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「ズルイ」という気持ちをどうコントロールするか

このツイートが、結構読まれました。


ズルイと言う感情はなぜ起きるか?

なんで自分と他人をいちいち比較するのか。
おそらく、皆平等じゃなくていけないとどこかで思ってるからなんじゃないかな。

今日はそんな仮説を紹介しましょう。

日本の学校で教わる価値観のうち、令和の時代に私たちがアップデートしたいこと。それは、世の中は全然平等じゃないってことだと思います。

みんな違ってみんないい、実際にそう思ってる人はまだまだ少ないです。

日本の学校って、相手と自分が同じという前提で、あれこれ進んでいきます。「なんでみんなできてるのに、あなただけできないの?」などと責められたりします。
「誰々さんは、どう思ったのでしょうか? 」などと気持ちを想像させて断定します。
「みんな外で遊んでるのだから、あなたも外に出なさい」などと指導されます。

全員同じである、と言う前提の下の協力教育されています。
日本の小学生たちからやたら聞く言葉が、ずるいです。

ずるいって辞書で引くと、

自分の利益のために,ごまかしてうまく立ち回る性質である。狡猾(こうかつ)だ。こすい。 「 - ・い男だから油断はできない」
(三省堂 大辞林より)

とあるのですが、なぜかこれを「羨ましい」の意味で使っている子が多いです。言葉の使い方が間違ってる。で、この感覚のまま、大人になってしまう。

しまいには、自分と他人の区別が曖昧になってくる。
この悩み相談なんて、まさに自分と他人の区別が曖昧になって苦しんでる例です。

回答者が言う通りで、「羨ましいと思うなら自分も行動すればいい、そうでないのなら、視界に入れるな」のですが、現実には、この女子高生のように、ただその気持ちに苦しんで悶々としている人が多いようです。これは不幸ですよね。

誰かと比較することで起きる不幸

マレーシアに来て私が学んだのは、人は比べようがないということです。上記の回答者の言っている通りで、「必要以上に他人を見ません」。だから、びっくりするほど他民族のことについて知らない人がいます。

子供の最初の学校のクラスメートには、華人がいてマレー人がいて、インド人がいて、中東の人がいて、アフリカ人もいました。宗教も常識も何もかも違う。同じ宗教の中では同調圧力もあるようですが、それを全体が覆っていないんですね。ここまでくると、自分と他人を比べて考えられないのです。インターだと年齢もまちまちで、1年生にも5歳の子、7歳の子と両方います。

それぞれのお正月には、お互いの宗教のお祝いに顔を出したりしますが、表面上の「常識」を身につけてさらっとしたものです。必要以上に関心を持ちません。違う宗教の人同士で議論なんか始めたら、たちまち戦争が起きますからね。

実際には、日本でも同じです。人の能力は全く平等じゃありませんし、やたら重視される容姿だって差があります。病気の人も、障害がある人も、家庭環境が良くない人もいます。背の高さだって体質だって、一人ひとり違います。

生まれた時代背景によっても、人は全く平等じゃないです。バブル期に就職した人と、氷河期時代に就職した人では、生涯年収だって相当違うでしょう。

なのですが、日本の学校はほぼ一種類しかないですし、ホームスクールも宗教学校もインターも公式には認められてないですから、同じ年齢なら同じことができて当然という前提で教育されます。「みんな一緒」の幻想が強く、他人と自分が曖昧になっていく。

そして生まれる「ずるい」をこじらせると、冒頭のようにお互いに何も言えなくなります。
日本の閉塞感ってこれが大きな原因じゃないのかな。

理解しないままに置いておく勇気

なんども書いてますが、マレーシア人の多くは、相手の気持ちを勝手に決めつけません。どうせ理解できないことを知ってます。ある意味達観している人が多いです。

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