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自己愛の高さは自己肯定感の高さと反比例する

「自己肯定感高いよね」と言われた

自己肯定感が高い…?
よくよく考えるとそれはどういうことなのだろうか。
そう言ってくれた友人が言うにはこうだ。
「あなたは大抵のことはありのままの自分でいいと思えるじゃない?」

…言われてみるとそうなのかもしれない。

何かができなかったとしてもわりと簡単に「まぁいいか」と思える。失敗しても「今日失敗したなら次は大丈夫でしょ」と思えるし、不運なことがあっても「そういう日もあるよねー」と流せる。

あまり物事を深く考えていないのかもしれないが…
いずれにしても自分を責めることはあまりない気がする。世の中ほとんどのことは最終的にはなんとかなると思っているし、自分ならなんとかできるとも思っているところがある。

しかしそれと同時に思ったのだ。
だけど別に自分のことを優秀な人間だとは思っていないし、自分のことを優先したいとは思っていない。

「自己愛」ってなんだろう

さて、こう考えると、「自分のことを大切にしている人」と「自己肯定感が高い人」はイコールではないのではないかと思える。

《愛の反対は無関心だ》という言葉があるが、まさに自己愛の強い人というのは自分への関心度が異様に高いとも言えるのではないだろうか。

わたしなんてだめな人間なんだ
わたしなんて価値がないんだ

一見自己肯定感の低さから見られるこのセリフは、「私なんて」という自分へのフォーカスでもあると言える。自分自身に焦点があり、自分の心に対しての関心があるから出てくる言葉だろう。

もし趣味の時間を楽しもうと思っているときに、人に何かを頼まれたら私は間違いなく趣味の時間を後回しにするが、
それは自分を喜ばせることよりも、他人が必要としているものを供給したいと思うからである。というよりは、後者の方が自分にとって心が喜ぶメリットであると感じるというのが近いのかもしれない。それもまた自己愛と言われたらそうなのかもしれない。

このように私は何かを選択する時、自分にとっての心地よいことというよりは、他者の気持ちや意思を尊重する傾向にあると思う。もしくは、常識や社会を優先することもあるだろう。いずれにしても自分の心や希望への優先順位はかなり後ろである。

自己肯定感と自己愛のバランス

他人と共生することが強いられる社会生活においては自己愛の優先はあまり得策ではないが、自己肯定感においては有していることが、少なくとも私にとってはかなり心の余裕をもたらしているように思う。
しかし自己愛もまた、個人の生活における充足感を維持するものなのだろう。自己愛の成長のためにできることを考えてみたい。

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