海とクラゲと叶人と秋臣
夕食のテーブルでLINEの着信音が鳴った。
秋臣は車エビの天ぷらをだし汁につけたままスマホの画面に見入った。
「お父さん、どうしたの?」
だし汁を吸ってくにゃりとなったエビをちらりと見て叶人が訊いた。
「え? ああ……明日会社の後輩が遊びに来たいって言ってるんだけど」
秋臣は頭の中で断る理由を探していた。
「後輩って、犬養さん?」
寿美子が弾んだ声で訊いた。
「うん。そう」
「大学の後輩で、とってもいい子だって言ってたわよね。土曜日だから泊まってもらえばいいじゃない。楽しみだわ」
久しぶりの来客を手放しで喜んでいる母に、断るとは言い出せなくなってしまった。
「その人幾つ?」
叶人は秋臣を見ずに訊き、かぼちゃの天ぷらをサクリと音立てて噛んだ。
「うん。二十五。君の……」
危うく一つ下だと言いそうになってひやりとした。
「智夏とは年が離れてるけど、気さくだからきっと仲良くなれるよ」
「よかったわね智夏君。ぜひ仲良くしてもらったらいいわ」
寿美子が叶人に微笑みかけた。
「お父さんが、部下の中でも一番可愛がってる人だもの。性格が良くて仕事もできるんですって」
叶人は唇をちょっと突き出して肩をすくめた。その冷笑的な表情に、秋臣は漠然とした不安を感じた。
昼を少し過ぎた時、車が門前に止まった。インターホンが鳴らされる前に外に出て門扉を開けた秋臣はその大荷物に驚いた。
「すごい荷物だね」
「先輩、おはようございます! お世話になります」
犬養の日焼けした顔に白い歯がこぼれた。
玄関には寿美子と叶人が出迎えていた。
「まあ、遠いところをよくきてくださいましたね。息子がお世話になっております」
寿美子が深々と頭を下げた。
「とんでもないです! お世話になってるのは僕の方です!」
三和土(たたき)に紙袋とボストンバッグを放り投げるようにして犬養は体を真半分に折った。
「母さんも犬養も挨拶はそれくらいにして。犬養、昼飯まだだろう? 一緒に食べよう」
秋臣に背中を押された犬養は「え! いいんですか!? 嬉しいなあ」と無邪気な声を上げた。叶人は、と見るとうつむいたまま寿美子の後ろに隠れるように立っている。
ダイニングルームに案内された犬養は床に正座し、寿美子の方に向いて手をついた。
「犬養日向と申します。先輩には本当にお世話になっております」
「あらあら、そんな。どうかお手をお上げになって」
寿美子は床に膝をついて犬養の腕に手を添えた。
「先輩は僕の憧れの上司なのでお母上にお会いできてほんっとに嬉しいです! あ、これは母からです」
犬養はデパートの紙袋を寿美子の前に置いた。
「まあどうしましょう! お母様にくれぐれもお礼をお伝えしてくださいね」
二人のやりとりをぼんやりと見ている叶人の瞳には生気がなく、どこかふてくされたような顔つきだった。秋臣はその不機嫌の理由を目まぐるしく頭の中で考えていた。看護師にさえ会わせないように気遣っているのに、後輩を家に呼ぶことの矛盾に腹を立てているのだろうか。それとも叶人をまだ紹介していないことに拗ねているのだろうか。
「犬養、息子の智夏だ。高校生なんだけど、夏休みの間うちにいることになって」
「わっ、先輩の息子さんですか! めっちゃイケメンっすね。よろしく!高校どこ?」
智夏の目が泳いで、秋臣に助けを求めた。
「息子は今アメリカに住んでるんだよ」
「あ、そうなんだ。俺も高校の時、ボストンに短期留学したことあるんだよ。どこの高校?」
その言葉をさえぎるように、秋臣はダイニングの椅子を音高く引いた。
「ほら、座って座って。これ全部息子が作ったんだよ。料理が趣味なんだ」
そしてまだ手をつけていない自分の野菜サラダにフォークを添えて「食べて食べて」とせかした。
「智夏、オムレツ作ってあげて」
「え? あ、はい」
叶人は冷蔵庫に走って卵を取り出し、あっという間に綺麗なオムレツを作った。
「わ、うまそう。いただきまーす!」
口に入れた犬養は目を丸くして「う〜ん!」とうなった。
「すごいな! さすが先輩のDNAを受け継いでるだけあって、何をやっても一流って感じですね。なんだか悔しいなあ」
叶人は曖昧な笑みを浮かべて、ちらりと秋臣に視線を送った。しかし秋臣はその無言の言葉を受け止めずに目をそらした。叶人に対してだけでなく、母にも犬養にも、それぞれに違う気まずさと罪悪感を感じていたのだ。
昼食もそこそこに秋臣と犬養、叶人の三人は車で近くの海に出かけた。
入道雲が浮かぶ空、白い波を乗せたコバルトブルーの海面が日の光に反射して煌めいている。
秋臣は波打ち際に立って叶人と犬養の姿を見ていた。二人とも泳ぎが達者なようで、競うように沖の方に泳いで行く。
「おーい! あんまり遠くに行くなよー」
両手をメガフォンにして叫部と、叶人は手を振っただけで戻ってこようとはしなかったが、犬養は岸に向かって綺麗な抜き手抜き手を切り始めた。
打ち寄せる波が足元をくすぐったかと思うと、勢いよく引いて行く。秋臣を支えていた足場が波にさらわれてもろく崩れ、ふらりと体が傾いた。
その時、なぜか漠然とした不安が全身を駆けめぐった。真夏の刺すような日差しの中で、心はしんしんと冷えていった。
「センパーイ! クラゲにやられましたー!」
犬養が波打ち際に倒れ込んだ。
「ここ、やられましたー」
片方の太ももに赤いミミズ腫れのようなものができている。
「触ったらダメだ」
秋臣は犬養を制して、患部に何度も海水をかけた。
「大丈夫とは思うが、念のため医者に診てもらおう」
波打ち際から少し離れた場所に置いてあったスマホで家に電話を入れた。ちょうど寿美子の体調チェックに医師がやってくる時刻だ。
異変を察知した叶人がいつの間にか海から上がっていた。
「どうしたの? もしかしてクラゲ?」
「うん、今年は早いなあ。とにかくすぐ帰ろう。母さんのかかりつけの医者がうちに来るから、ついでに診てもらえることになった」
秋臣は砂地に片膝をついた。
「ほら、おんぶしてやる」
犬養はなんの躊躇もなくその両肩に腕をかけた。
「先輩、痛いっすー」
その甘えた声に、叶人のこめかみがピクリと動き青い血管が浮き出た。
「智夏、服とか携帯、持って来てくれ」
言われるままに服をかき集めた叶人は、少し後ろをノロノロと歩きながら時折足元を蹴って砂を撒き散らした。背中に砂を浴びて振り返った秋臣の瞳に映ったのは「智夏」ではなく唇を噛んでいる「凪叶人」だった。