【無料公開】「子どもが教育を選ぶ時代へ」(集英社新書)の「第一章」冒頭を公開します。
こんにちは。
今週発売の「子どもが教育を選ぶ時代へ」(集英社新書)。
今日は「はじめに」に続いて、第一章の1部を公開します。
すでに一部の書店には出回っているようです。
(昨日の記事で明日発売と書いたのですが、正確には17日でした。失礼しました。)
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第1章 日本の教育は今のままで大丈夫なのか
「なぜ」と考えさせない日本の教育
近年、小学校の厳しい指導が報道されています。
「漢字は、とめ、はね、はらいができないとダメ」
「給食では私語は厳禁」
「休み時間は外で遊ばないといけない」
2021年4月、「西日本新聞」には「とめ、はねで1年生に0点 先生、厳しすぎませんか?」という記事が掲載されていました。
習字のような「とめ、はね、はらい」ができていないと、漢字ドリルは全てやり直し。テストは0点―。小学1年の担任のこうした指導に対し、保護者から「厳しすぎる」という悩みが届いた。
記事は、保護者や教育現場からさまざまな声を紹介したあとこう続きます。
だが、文部科学省教育課程課の見解は異なる。「国語ではなく、社会や理科など他教科で書いた字は『とめ、はね、はらい』ができていないからといって、減点はしないという柔軟な評価を意味する」と説明する。
学習指導要領には「漢字の指導においては、学年別漢字配当表に示す漢字の字体を標準とする」とあり、漢字テストや書写では配当表通りの「とめ、はね、はらい」が求められるという。ただ、実際にどこまで減点するかどうかは「各校の判断」と付け加えた。
日本の公立小学校に入ったとき、私の長男もたくさんの疑問を持っていました。
「習っていないことを質問してはいけないのはなぜ」
「同じ漢字を何度も書かないといけないのはなぜ」
「『計算カード』を毎日やらないといけないのはなぜ」
「自由時間に外で遊ばないといけないのはなぜ」
私は、学校が「正解はこれだから、覚えなさい」と言うのは、子どもたちに「なぜ」と考えさせないためかなと思いました。実際、保育園児の頃から「なぜ」「どうして」と質問ばかりしていた長男には、日本の学校はずいぶん窮屈なところだったようです。
そこで試しに、マレーシアのインターナショナル・スクール(インター)に入れてみると、ドリルや計算の宿題が大幅に減り、質問は歓迎されます。
同時に「表現させる」「考えさせる」問題が増えていきました。授業では「この話の続きを以下の単語を使って考えて書きなさい」とか、「アパルトヘイトはなぜ終わったのか、あなたの考えを書きなさい」「キュビズムの手法を使って絵を描きなさい」という課題が出たりしました。ことあるごとに「自分で考えなさい」「自分で選びなさい」と促されます。なかにはさらに「考えさせる」ことに重点をおいて、教科書を使わず討論をメインに授業する学校もあります。
また小学校低学年からITを利用するのは当たり前です。インターネットやパソコンの仕組みを詳しく教え、プログラミングをしたり、パワーポイントでプレゼンテーション資料を作ったり、音声ファイルを作ってくる宿題が出るのです。
一方、同じマレーシアでも公立校は、教科書も分厚く、日本と近い「詰め込み式」的な暗記教育をしているように見えました。複数語の学習が必須で、暗記量もかなり多いです。
さらに、「伝統的な暗記教育」と「先進的な教育」の折衷式もあります。長男が初期に通った二つの学校は折衷式でした。
このように、同じ国の教育でもいくつかの異なった潮流があるのだ─と私は気づきました。日本では、特に小学生のうちは、私立学校を含めほぼ同じ教育を受けます。つまり、一般的な家庭では小学校の教育プログラムを「選ぶ」ことが難しかったのです。
私はマレーシアで、何らかの理由で日本の学校をやめ、現地の学校に通う子を見てきました。
その多くがインターに入ります。授業料は割高ですが、日本の私立と同程度の学費のところもあります。
日本で発達障害や学習障害と診断された子どもが、先進的なインターで徐々に意欲を取り戻し、成績が上がったり、表彰されたりするケースを何度か見てきました。そこまでいかなくとも、日本で学校に適応できず、不登校になっていた子、いじめに遭っていた子、うつになったり、暴力的になっていた子たちが、楽しそうに学校に通う姿を何度も目にしました。
もちろん、そうではない例もあります。マレーシアに来た全員がハッピーになるわけではありません。日本の学校に向いている子もいるのです。
かと思うと、「学校に通わない子どもたち」も存在します。私の長男は中学のとき「学校よりも、オンライン教材の『カーンアカデミー』の方が効率的に学べる」と言って学校をやめ、プログラミング教室に通い、自学しました。こうした「学校に行かない」子どもたちもホームスクーラーとしてたくさん存在しており、政府にも認められています。
このようにマレーシアにはいろいろな教育手法があるので、興味や関心・年齢に応じて教育を選べるのです。
教育に選択肢がある国
マレーシアの教育を見ていると、三つの傾向に気づきます。
一つが前述のように、教育の種類が多いこと。
二つ目は転校が容易なことです。私立学校は、空きさえあれば学年途中から入学できる学校がほとんどです。日本のような「一斉入学」方式ではないため、転校生が毎学期来る学校もありますし、「スクールフェア」が年中行われていて、転校先を探せます。
三つ目は、学校以外の場所─つまり、自分で学ぶ流れが確立していることです。英語ができて好奇心がある人ならば、オンライン教材の拡充により、学びの質が大きく変わります。
違いは、実は子どもの教育ばかりではありません。大人にも、アプリやオンライン教育で自ら学んでいる人が大勢います。
余談ですが、日本の大人は学ばないといわれます。リクルートワークス研究所の約5万人を対象にしたアンケート調査「Works Index 2020」では、日本人には「自律的な学びが定着していない」と結論づけられています。新卒一括雇用で「会社に入ってしまった後は学ばない」人、「もう歳だから学ばない」「忙し過ぎる」と諦めてしまっている人が多いことも、大きく影響しているのかもしれません。
しかし、日本に育ち、国内の情報だけを見ていると、海外と日本の教育の違いにはなかなか気づくことができません。この本では、世界の教育との比較によって、我が子の教育をどうすべきかを考えていきます。
「知識を授ける」から「知識を疑う」へ
知識を教え、暗記させるばかりで、自分で考えさせない─実際に、よく聞く日本教育への批判です。しかし、実はもともと世界の教育のほとんどが、日本と同じように「知識を授ける型」でした。
このタイプの教育が始まったのは18世紀です。「プロイセンモデル」といわれ、産業革命の時代に工場で働く人を作るための教育だったといわれています。教育NPOカーンアカデミーの創設者として知られるサルマン・カーンさんは、プロイセンモデルの始まりをこう説明します。
ひげから帽子、行進のしかたまで、何もかもが堅苦しいあのプロイセンで、いまの基本的な教室モデルは発明されたのです。(中略)ねらいは、自分の頭で考えられる人間を育てることではなく、忠実で従順な市民を次々と生み出すことにありました。両親や教師、教会、そして王の権威に従うことがいかに大切かを知りなさい、と。 (『世界はひとつの教室』)
「授業時間」が決まっていたり、「教科」が細かく分かれていたりするのも、実は当時の社会の要請に合わせた結果でした。工業化時代には、それが理にかなっていたのです。カーンさんはこう書いています。
学習内容全般が「教科」に細分化されたのは偶然ではありません。教科は丸暗記できますが、もっと大きな概念を習得するには自由で束縛されない思考が求められます。 (同前)
「授業時間」という神聖なる枠組みは、「絶え間ない中断により学習の自発性をそぐ」ために導入されました。生徒たちに所定のカリキュラム以上のことを考えさせたり、異端の危険思想を話しあう時間を持たせたりしては断じてならない。チャイムが鳴ったら有無を言わさず会話や思考を中断させ、予定された次の回へ進ませる。 (同前)
しかし知識のあり方は、工業の時代とは大きく変わってしまいました。ネット時代には、物知りの価値が落ちていきます。検索すれば、知識は手に入るからです。そこで、かつては世界中で受け入れられてきた「プロイセン型」教育に疑問を持つ人が現れます。
『サピエンス全史』を著したユダヤ人歴史家のユヴァル・ノア・ハラリさんは、以下のように述べています。
現在、情報を詰め込むことに重点を置いている学校が多過ぎる。過去にはそれは道理に適っていた。なぜなら、情報は乏しかったし、既存の情報の緩慢でか細い流れさえ、検閲によって繰り返し堰き止められたからだ。(中略)
それに対して二一世紀の今、私たちは厖大な量の情報にさらされ、検閲官たちでさえそれを遮断しようとはしない。(中略)
そのような世界では、教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない。生徒はすでに、とんでもないほどの情報を持っているからだ。人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。 (『21 Lessons』)
学校が教えるべき「四つのC」
では、これからの学校は知識ではなく、何を教えるべきなのでしょうか。再びユヴァル・ノア・ハラリさんの書籍から。
それでは、私たちは何を教えるべきなのか? 多くの教育の専門家は、学校は方針を転換し、「四つのC」、すなわち「criticalthinking(批判的思考)」「communication(コミュニケーション)」「collaboration(協働)」「creativity(創造性)」を教えるべきだと主張している。より一般的に言うと、学校は専門的な技能に重点を置かず、汎用性のある生活技能を重視するべきだという。なかでも最も重要なのは、変化に対処し、新しいことを学び、馴染みのない状況下でも心の安定を保つ能力になるだろう。 (同前)
そして、この「四つのC」はマレーシアで見てきた多くの先進的な教育と合致します。
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引用はここまでです。
その後、4つのCをどう教えているかの具体的な紹介事例に続きます。
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