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私の坂口安吾

 坂口安吾『堕落論』を読んだ。友人に薦められてのことである。私はそれまで坂口安吾の著作を一冊も読んだことがなかった。『堕落論』は、その名が示すように、どこか退廃的な、破滅的な、暗い論理が書かれているのだろうと思って読んだ。

 いやはや、驚きである。確かに堕落論の骨子は「人は皆、堕落する」であり「むしろ堕落するべきだ」というひと言に尽きるが、このエッセイ集(ちなみに私は角川文庫版を読んだ)を全て読んだ後に心に残るのは、これほど人間らしく、また人間を愛した文士もいないだろうということである。

 安吾は弱い人間に見える。いや、等身大の人間というべきか。虚栄も虚飾もなく、ただ真っ直ぐに生き、それ故に見栄も張るし、意地も張るのである。

 私には安吾の「堕落せよ」というメッセージが「君は無理をしていないか?」と肩をポンと叩くような感覚に錯覚する。その証拠に、安吾は特に太宰に就いて書き残した「不良少年とキリスト」にて、自殺をくだらないものだと批判している。

 これは人間というものは、虚飾にまみれ、自分自身に嘘をつき、挙句に自殺をするぐらいであれば、いっそ堕落してでも生きるほうが美しいだろう、という解釈も出来るのではないか。私は少なくともそう捉えたし、安吾の力強い「生きよ」という言葉に胸を打たれた。

 安吾は「堕落せよ」と説いてはいるが、それはあくまでも人間を愛するが故ではないか。太宰の自殺に不良少年のフツカヨイ的自虐作用などと大仰な名前を付けて、非難めいたことも言っているのも、やはり太宰を愛していたが故ではないかと思う。

 第二次世界大戦後の青年たちが安吾の『堕落論』を支持したのは、その表面的な批判精神のようなものしか見ていなかったからで、私には想像することしか出来ないが、『堕落論』に影響を受けて人間を辞めるような生き方をしてしまう者もいたのではないか。それは、あまりにも軽率な捉え方だ。堕落は進んでするものではない。あくまでも生きた結果が、堕落に行き着くのだ。

 生きているだけ十分だろう。私は、安吾の『堕落論』は今の時代にこそ読まれるべき書物ではないかと思う。青年にとって全ての通るべき道に堕落はある。

 安吾が人間を愛したように、私もまた人間を愛そう。そして生きよう。安吾の心と通じ合えるかどうかは分からないが、少なくとも、私は安吾のことを好きになったし、生きる希望も勇気ももらった。

 堕落を恐れないでみてはどうだろうか?

 人間は生きているだけ、マシなのだから。

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京和みかん
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