スマートフォンは身体機能の拡張であり、これによって人はインターネットを通して時間も場所も問わず、手の届かないものを目に入れることができるようになった。 しかし、ふと周りを見渡すと、ぞっとする。 電車での移動中は一人残らずスマホを見ている。 音楽も本も映画も、ほとんど全てスマホ一つで完結できるので、それ自体は特別おかしなことだとは思わない。が、死んだ目でSNSばかり見ているのが大多数だ。自分が乗る電車に固有の事例とは思えない。 大勢の意識が、遠くの世界に行ってしまった。私
個性と才能を混同して考えていることが多いのではないかと、ふと考えてしまうことがある。 十人十色という言葉があるように、人は皆違った個性を持ち合わせていることは確かに分かるが、同時にそれが才能と同じ意味で使われている場面を見かけると、果たしてそれは正しいのだろうかと疑問に思う。 人は皆、「個性」と名がつく空の容器のようなものを持ち合わせて生まれてくると思う。それは大きさも色も形も異なる容器で、経験や知識が詰め込まれていくなかでその人が作りあげられていく。 ここで重要なのは
好きなことを好きなだけ打ち込んで輝いていたであろう過去に逃げ込み、時にありもしない記憶を呼び起こしては、まるで「自分は孤独ではない」と言い聞かせるように思い出に縋る。人間は記憶を美化する傾向にあると聞くが、最初からそれが美しさを持ち合わせていたのか、自信を持って明言できない自分に嫌気が差す。 どれだけ自分が好きだと思うことでも、それを自信を持って好きだと言うことは思いのほか難しく、純粋に好きなだけではいられないだろうという理性が眼前に現れる。 それでもその現実を超えようと