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【翻訳】アンドレーエフ『ヴァーリャ』

ヴァーリャ

レオニート・アンドレーエフ/清野公一 訳

 ヴァーリャは、座って本を読んでいた。その本はとても大きく、ヴァーリャ自身の背丈の半分もあり、ページは黒々とした大きな文字列と挿絵とでいっぱいだった。一番上の行を見ようとすると、ヴァーリャは椅子の上に膝立ちになって、ほとんどテーブルいっぱいに首を伸ばし、さらにそのふっくらした短い指で文字をたどっていかなければならなかった。さもないと、それらの文字は他の似たような文字の中に紛れてしまい、後で見つけるのが大変だったからだ。本の出版者らが考えてもみなかったこのような周辺的な事情のため、本に対する関心は強烈だったにもかかわらず、読書は遅々として捗らなかった。この本は、あるとても強い少年の物語で、その名をバヴァーといい、彼が他の少年たちの足や腕をひっつかむと、それらはちぎれてしまうのだった。それは、恐ろしくもあれば、滑稽でもあり、本の中を旅しているヴァーリャがもらす荒い息づかいには、心地よい恐怖と、この先もっと面白いことが起こるだろうという期待とが聞き取れた。ところが、ヴァーリャの読書に思いがけず邪魔が入った。ママが誰か別の女性を連れて入ってきたのである。
 「あの子よ!」涙で目を赤くしたママが言った。白レースのハンカチを手の中でもみくちゃにしているところをみると、この涙はどうやらつい先刻のものらしい。
 「かわいいヴァーレチカ(訳註:ヴァーリャに対するより親愛の情がこもった呼び方)!」女性はそう叫んだかと思うと、彼の頭を抱き、顔と目とに自分の痩せて硬い唇を強く押しつけながらキスし始めた。彼女の愛撫はママのそれとは違っていた。ママのキスは柔らかくてとろけるようだったが、この女性はまるで吸いつくようだったのである。ヴァーリャは顔をしかめ、このちくちくする愛撫を黙って受けていた。彼は面白い読書を中断されたことで不満だったし、この見知らぬ女性もぜんぜん気に入らなかった。背が高く、骨張った指に指輪の一つもしていない。しかも湿っぽいカビのようなひどい臭いがした。ママはいつも爽やかな香水の匂いがするというのに。ようやく女性はヴァーリャを離すと、彼が唇をぬぐっている間、写真でも撮るかのような敏捷なまなざしで彼を観察していた。すでに鉤鼻になる兆候を示し始めている彼のちっちゃい鼻や、黒い瞳の上の子供らしからぬ濃い眉、いかめしくきまじめな全体の様子が何かを思い出させたらしく、彼女は泣きだした。その泣き方もママとは違っていて、顔は微動だにせぬまま、すごい勢いで涙だけが次から次へと転がり落ちていった。一粒が落ちる間もなく次が追いかけていくという具合である。彼女は、泣き始めたときと同じように唐突に泣きやむと、聞いた。
 「ヴァーレチカ、私のことわからない?」
 「はい」
 「私、ここに来たことがあるのよ。二回も来たの。覚えてる?」
 そりゃあ彼女は来たかもしれないし、それも二回だったかもしれないが、どうしてヴァーリャがそんなことを知っているはずがあるだろう。そもそも、この知らない女の人がうちに来たことがあるかどうかなど、どうだっていいことではないだろうか。彼女がやっていることといえば、ばかげた質問で読書を邪魔することだけだ。
 「ヴァーリャ、私はあなたのママなのよ!」と女性は言った。
 ヴァーリャは驚いて自分のママの方を振り返ったが、すでに彼女は部屋にいなかった。
 「ママって、二人いることもあるの?」と彼は尋ねた。――「おかしなことを言うね!」
 女性は笑いだしたが、ヴァーリャにはこの笑いも気に入らなかった。というのも、どうやらこの女性は笑いたいとは思ってもいないくせに、ごまかそうとしてわざとやっているらしいのだ。しばらくの間、二人は黙っていた。
 「もう、ご本が読めるの? おりこうさんねえ!」
 ヴァーリャは黙っていた。
 「どんなご本を読んでいるの?」
 「バヴァー王子についての本だよ」大きな本に対する敬意を示しつつ、厳かな様子でヴァーリャは告げた。
 「まあ、それはとても面白そうねえ! 私にもお話ししてちょうだい」と、媚びるように女性は微笑んだ。
 この声の中にもまた何か不自然で嘘くさいものがあった。ママの声のように優しく丸みを帯びたものにしようと努めてはいるものの、皮肉なとげとげしさが残っていた。その嘘は女性の動作からもにじみ出ていて、彼女は注意深くじっくりと聞こうとするかのように、椅子の上で身を乗り出し、首を突き出しさえしたのだが、ヴァーリャが渋々話し始めると、すぐに自分の殻に閉じこもり、暗く陰鬱になってしまった。まるで蓋付きカンテラの蓋が急に閉じでもしたかのようだ。ヴァーリャは自分もバヴァーも侮辱された気がしたものの、礼はつくしたかったので、急いで結末を話し、こう付け加えた。
 「終わり」
 「それじゃあ、またね。私のかわいい子」この奇妙な女性はそう言うと、またヴァーリャの顔に唇を押しつけ始めた。――「またすぐ来るわ。嬉しい?」
 「ええ。また来てください」とヴァーリャは礼儀正しく言い、彼女が早く帰ってくれるよう付け加えた。――「とても嬉しいよ」
 訪問客が去り、ヴァーリャがようやく本の中断した言葉を探し出したと思ったら、今度はママが現れて彼を見つめ、こちらも泣きだした。あの女の人が泣いた理由はまだわかる。たぶん、自分があんなに退屈でいやな人間だということが悔しかったのだろう。だけど、何だってママまで泣かなきゃいけないのか。
 「ねえ、聞いてよ」もの思わしげにヴァーリャは言った。――「あの女の人にはうんざりだ! あの人、僕のママだって言うんだ。一人の男の子に二人のママがいることってあるの?」
 「いいえ、坊や、そんなことはありませんよ。でも、あの人が言っていることは本当なの。あの人があなたのママなのよ」
 「それじゃあ、あなたは誰なのさ」
 「私はあなたの叔母さんなの」
 これは青天の霹靂ではあったが、ヴァーリャはこれに対してきわめて無関心だった。叔母さんなら叔母さんで、―― かまわないじゃないか。彼にとって言葉は、大人にとってと同じような意味を持ってはいなかった。しかし、かつてのママはそれを理解せず、どうしてこんなことになったのか、つまり、自分はママであったのに、今は叔母さんになったのかの理由を説明し始めた。むかし、むかし、ヴァーリャがまだとっても小さかったころ……
 「小さいってどれくらい? こんな?」ヴァーリャはテーブルから十八センチくらいのところまで手を持ち上げた。
 「いいえ、もっと小さかったわ」
 「あの子猫みたいに?」ヴァーリャは驚いて嬉しそうに言った。彼の口は半ば開いて、眉は上がった。彼が言っているのは最近プレゼントされた白い子猫のことで、四本の脚がみんなソーサーの中に収まってしまうほど小さいのだった。
 「そうよ」
 ヴァーリャは幸せそうに笑ったが、すぐいつものしかつめらしい様子を取り戻し、若いころの過ちを思い出している大人の寛大さで言った。
 「僕にもおかしなころがあったんだなあ!」
その、彼があの子猫ぐらい小さくておかしかったころ、あの女性が彼を連れてきて、あの子猫のように譲り渡していったのだ、永久に。ところが、彼がこんなに大きく、賢くなった今になって、彼女は彼を自分のもとに引き取りたいというのである。
 「あの人のところに行きたい?」と、かつてのママは尋ねたが、ヴァーリャがきっぱりと厳しくこう言い放つのを聞いて、喜びに顔を赤らめた。
 「いやだ、僕あの人のこと嫌いだよ!」―― そして、ヴァーリャはまた読書に戻った。
 ヴァーリャは、この事件は終わったものとみなしていたが、それは間違いだった。まるで血を全部吸い取られたかのような生気のない顔をし、忽然と現れ、また忽然と消え去ったこの奇妙な女性は、静かな家を揺り動かし、漠然とした不安で満たした。叔母さん=ママは、よく泣いては、ヴァーリャに自分と別れたいかと聞いてばかりいたし、叔父さん=パパは、ぶつぶつとこぼしながら自分の禿げ頭をなで回すので、白髪は突っ立ち、こちらもママが部屋にいないときは、あの女のところに行きたくはないのかとヴァーリャを問いただすのだった。ある日の夜、ヴァーリャがベッドに横になってまだ眠っていないときに、叔父さんと叔母さんがヴァーリャとあの女について話していた。叔父さんが怒ったようなバスで話すので、シャンデリアから吊り下げられたクリスタル製の飾りが人知れず震え、青や赤の光を放ってキラキラしていた。
 「ナスターシヤさん。君の言っていることはおかしい。我々にはあの子を引き渡す権利などはないんだ。あの子自身のためを思えばこそそんな権利はないんだよ。あの御仁が、奴に……ほら、わかるだろう、あのろくでなしに捨てられた後、どんな金で暮らしているのかもわかったもんじゃない。誓って言うが、あの女のところに行ったらあの子はだめになってしまうよ」
 「グリーシャ、あの人はあの子を愛しているのよ」
 「我々はあの子を愛してないとでもいうのかね? ナスターシヤさん、おかしなことを言うものだ。―― それじゃあまるで君自身があの子と手を切りたがっているみたいじゃないか……」
 「あなた、なんてひどいことを言うの!」
 「おいおい、君はそうやってすぐ怒る。かっかしないで冷静に考えてごらん。子供の面倒も見ないカッコウみたいなどこぞの尻軽女が、みさかいなく子供をこしらえて、悪びれもせずにあんたがたのところに送りつけてくるんだ。それがどうだ、今になって、私の子供を返してちょうだい、愛人に捨てられて私寂しいの、演奏会や劇場に行くお金はないから、おもちゃをちょうだいときたもんだ! いや、あなた、そうは問屋が卸しますか! 我々はまだ争うぞ!」
 「グリーシャ、あなたは彼女に対して公平ではないわ。あなただって知っているでしょう。あの人が病身で、どんなに孤独か……」
 「ナスターシヤさん、君って人には聖人だって堪忍袋の緒が切れるよ。いや、まったく! 君は子供のことをお忘れかい? あの子が立派な人間になるかろくでなしになるかなど君にはどうでもいいのかね? 誓って言うが、あの子はろくでなしか悪党か盗人か……そう、ろくでなしにされてしまうよ!」
 「グリーシャ!」
 「お願いだから、私をイライラさせないでくれないか! 一体どこでそんな悪魔みたいな混ぜっ返しの能力を身につけたのかね。『あの人、どーんなに孤独か』だなんて。我々は孤独ではないっていうのかい? ナスターシヤさん、薄情な人だよ、君は。何の間違いで君なんかと結婚してしまったんだろう! 君は血も涙もない処刑人でも夫にすればよかったんだ!」
 その薄情な人は泣きだし、夫は許しを請うた。自分のような手に負えないあほうの言葉など真に受けないでくれと。彼女は次第に落ち着きを取り戻し、こう聞いた。
 「タロンスキーは何て?」
 グリゴーリー氏はまたかっとなった。
 「何だってあいつが賢い人間だなんて決めてかかっているのかね? すべて裁判所の判断次第だとさ……。考えてもみてくれ、すべて裁判所の判断次第だってことくらい、奴がいなけりゃわからないことだろうか。奴にはどうだっていいのさ、さんざん御託を並べても、いざとなったらごまかすんだ。いやはや、もし私の自由になるのなら、あのほらふきどもはみんなまとめて……」
 ここでナスターシヤ夫人が食堂に通じる扉を閉めたので、ヴァーリャには会話の結末が聞き取れなかった。しかし、彼はなお長い間、目を見開いたまま横たわり、自分を引き取ってだめにしようとする女とは一体何なのかを理解しようとしていた。
 あくる日、彼は、叔母さんからママのところに行きたくはないかと聞かれるのを朝のうちから待っていた。ところが、叔母さんは聞いてこず、叔父さんも聞いてこなかった。その代わりに二人ともヴァーリャが重病を患っていて間もなく死ぬとでもいうように彼を見つめ、彼をかわいがり、色鮮やかな挿絵のいっぱい入った大きな本を何冊も持ってきてくれた。あの女性はもうやって来なかったが、ヴァーリャには、彼女が扉のそばで見張っていて、自分が敷居をまたいだとたん引っ捕らえられ、そして、邪悪な怪物たちが身をくねらせ火を吐いている、恐ろしい暗黒のかなたへと連れ去られるだろうという気がしていた。夜、グリゴーリー氏が書斎で仕事をし、ナスターシヤ夫人が編み物をするかペイシェンスの札を並べるかしているときには、ヴァーリャは自分の本を読んで過ごした。本は、文字が多くそして細かくなってきていた。部屋の中はひっそりと静かで、ページをめくる音の他は、ときおり叔父さんの低い咳払いとそろばんをはじく乾いた音が書斎から聞こえてくるばかりだった。青い蓋のついたランプは、ビロード製の派手なテーブルクロスに明るい光を投げていたが、天井の高い部屋の隅々は、密やかで神秘的な闇に満たされていた。そこにはいくつかの大きな花樹があり、奇妙な形の葉をつけ、根が外にはみ出していて、まるで絡み合って戦う蛇のようであり、それらの合間で、何か大きくて黒いものがうごめいているかのような気がした。ヴァーリャは本を読んでいた。恐ろしかったり、美しかったり、悲しげだったりする登場人物たちが彼の大きく見開いた目の前を通り過ぎて行き、哀れみや愛情を呼び起こしたが、何より呼び起こされることが多いのは恐怖だった。ヴァーリャは人魚姫のことが気の毒だった。美しい王子を愛するがゆえ、姉たちのことも、深く静かな海のことも犠牲にしたのに、彼女は口がきけなかったため、王子はその愛を知らずに陽気な姫君と結婚してしまった。祝宴が催され、船では音楽が奏でられた。そして人魚姫が暗い波間に身を投げたとき、窓はあかあかと照らし出されていた。かわいそうな人魚姫、物静かで、悲しげで、優しくて。しかし、ヴァーリャの前により頻繁に姿を現したのは、邪悪で恐ろしい怪物たちであった。暗い深夜、彼らはいずこかへ向かってとげのある翼で飛び、彼らの頭上では大気がひゅうひゅう音を立て、その目は赤熱した石炭のように光っていた。彼らは同様の怪物たちに取り囲まれ、そこで、神秘的で禍々しいことが執り行われた。ナイフのように鋭利な笑い。長く引っ張る哀訴の叫び。コウモリのような曲がりくねった飛翔。たいまつのゆらめく火炎の舌は赤い煙に包まれ、その深紅の光の下で野蛮な踊りが踊られる。人間の血と、黒い顎髭を蓄えた死者たちの白い頭……。これらすべては、人を破滅させようと願うきわめて邪悪で不可思議な力の顕現であり、怒れる神秘な霊である。それらの霊は花樹の合間に身を隠しつつ空間を満たし、何かをささやき交わしながら骨張った指でヴァーリャを指さした。また、暗い部屋の扉の陰から彼をちらちらとのぞいてはくすくす笑い、彼の頭上を無言で漂わんと、彼が眠りに就くのを待っていた。またあるときは、黒々とした窓越しに庭からのぞき込み、風とともに悲痛に泣いた。
 そしてこれら邪悪で恐ろしいものすべては、ヴァーリャを引き取ろうと訪れたあの女性の姿をしていた。多くの人々がグリゴーリー氏の家に来ては去り、ヴァーリャは彼らの顔を覚えていなかったが、その顔は彼の記憶に生き続けていた。それは面長で痩せ、死人のように黄色く、ずるがしこい作り笑いを浮かべ、その笑いによって口の両脇に深いしわが刻まれた。この女がヴァーリャを連れ去るとき、彼は死ぬのだ。
 「ねえ」―― あるときヴァーリャは読書を中断して自分の叔母さんに言った。「ねえ」―― 彼はいつものきまじめで考え深げな調子で、話し相手の目をまっすぐ見つめながら繰り返した。「僕、あなたのことママと呼ぶことにしたよ。あなたはあの人がママだって言ったけど、それはおかしいもん。あなたがママで、あの人は違う」
 「どうして?」ナスターシヤ夫人は、褒められた女の子のようにぱっと顔を染めた。
 しかし、彼女の声の中には喜びだけでなくヴァーリャに対する心配も聞き取れた。彼は様子が変わり、おびえやすくなっていた。以前のように一人で寝るのを怖がり、夜ごとに寝言を言ったり、泣いたりした。
 「どうしても。僕はうまく言えないから、パパに聞いてよ。あの人もパパだ、叔父さんじゃない」少年はきっぱりとそう答えた。
 「いいえ、ヴァーレチカ。あれは本当なのよ。あの人がママなの」
ヴァーリャはしばし考えたのち、グリゴーリー氏の口調で答えた。
 「驚いたなあ、君はどこでそんな混ぜっ返しの能力を身につけたのかね!」
 ナスターシヤ夫人は吹き出したものの、その晩眠りにつく前に長い間夫と話し合った。夫は大太鼓よろしく不明瞭な声でぶつくさ言い、ほらふきどもやカッコウ女をけなし、そののち、妻とともにヴァーリャの様子を見にやって来た。二人は長いこと黙って少年の寝顔に見入っていた。グリゴーリー氏の震える手の中でろうそくの炎がゆらめき、枕の間に安らう、それと変わらないくらい白い子供の顔の上に、おぼろげで不気味な光の戯れが生じた。それはあたかも、眉の下の暗い眼窩から黒い瞳がこちらをまっすぐ見、厳しく答えを要求し、来たるべき苦悩と禍いを告げるかのようであり、唇は奇妙に歪んで、皮肉な薄笑いを浮かべるかのようだった。それはまるで無言で子供の頭上を漂っていた邪悪な霊が、不吉な反映となって子供の顔の上に落ちたかのようだった。
 「ヴァーリャ!」とびっくりしたナスターシヤ夫人はささやいた。
 少年は深いため息をもらしたが、微動だにせず、死の夢に囚われているかのようであった。
 「ヴァーリャ! ヴァーリャ!」夫の太い震える声がナスターシヤ夫人の声に唱和した。
 ヴァーリャは、濃い睫毛に縁取られた目を開き、光に目をしばたたいたあと膝立ちになった。顔色は蒼白で、おびえた様子である。むき出しの痩せた腕を、真珠の首飾りのように、赤くてふくよかなナスターシヤ夫人の首に巻き付け、彼女の胸に顔を埋め、まるで意志に反して開いてしまうことを恐れるかのように固く目をつぶったまま、ささやいた。
 「怖い、ママ、怖いよ! 行かないで!」
 それは不幸な夜だった。ヴァーリャが眠ったと思ったら、今度はグリゴーリー氏に喘息の発作が起こった。彼はゼーゼーとあえぎ、白くて分厚い胸が氷嚢の下で引きつったように上がったり下がったりした。ようやく朝方になって容態は落ち着き、疲れ果てたナスターシヤ夫人は、子供の喪失に夫は耐えきれないだろうという思いを抱きながら眠りに落ちた。
 家族会議が開かれ、ヴァーリャは読書を減らし、もっと他の子供たちと触れ合うべきだということが決定された。そして彼のもとに少年少女たちが連れてこられるようになったが、ヴァーリャは、ぎゃーぎゃーうるさくて行儀の悪い、愚かな子供たちをすぐいやがるようになった。彼らはまるで檻から出た子猿たちのように、花を折り、本を破り、椅子の上を飛び跳ねてはけんかをしたが、ヴァーリャは、真面目で物思いにふけりがちな少年であり、不快な驚きをこめて彼らを見ては、ナスターシヤ夫人のところに行って言うのだった。
 「あの子らにはうんざりだよ! ママのそばに座っているほうがいいや」
夜になると彼はまた本を読んだが、グリゴーリー氏が、魔物たちのせいで子供の正気が乱されるとかなんとかぶつぶつ言いながら、優しく本を取り上げようとすると、彼は黙ったまま、しかし断固たる態度で本を抱きかかえた。にわか仕込みの教育者は、気後れしたように後じさって、腹立たしそうに妻を責めた。
 「これが教育だというんだからね!いや、ナスターシヤさん、私が見るところ、君にできるのはせいぜい子猫でも飼うぐらいで、子育てなど到底無理だろうね。甘やかしすぎたせいで、本も取り上げられん。女先生が聞いて呆れるよ」
 ある朝、ヴァーリャがナスターシヤ夫人と朝食の席についていると、グリゴーリー氏が食堂に駆け込んできた。帽子はうなじの方にずり下がり、顔も汗びっしょりだった。すでに扉のところから嬉しそうにこう叫び始めていた。
 「棄却だ! 裁判所が棄却した!」
 ナスターシヤ夫人の耳のダイヤモンドがきらめき、ナイフが皿に落ちてガチャンと音を立てた。
 「あなた、本当なの?」と彼女は息を弾ませて聞いた。
 グリゴーリー氏は、本当であることを示すために真面目な顔をして見せたが、すぐその意図を忘れてしまい、彼の顔は一面愉快そうに笑う小じわの網目模様に覆われた。しばらくして、こんな大ニュースを伝えるのにこれでは威厳が足りないことにまたはっとし、顔をしかめ、一脚の椅子をテーブルのそばに寄せ、その上に帽子を置き、その場所がすでに誰かに占有されているのを見て取って、別の椅子を取った。椅子に座ると彼はしかつめらしくナスターシヤ夫人を、ついでヴァーリャを見つめ、ヴァーリャに妻の方を目配せし、そのような厳かな前置きを経てからようやくこう告げた。
 「私はいつも言っていなかったかね、タロンスキーは賢いから、負かすことなんてできないって。いや、ナスターシヤさん、それは無理な話だ。やってみるだけ損というものさ」
 「それじゃあ、本当?」
 「疑り深いじゃないか。アキーモヴァの訴えを棄却すると言い渡しがあったんだ。やったな、兄弟」と、彼はヴァーリャに声をかけ、いかめしい公式的な口調で付け加えた。「そして、訴訟費用は原告の負担とする」
 「あの人は、僕を連れて行かないの?」
 「兄弟、ご冗談でしょう! ああ、そうだ、忘れてた。本を持ってきてあげたんだった」
 グリゴーリー氏は玄関に駆けだしていったが、ナスターシヤ夫人の叫び声に引き止められた。ヴァーリャが気を失って、青ざめた顔を椅子の背もたれにがっくりのけぞらせてしまったのだった。
 幸せな時間がやって来た。まるで、この家のどこかにいた重病人が回復し、全員が楽に息をつけるようになったかのようだった。ヴァーリャは魔物たちとの関わりをやめ、彼のもとに子猿たちがやって来たとき、彼らの中で彼が最も独創性を発揮した。そればかりか、彼は、ごっこ遊びにもいつもの真面目さと几帳面さで臨んだため、インディアンごっこをしていたときなどは、ほとんど素っ裸になって足の先から頭のてっぺんまで絵の具を塗りたくることが必須と考えたほどだった。遊びに現実的な性格が備わったのを見て取ったグリゴーリー氏は、自分も一役買えそうだと考えた。彼は、熊としては平凡な能力を発揮するにとどまったが、インド象としては大きな、そして正当というべき成功を収めた。そして、ヴァーリャが、カーリー女神の真の息子らしく、厳粛かつ寡黙な様子で父の肩に乗り、小槌でその桃色の禿げ頭をコツコツと叩いたとき、彼は、まさに人々および動物たちの上に君臨する東方の貴公子そのものであった。
 タロンスキーは、グリゴーリー氏に向かって、控訴院が裁判所の判決に同意しない可能性もあることを遠回しに指摘しようとしてみたが、こちらはといえば、法律が同一である以上、三人の裁判官が下した判決に、同じような三人の裁判官が同意しないこともあるなどということが理解できなかった。弁護士が自説に固執したとき、グリゴーリー氏は機嫌を損じ始め、タロンスキー自身を反駁不可能な論拠として持ち出した。
 「だって、控訴院にもあなたが出るんでしょう? それじゃ、議論の余地などありませんよ ―― わかりませんね。ナスターシヤさん、君も言ってやってくれたまえ」
 タロンスキーは微笑み、ナスターシヤ夫人は、彼が必要以上に心配しすぎると軽くたしなめた。訴訟費用を負担させられたあの女性もときおり話題に上ったが、そのたび彼女には「気の毒な」という枕詞が付けられた。この女性は、ヴァーリャを自分のもとに引き取るという力を剥奪されて以来、彼の中では、かつてもやのように彼女を包み、痩せた顔の輪郭を歪ませていた不思議な恐怖の後光を失い、ヴァーリャは他の人たちについて考えるのと同じように彼女のことを考えられるようになった。彼は、たびたび彼女がふしあわせであると繰り返されるのを聞き、それがなぜなのか理解できなかったが、それでも、血をすべて吸い取られたかのようなあの蒼白な顔は、より単純で、自然で、親しみの持てるものになった。「気の毒な人」―― 彼女はそう呼ばれていた ――は、ヴァーリャがこれまで本で読んだ気の毒な女性たちを思い起こさせることで、彼の気を引き始め、彼は哀れみと内気な優しさを抱くようになった。彼には、彼女がどこかの暗い部屋にひとりぼっちで座り、おびえながら、あのときのように泣き続けているに違いないという気がした。あんなにぞんざいにバヴァー王子の話をしたのは不当だった。

 ……三人の裁判官は、同じような三人の裁判官が下した判決に同意しないこともあるということが判明した。控訴院は、管区裁判所の判決を取り消し、子供を血縁の母に引き渡すべしと判決したのである。元老院(訳註:革命前のロシアで最高裁判所を兼ねた)は上告の申立てを却下した。
 この女性がヴァーリャを引き取りに訪れたとき、グリゴーリー氏は家にいなかった。彼はタロンスキーの家で彼の寝室に臥せっており、彼の桃色の禿が白い枕の海からのぞいているばかりだった。ナスターシヤ夫人は自室から出てこず、女中がそこからすでに旅装を整えたヴァーリャを連れてきた。彼は毛皮のコートを着、胴の長いオーバーシューズを履いて、足を動かすのが大儀そうだった。子羊の毛皮帽子の下からは、まっすぐできまじめなまなざしの青白い顔がのぞいていた。ヴァーリャは、かわいそうな人魚姫についての本を小脇に抱えていた。
 背の高い骨張った女性は、自分のくたびれたラシャのコートに彼の顔を押しつけ、むせび泣いた。
 「ヴァーレチカ、大きくなって! あなたとわからなかったくらいよ」と、彼女は冗談を言おうとした。だが、ヴァーリャは黙ってずり落ちた帽子を直し、普段の習慣に反して、たった今から彼の母となった人物の目ではなく、口元を見た。口は大きかったが、歯は小粒できれいだった。両脇の二本のしわは、ヴァーリャが以前見たその場所にあったが、よりいっそう深くなっていた。
 「あなた私のこと怒ってない?」とママは尋ねたが、ヴァーリャはそれに答えず、言った。
 「さあ、行こう」
 「ヴァーレチカ!」ナスターシヤ夫人の部屋から悲痛な叫び声が聞こえてきた。彼女は涙に腫れた目をしてドアの敷居のところに現れ、両手を打ち鳴らしたかと思うと、少年のもとに駆け寄り、跪いて彼の肩に顔を埋めたまま動かなくなった。彼女の耳元のダイヤモンドだけが震え、色調を変えながら輝いていた。
 「ヴァーリャ、行きましょう」彼の手を取りながら、背の高い女性が不機嫌そうに言った。――「私たちはこんな人たちのところにいるべきではありません。あなたの母親にこんな苦しみ……こんな苦しみを味わわせた人たちのところに!」
 彼女の乾いた声の中には憎しみが響き、彼女は今にも跪いている女を蹴りつけそうだった。
 「この、薄情者! 最後に残った子供まで取り上げてさぞ嬉しかっただろう!……」彼女は意地悪なささやき声でそう言い、ぐいとヴァーリャの腕を引いた。――「行きましょう。私を捨てたあなたのお父さんみたいになってはだめ」
 「彼のことを大事に扱って!」とナスターシヤ夫人は言った。
 辻馬車の橇は、路上のくぼみに柔らかくぶつかりながら、静かな家から音もなくヴァーリャを連れ去った。家とともに、彼の奇妙な花樹、不思議なお話の世界、海のように果てしなく深くそして暗い窓、木々の枝がそのガラスを優しくひっかいていたあの窓からも。ほどなく家は、文字のように互いに似通っている他の家々の中に没し、ヴァーリャにとっては永久に消えてなくなった。それらの家々が彼には川を流れているかのように見え、まるで一本の糸に通されたビーズ玉のようにお互いにくっつき合った街灯の作り出す輝く線が、その川岸をなしているように思えた。街灯が近づいてくると、ビーズ玉は大きな暗い間隔を形成しながらバラバラになり、後ろではまた同じような輝く線に融合した。そしてそのとき、ヴァーリャは自分たちが動かず同じ場所にとどまっていると思い、彼にとってはすべてがお話に変わっていった。彼自身も、骨張った手で彼を抱き寄せている背の高い女性も、周りのあらゆるものも。
 本を持つ彼の手は凍えていたが、代わりに持ってくれるよう母に頼むのはいやだった。
 ヴァーリャが連れてこられた小さな部屋は、汚くて暑かった。大きなベッドの反対側の隅に、ヴァーリャがもう長いこと使っていないような小さなベッドが天蓋の下に置かれていた。
 「寒かったでしょう! 待ってね、すぐお茶にしましょう。ほら、手もこんなに赤くなって! さてと、あなたはママと一緒になれたのよ。嬉しい?」と、母が聞いた。生涯打擲のもとで笑うことを強いられ続けてきた人の、不自然でいやな感じのする笑みをまた浮かべながら。
 ヴァーリャは、自分の率直さに驚きつつも、思い切り悪く答えた。
 「いいえ」
 「いいえ? そうだ、私あなたにおもちゃを買っておいたのよ。ほら、窓のところにあるから見てごらん」
 ヴァーリャは窓のそばに行って、おもちゃを調べだした。それは、まっすぐで太い脚をしたみすぼらしい厚紙製の馬がいくつかと、赤い円錐形の帽子をかぶり、愚かしい薄笑いを浮かべた鼻の長い人形と、片足を上げ、そのポーズのまま永久に凍りついている薄い錫製の兵隊たちだった。ヴァーリャはもう長いこと人形遊びをしていなかったし、それらが気に入りもしなかったが、礼を失しないよう、そのようなそぶりを母には見せなかった。
 「うん、いいおもちゃだね」
 しかし、彼女は、ヴァーリャが窓の方に投げた視線に気づき、例の媚びるような不快な笑みを浮かべて言った。
 「私、あなたの好きなものを知らなかったの。それにずいぶん前に買ったものだから」
 ヴァーリャは何と答えてよいのかわからず黙っていた。
 「だって、ヴァーレチカ、私ひとりぼっちなのよ。世界でたったひとり。だから誰にも相談できなかったの。私、あなたが気に入ると思ったの」
 ヴァーリャは黙っていた。突然、女性の顔が伸びたかと思うと、涙がすごい勢いで次から次へとこぼれ始め、そして彼女は、まるで足下の地面がなくなったとでもいうようにベッドに倒れこみ、彼女の体の下でベッドが悲しそうに軋んだ。服の下からは足が突きだし、茶色っぽく変色したゴムと、長いつまみ革のついた大きな靴を履いているのが見えた。女性は、一方の手で胸を、もう一方の手でこめかみを押え、生気のないぼんやりした視線でどこか壁の向こうを見ながらつぶやいた。
 「気に入ってもらえなかったわ!…… 気に入ってもらえなかったわ!……」
 ヴァーリャは意を決してベッドに歩み寄ると、大きくて骨張った母の頭に赤い小さな手をのせ、どんな話をするときにも変わらなかったあのきまじめで考え深げな調子で言った。
 「ママ、泣かないでよ! 僕、あなたのこと大好きになるから。人形遊びはしたくないけど、あなたのことは大好きになるよ。もしよかったら、かわいそうな人魚姫のお話を読んであげようか?……」

1899年9月14日

底本:Андреев Л. Н. Собрание сочинений в 6 т. Т. 1. М.: Художественная Литература, 1990


解説はこちらをどうぞ。

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