表現の形、方向性のこと
そしてまた揺れている。きゅっきゅ8企画、演劇に関するものは昨年8月の企画以降、20周年までお休みと言っておきながら。
もはや枠にはまらず、収まらないのである、何をもって「演劇」とするかの自分の中の定義は。歯を磨く、靴を履く、お気に入りの服をまとう…
「生きる」を取り巻くあらゆることが、それを観る人がいれば演劇であると思っている。人前での自分は少なからず自分を演じていて。そもそも声を出すこと自体に少なからず臆病なので、歌を歌うみたいな心持ちで会話の始まりを発している。
きゅっきゅ8企画は劇団ではないので、毎回、その時ご一緒したい人に声を掛ける。それと前後して場所を探し、公演日を決める。もちろん断られることもある。これをやりたい!からメンバーを集めていくこともあるけれど、ここ最近は、この人と!からが多い気がする。
内なる気持ちを何らかの形で心の外に出したくて、自分でそれを見ることで、手放したくて書いていた頃の詩は、自由で鋭かった。それが、誰かに聴いてもらうこと、観てもらうことも視野に入れた途端に鈍くなり、不自由になった。気持ちは出すが、音の響きや伝わり方を気にするように、つまり、観られることが前提で形にとらわれることで、出したかった始まりの形を変えるという事も発生するようになった。
日常の延長線上の非日常は、日常が不自由な私にとってはむしろ自由なはずであったのに。それが表現の形を意識したばかりに不自由なものになってしまう危機感を覚えた。
身体や心から生み出される表現たちは、それまでの人生(もしくは前世の記憶もあるのかもしれない)で、見聞き、体験した記憶や知識から成っていくものであり、だからこそ具体性や共感を生むものでもあるのだが。
話が全くまとまらないが、
せっかく創作の中に身を置いているのに、きちんと創作しようとするばかりに、創作でなくなるような、そんな逆転現象が起きている気がする。
名案を閃いたのに、いやいや、きちんと考えてないから駄目だと思い直して、結局つまらないものになってしまうような、そんな感じ。
誰に決められたわけでも、強制されているわけでもないのに、そうしなければならないという、どこからともなく感じる圧力。
そんなことを日々受けつつ、本当は、必ず明朝に目覚められるという確証もない夜を終えてゆく。限りない創作の可能性に満ちた明日に向かって。
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