作家セルゲイ・ドヴラートフの伝記映画
雑貨屋Mitteさんからのお誘いで、6月20日から公開される映画『ドヴラートフ レニングラードの作家たち』のクロスレビューに参加させていただくことになり、一足先に本作を鑑賞しました。一応ロシア語の翻訳者なので、耳でロシア語の台詞を、目で日本語の字幕をたどっていたら、どちらも頭に入ってこないという混乱状態に陥りました(この見方、お勧めしません)。
この作品は、実在のロシア語作家、セルゲイ・ドヴラートフ(1941~1990)の伝記映画で、70年代に彼がレニングラードで過ごした数日間を描いています。主人公は、自分の作品が世に出ることを夢見る若き作家の卵です。しかし、ソ連時代の作家は、作家連盟に入っていさえすれば生活も作品発表の場も保証されましたが、そのためには体制が望むようなものを書く必要がありました。主人公は、何とか自分の作品に日の目を見させようと奔走しますが、権限を持っている人たちは皆、彼に向かって渋い顔をします。作中、主人公が自分のことをフランツ・カフカと名乗るシーンがありますが、カフカの登場人物のような絶望的な堂々巡りを繰り返しながら次第に追い詰められていき……というお話。
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私がドヴラートフについて知ったのは、ペテルブクルクに留学中のことです。ロシア語の先生が次々と繰り出してくる外国人向けの教材にあきあきして、「何か文学的なもので勉強したい」と言ってみたところ、先生の選んでくれたのが彼の短編でした。それは、後に妻になるエレーナとの出会いとその後を描いた私小説風の作品でしたが、あまり深刻めいたところがなく、終始ユーモラスなものでした。ただ、ソ連時代の状況がわからないと冗談の意味がわからない箇所がいくつかあり、先生が詳しく説明してくれたました(懐かしい)。例えば、作家志望の青年が、知り合った女性の前で探偵小説を激賞する一方、タルコフスキーについては上から目線で軽く褒めてみせるという場面があります。私には初めどういうことなのか全くわからなかったのですが、先輩芸術家の業績に対して斜に構えてみせるという青年らしい気取りなんだと先生が解説してくれ、こんなふうに言葉で説明されてはせっかくのウィットも台無しでしょうが、なるほどと思った記憶があります。場所と時代は変っても若者の振る舞いは変りません。「何をスタイリッシュと感じるか」は、時代や個人によっても異なりますが、そこでは、「今のスタンダードからどれくらいはずれるか」が重要なポイントになるようです。少しこじつけめくかもしれませんが、これはドヴラートフの大上段に構えない姿勢自体についても言えそうです。ソルジェニーツィンなど大まじめな反体制作家を先輩として持つ彼にとっては、「軽さ」こそがスタイリッシュであって、「悲劇の亡命作家」というイメージは謹んで遠慮したいものだったのではないでしょうか(彼自身の性質によるのはもちろんでしょうけど)。
とはいえ、多くの日本人はドヴラートフを知らないでしょうし、私にしても、読んだ作品はたったの一作、映画の舞台であるペテルブルク(旧レニングラード)に住んでいたことがあるとはいえ、それも2000年代のことですから、映画に描かれたドヴラートフや70年代がリアルかどうかについては、正直言って全くわかりませんし、作家について偉そうなことを語る資格も実はないのです。もっとも、これを書くに当たってロシア語サイトなどをいろいろ漁りはしたのですが。
そもそも、人が映画を見るときに、―― 芸術を鑑賞するときにと言い換えてもいいかもしれません ―― 期待することは、自分自身について何かを発見することです。たとえ設定がファンタジーやSFだったとしても、あるいは外国が舞台だったとしても、それらは、木の皮のように無感覚になってしまった「日常」というものをはぎ取って、自己のより深いところにある何かを感じ取るための装置として機能しているわけであって、それらの作品が何らかの意味で日常よりも我々に肉薄していなければ、作品は受け手にとって興味のあるものにはなりません。ある時代を生きた人にだけわかる小ネタや、特定の知識を持っている者だけにわかる知的遊戯は、大変楽しいものではあるのですが、それだけでは時代を超えて人々の共感を呼ぶ作品にはなれないだろうと思います。そういった意味では、時間的にも空間的にも隔たったところに生きる我々は、逆説的にこの映画のかっこうの裁定者であるといえるでしょう。予備知識もなく映画の設定の中に飛び込んで、異国情緒に酔いつつ、登場人物たちに共感できるかどうか試してみる、というのも楽しい見方かもしれません。
映画の中で印象に残ったシーンがひとつあります。地下鉄建設作業員で詩人のアントンが、自分の詩をドヴラートフに聞かせる場面です。自信を喪失していた彼が、自分の作品によって鼓舞され、力を得ていくさまが素晴らしく、詩のルーツが魔術であったことを改めて感じさせられました。私はそのシーンで読まれる詩を自分なりに訳してみました。
寒さはまだ歌うかのようで、かすれてはいず、
吹雪はまだ白く能弁だ。
それは広がる、かくも麗しく。
何か秘められたもの、生けるものについて
万象の友愛について
天と地とが語り合うとき。
その打ち解けた会話の中で、お前は、
自らの中に誕生する。
きらびやかな衣装も、虚飾も捨て、
新たな完成に備えるお前は、
暖炉に薪が燃えるのを見る
この静寂の時に。
北国らしいイメージがちりばめられ、何か新たなものの到来を予感するかのような詩です。それはまさに映画の主人公たちが待望したものでもありました。詩歌では音楽的な要素も重要ですが、翻訳でそれを表現することは難しいので、どんな響き方をするか、是非映画館で聞いてみてください。
※蛇足的小ネタ(1)
上の訳で「白く能弁だ」とした箇所は原文だと「белоречива(ベラレチーヴァ)」ですが、このような単語は辞書にはないので、おそらく作者の造語だと思われます。この単語は「白い+弁舌の」という要素からなっています。一方、ロシア語で「雄弁な」を「красноречивый(クラスナレチーヴィー)」といいますが、これは直訳すると「赤い+弁舌の」となります。吹雪の雄弁は赤ではなく白だというわけで、「белоречива(ベラレチーヴァ)」としたのでしょう。日本語でたとえると、弁の立つ女性を「雄弁」ではなく「雌弁」と形容するようなものでしょうか。そうだとするとかなり変な感じがしますね。ロシア語ネイティブの耳にはどんな風に響くのか聞いてみたいところです。
※蛇足的小ネタ(2)
映画でこの詩を読むアントン・クズネツォフという人は何者だろうと思って調べてみましたが、どうやら実在の人物ではないらしく、詩の作者は、クズネツォフ役を演じている俳優のアントン・シャーギンという方でした。つまり、アントン・シャーギン氏は、アントン・クズネツォフが作った詩という設定で自作の詩を読んでいるわけです。ややこしいですね。
【映画公式 サイト】
http://dovlatov.net/