて、本当のことを言っている人たちを否定していた。なんて軽はずみな行動をとったのかという反省。一生の恥。
でも、関係者にちゃんと会って話を聞いたこと。そして自分の考えを潔く覆したこと。そこの部分はえらいと思うよ。えらいんじゃないかな。
ぼくの真っ直ぐに応援する姿勢はきっと悪くない。ぼくが信じてやっていることだから変えるつもりもない。そしてその応援を辞めるのもぼくの勝手。全てぼくが決めて実行すること。ただ全力で応援するに至るまでが軽すぎるので、そこは気を付けようと思う。その軽さが逆に傷つけてしまうこともある。だからこそぼくは誰の味方になるかをちゃんと選ばなければならない。自分だけならいいけれど、ぼくにはぼくを信じてくれている人たちがいるから。
そう言えば、最初の自己紹介に『人を嫌いにはならない。好きな人かどうでもいい人かなだけ。』と書いたけど、これは嘘だな。やっぱり嘘つきは大嫌いだ。
この件ではないけれど、色々疲れて2か月程SNSを休んだことがあって、その2か月のことを書いたぼくのnoteを読んでキロさんは感想をくれたよ。優しさに甘えてしまってごめんなさいって。キロさんが謝ることなんて欠片もないのにね。本当に真面目で優しい子なんだ。あとべらぼうに酒が強い。酒豪すぎるのはズルい。
この1年間、無意識のうちにぼくの心はネガティブに浸ることが多かった。投稿する内容もトゲだらけで見返してもしんどい。まぁそれが持ち味でもあるんだけどトゲはたまにでいいかな。そんな投稿は見る方も気分がよくないしね。でもネガティブなものに触れ続けたおかげで、大切にしたいものがより明確になった1年でもあった。生き方だったり、考え方だったり、大切な人、物、事。
だからこれからは大好きなひとたちを大切にすることに心を使っていきたい。心にいつもCoLorFuLを。
最後にもし、いま思い悩んでいる人たちが見てくれているのであれば、、、、
誰にも言うなって言われているなら、それは弄られるのがイヤやからじゃないからね。今の状況が苦しいのならよく考えてみて。
仕事の相手を紹介してって言われてるなら、紹介しない方がいいよ。大切な人にそんなことお願いしない。
お金も差し上げるつもりがないのなら、それ以上の金額は出したらあかんよ。大切な人に無心はしない。
そして、どんなことでもひとりで抱え込まなくてもいいからね。味方になってくれる人はいるから。だいじょうぶよ。
この度は私的なことでお目を汚してしまい、誠に申し訳ございませんでした。また、最後までお読みいただき感謝いたします。今回の反省を踏まえ、改めて気を引き締め直し、生きていきます。
自戒を込めて。