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「好き」ということ
最近になって考え始めた訳ではないけれど、色々と機会があり「好き」とはなんなのかを改めて考えてみた。もちろん着地点はない。きっと結論にも辿り着けない。ダラダラと溢れ流れる思考を書き起こしてみた。
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『好きです。付き合ってください』
これはよく見るやつ。好きになって、ずっとずっと心の中で想い続け、そしてとうとうその気持ちが溢れ、伝える。
中学1年生の頃、そう告白して彼女が出来た。男子校に通うぼくからしたら大金星だ。当時、スマホどころかポケベルやPHSもなかったから、連絡を取るためには家の固定電話に凸らなければならない。どれだけ勇気を振り絞ったことか。
そして1週間で振られた。
『ケンジくんは、私には優しすぎる』
泣いた。
おい中学1年生。なんだこの理由は。たかが1週間で。まだどこにも遊びに行ってないし。なんなら手を繋いでもいない!
ここから数十年、優しいと言われることが嫌だった。でもそのおかげで優しさの意味を考え続けられたから、きっと今は昔より本当の意味でも優しい。と、思うよ 笑
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どうでもいい話はさておき好きとはいったいなんだろうか。自分の想いがどんなもので、なぜそれを伝えずにはいられないのだろうか。付き合うとはなに? どうしたいの? どうされたいの?
好きにも色々ある。例えば好きの対象となるもの。
・写真が好き
絵でも彫像でもなく写真が好きということ。これは写真に写真であることを求めているのか。
・お寿司が好き
オニギリでもお刺身でもなく、お寿司が好き。それがお寿司であることを求めている。
・お肉が好き
野菜でもなくお魚でもなく、どうしてもお肉が好きなのだ。これもお肉にお肉であることを求めている。
・人が好き
これも好きの対象に人であることを求めている。わんこでもにゃんこでもない、人であることを求めている。
そして、好きの種類も様々だ
・愛と同様の意味を持つ好き
・いつも心の中で生きている。心に存在することで強くもなり弱くもなり得る好き
・相手を自分の思い通りにしたいという意味が隠されている好き
・嫌いではないという意味での好き
・ただSEXがしたいという目的のために利用される好き
・自分が自分のままで入れる状態の好き
・さみしさやくるしさを埋めるための好き
・好きと思い込みたいだけの好き
・情が湧いての好き
好きになる段階にも、ひと目で好きになったり、気付いたら好きになってしまっていたり、嫌いだったけれどひょんなことから好きになったり。
さらにはちょっと好きとか、大好きとか、どちらかといえば好きとか、好きが冷めてしまったりとか。伝えられて嬉しい好きもあれば、嬉しくない好きもあったりする。もう好き界隈もカオスである。いったい好きの中になにを見出しているのだろうか。
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▼人物紹介▼
・Kんじ
好きになる人をKんじと呼称する。ここはKんじの世界。ぼくではない。
・K子
好きになられる人をK子とする。ケイコさんではありません。ケイコさん気にしないで。
・他者
上記2人以外の誰かを他者とする。
では本題。例えば「KんじはK子さんのことが好き」となるとどうだろうか。ここからは思考をそのまま言語にしているため非常に読みにくいと思います。何卒。
K子さんはK子さんである。もちろんKんじとは別の人格だ。だからKんじ自らが積極的に、K子さんにK子さんであることを求めたところで、そこに意味はない。しかしこの場合は、「K子さんにK子さんであることを求めている...」ということなのだろうか。
例えばP子さんにK子さんであることを求めてみる。いや、これはP子さんにとってただのいい迷惑。他者であるP子さんにK子さんであることを求めることは異常である。キモい。
では、K子さんにK子さんであることを求めるというのはどういうことなのだろうか。KんじはK子さんのことをどういう風に認識して、なにをK子さんに投影しているのだろうか。Kんじの中に投影しているのか?
Kんじが知っているK子さんは、いままで見てきたK子さんの印象から成り立っている。見た目や所作、言葉遣い、会話の端々から感じ取られる感情の揺らぎ、自分の言葉を伝えた時の受け取り方や、目線の動き、笑ったり、喜んだり、悲しんだり、怒ったり。これらは全てKんじが感じ取った印象からKんじが作り上げたものである。Kんじにも生まれ育ってきた環境があるから、他者がK子さんに対して同様の印象を持っているかどうかはわからない。Kんじの中でのK子さんに近しいものではあるがK子さんそのものではない。KんじがK子さんだと思っているK子さんだ。見えているもの自分が感じたいように感じたものだけでそれをK子さんと判断している。これはK子さんに自分の思うK子さんであってくれと勝手な期待を押し付けているのだろうか。自分とは他人であるK子さんにK子さんであることを求めてしまっているのだろうか。
もしそうなのであれば、なぜ人に求めてしまうのだろうか。K子さんはK子さんなのに。ありのままの彼女を受け入れて然るべきなのに、そこになんの目的があるのだろうか。自分の都合のいいようにK子さんを解釈し、そこに何かを求めているのであれば、それはただのエゴの押し付けなのではないのだろうか。
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自分は自分。前提として他人がいなければ自分と言う概念は存在しない。自分だけの世界なら他と区別する必要もなく、自分という概念は必要ないからだ。
他人とは何か。それは自分以外の誰か。自分とは全てを異にする存在。例え似ている部分があるとしても、それはあくまでも似ているだけであって同じではない。自我では全くもってコントロール出来ない他我。
他人がいて初めて自分を確認する事が出来る。他人との境界があって初めて自分という存在が成り立つ。
であるならば、ひょっとしたら人に求めてしまうのは、相手の中に自分の居場所を探しているということなのだろうか。その人の中が居場所でありたいと願っているのだろうか。「この人の中に存在したい!」それが誰かを好きになると言うことなのだろうか。
自分の居場所とはなんなのか。自分の中に自分の居場所はないのだろうか。それとも他人の中にしかないのだろうか。それこそ自己肯定感と関わってくるのか。自分が自分であることを認めきれないから、他人の中に自分の居場所を作って自分の存在を担保しようとしているのだろうか。その居場所を作る行為が好きということなのだろうか。であるならば、自分の中だけで自分の居場所を確保出来る人は、他人を好きになったりしないのだろうか。好きになるならばそれはどういうことなのだろうか。
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大好きな相手が自分以外の人と仲良くしていたら傷はつかないまでもショックを受けることもある。嫉妬やジェラシー、やきもちとも言われる。これは人間だけがもつ反応ではなく、例えばワンコやニャンコにも備わっている。ぼくがむかし飼ってたワンコも、ぼくが他のワンコとイチャつくとすごく怒ったしいつも以上に懐いてきた。いわば自然の感情なのだろう。ということは反応としては正しいものなのだろうか。しかしながら、好きな相手が喜んでいるのならば、それは自分としても喜ぶべきことではないのだろうか。好きな相手が喜んでいるのに自分は嬉しくない。なぜ正反対の感情が湧き上がるのか。その瞬間、好きな相手に自分の欠片がこれっぽっちも存在しない様に見えて不安を覚えるからなのだろうか。それとも独占欲からくるものなのだろうか。ワンコやニャンコにも独占欲があるということなのだろうか。
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愛とは、その存在そのものをそのままの状態でまるっと受け入れること。そして愛とは与え続けるもの。なのであれば、一般的に好きというものはどういう状態なのだろうか。好きの上位互換が愛? それとも愛と好きは全くの別物?
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付き合うとはなんだろうか。一般的には「付き合う」ということをひとつの境界にして、他者よりもより近い心的・身体的な距離感になることが許される。そして多くが、相手にも自分基準とした「好き」であることに同意を求めている。一種の契約にも見える。となると、浮気は契約を反故にしたから怒るのだろうか。当然付き合ってなければ怒る理由はない。誓約を結び、お互いに定められた制約があるからこそ、より強い絆が結ばれる。それを望んでいるということなのだろうか。それともそんなことは全く関係なく、子孫を残すための本能的な儀式の一部なのだろうか。
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と、意味のわからない着地点もない思考を垂れ流してきた。いったい何がしたいのか、このことに何の意味があるのか。別に何を明かしたいわけでもない。解き明かしたところでなにも変わらない。でも、いつか誰かの気休めにはなるかもしれない。
こんな無意味なことを考えて無意味な時間を浪費するのは、きっとぼくがただただ考えることが好きなんだろう。ぼくは好きが好きなのかもしれない。好きとはなんだろうね🍻