「考えること」を許されない学校で苦しんでいるあなたへ
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Rita-naさんがこんなnoteを書いていました。
長男「トンガリ息子」さんは、学校のルールや議論の前提に疑問を持っています。
「エネルギーを使わない生活」の議論で、「エネルギー」の定義自体に疑問を持って意見したところ、学校の反応はこうでした。
▼学校では、彼の主張は、
---担任の先生は「難しいことを言ってるねー。」
と、コメントをくれ、
---その様子を見た他の先生には
「今度から屁理屈を言っちゃダメだよ」と授業終了後に 廊下に呼び出され指導を受けたようです。
意見言っただけで、屁理屈と言われるのか。
「考えること」を許されない学校ってつらいです。
今日はトンガリ息子さん、そして今の学校システムで「考えない大人たち」に苦しんでいる方に向けて書きます。
「考えること」を忘れてしまった人たちがいる
もちろん、実社会では「相手の言ってる意味をある程度想像で補って、テキトーに会話を進めていく能力」も必要です。
日本人の大人ってこの能力が発達した人が多いです。
「考えるな」「覚えろ」で受験を乗り切ってきた人も多いんです(私もその一人)。
それに、みんな忙しいです。
毎回疑っていたら時間がなくなってしまいます。
けれど、けれど「考える」を許された学校くらい、言葉の定義をして、自由に議論したいですよね。
学校が、
「考える子どもを育てる」
って明言してるなら、なおさらです。
逆に、「学校」で言えなかったら、どこで議論するの??
考える練習するの??
学ぶことって結局、反抗することなんです。
「考えられない」大人が圧倒的に多い世の中で「考えたい」子どもはどうするか
ただ、これを先生に訴えるのも酷なんです。
大人が「考える」訓練受けてないから。
すぐに「正解」を探す訓練ばかりしてきたから。
忙しくてカリキュラムをこなすのにいっぱいだから。
私だって同じで「考えられない人」なんです。
てか、昔のスタイルの学校でお利口に学び続けると、多分ですが、そうなっちゃうんです。みんな犠牲者なんです。自分で何考えてるのかわからないんです。
これが「自分で考えたことがない人たち」の限界かもしれない、と思うんですよね。
それまで疑ったことがない人に疑えと言っても無理です。
それに、「考えないで行動する人」の存在も、また大事なんです。
「考えるのが面倒臭い」って人の権利も、また尊重すべきだと私は思います。
私に「考える」を教えてくれたのは長男です。
多分ですが、子どもの方が、大人より「考える」が得意です。
Rita-naさんも、息子さんの意見から、「実は意見を言うのは子どもの権利なんだ」と気づいたそうです。
日本の緊急で改善すべき課題の2つ目に、『児童の意見の尊重』が入っていますね。学校の先生の多忙さを想像すると、個人の意見が尊重されないのは仕方ない。。と、大人は思ってしまいがちですが、それは正しくないのかもしれません。
議論できる先生も世界には存在します
私の長男も同じように学校に疑問を持って、マレーシアに来ました。その後もずっと疑問を持ち続け、よく反抗しました。
マレーシアにだっていろんな先生がいる。しかし、多くの場合「自分で考える」ことが奨励され、大体どこにも、わかってくれる先生がいました(考えるのが苦手な先生もいました)。
学校を9つも変わって、一番気に入ったのは無認可のプログラミング・スクールの先生たちでした。ここではアフリカ系と中東系の先生たちが「霊魂は存在するか」を真剣に議論していました。
長男はもう夢中になって、毎晩遅くまで先生たちと数学や科学について話していました。
一方で、「学校で無駄では?」と疑って、一人で勉強してた時期もあります。
「自分の存在」すら疑う授業とは?
今は彼も普通の高校に戻りました。
IBDPというカリキュラムの「TOK(知の理論)」って授業では、何から何まで疑う練習をします。そしてクラスメートたちが「疑う」に慣れており、どんな議論でも紛糾しません。
1番初めの授業で先生が聞いたのは、
「自分って本当に存在するのか。どこまでが自分なのか。考えてきなさい」
です。
「自分の存在」から疑うんです。
昨日の自分と今日の自分は正確には違う。
人間の細胞は何日かで全部入れ替わる。
正確に言うと10年前の自分と今の自分は全く無質的には違う。
そしたら自分はどこまで自分なのか。
例えばじゃぁ髪の毛は自分なのか。
落ちた髪の毛も自分なのか。
思考はどこでしているのか。
哲学者たちがずいぶん昔からこの問題を議論してます。
デカルトって人が「考えている自分の存在は疑えないから、自分は存在する」って言ったんですね。
ところが、学校の先生は授業で、「デカルトはこう言ってるけど、脳をハックされてる可能性があるよね?」って動画を見せたそう。
デカルトの「自分の存在の証明」を疑ってるんです。
「疑う」は学問のスタートです
「疑う」ってスタートなんです。
大昔のギリシャにプロタゴラスって人がいて、「絶対的な真理はない」って言ったんですね。
同じ「赤いボール」をみても、人によって見え方が違う。
視力も違えば、色の感じ方も違う。
動物には赤外線を見える動物にはまた違って見える。
ある場所では「正しいこと」が別の国では「正しくないこと」になります。
彼は「だから神様がいるかどうかもわからない」て言っちゃったもんだから、アテネから追放されて本も全部焼かれてしまいました。
哲学の世界でもなんでも疑う懐疑主義、攻撃されやすいんです。
なぜなら全部疑うと面倒だから。
議論が進まないから。
トンガリ息子さんと一緒です。
でも私がマレーシアに来て思うことは、このプロタゴラスと同じなんですね。
ここでは、いろんな宗教の人がいて、それぞれ人の正義が違います。日本ではあり得なかったから、最初はものすごく混乱して、「こんなの正義じゃない!」って怒ってました。
けど9年住んでようやくわかったことは、「自分のみていた世界の狭さ」でした。
私も、子どもと一緒にこの「知識とは何か」を考えるための「知の理論」を学び始めました。英語圏だと無料で誰でも一流大学の授業を受けられるんです。
外国語もお勧めです
それから、日本語の限界もあると思う。上下関係を前提にした言葉で、対等で自由な議論をするのは、なかなか難しいです。
この「知の理論」の教科書には、「語学によって学べる範囲が限定される」と書いてありました。
思考は言葉によって限定されてしまうのです。
「学びたい」と思ったら、一度日本語世界を出てみることを、私はお勧めしたいです。別にマレーシアに来なくてもいいんです。
最初の一歩は、例えばオンラインで英語を習ったらいいと思います。なれたら、英語でのエッセイを書いてみましょう。これ全部日本でできて、尚且つ、思考が日本語の外に出ます。
今や世界中の人がネットで英語で議論している時代です。
エッセイって日本語と英語じゃ全然意味が違い、考える練習になるので、「考えるのが好きな人」にとってはすごく面白いと思う。書いたら多分驚くはず。楽しいことがいっぱいあると思います。
それではまた。
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