あの水平に引かれた一線を越えて
シンクロナイズドスイミングは、
この世にもう存在しないらしい。
などと言うと、ついに気が狂ったかと正気を疑われそうだが、しかしこれは紛うことなき事実である。
2018年4月1日、当時の世界水泳連盟がその名称を変更したのである。四月馬鹿のような本当の話。僕は水泳に熱心な男ではないため、その実情の多くは知らないけど、競技の発展に従って人や曲との同調を意味するSynchronizedがもはや不適当と見なされたのだ。
今は、アーティスティックスイミングと呼ばれている。
そこはかとなく格好が付かない名称だ。
水との同調。
しかし思えば、これは競技に限った話ではなくて、人間と水の親和性の高さは誰もが知るところだろう。
たとえば人間の七割は水分で出来ている。
つまり四捨五入すれば人間は水であり、実際問題、水なくして人間は三日と生きていくことが出来ない。
では文化としてはどうだろう。
水を用いた熟語や慣用句のなんと多いことか。信仰や伝承において水が重要な役割を果たすことも珍しくなく、僕の愛する貴船神社では恋占う水占いなんて物もある。
とどのつまり人間の歴史は、
水の歴史とも言えるのである。
──なんて、戯言もほどほどに。
ただそれでも。
人間が水に頼りきりな生命であることは間違いなくて、
考える葦の若輩者としてはついつい考えてしまう。
浸ってしまうのだ。
人にとって水は相性が良いのかもしれない。
水にとって人は相性が良いと言いきれないけど。
夏が弾ける音がした。
視線の先では水着姿の老若男女がプールに着水し、25m先にある偽りの水平線の果てへ向かって泳いでいく。
じゃぶじゃぶと。
水泳選手さながらの綺麗な泳法でこそないが、大抵の人間にとって水泳とは昔取った杵柄であり、途中で立ったり止まったりは個人差であるものの25mを泳ぐのは難しくはない。しかし客観的にその横断の連続を目にすると、なんだかそれはひどく無為な流れ作業めいている。
同じ場所を、行ったり来たり。
スタートとゴールが厳密に限定された空間の中、
水に踊らされる人間の姿には悲哀を感じざるを得ない。
「あぁー、うるさいうるさい。本当にうるさい。澄ました顔で人の三倍うるさい。いいから素直に泳げよ」
僕の思索に水を差すようにして、身体のあちこちから水粒を滴らせながら彼女ちゃんが歩み寄ってきた。
水も滴る良い女──という言葉があるが、なにぶんセックスアピールに乏しい性格と体型と言動を伴うのが彼女なので、まるでずぶ濡れの大型犬を見ている気分だ。
「休憩中。知っての通り、人並み以上に体力があるような人間じゃないからね。冷えた身体で頭も冷やしてる」
我ながら感情的な人間なのが僕なので、この手の思索の癖は今に始めたことではない。バランスを取るべく、時にシニシズムに浸るのも心の健康に必要なことなのだ。
「なにがシニシズムよ。水に沈めよ。聞き馴染みのない横文字を使ってもアンタは別に賢くはならないからね。なんなら元より賢くもないからね」
虹色の光沢を放つゴーグルを取り外して、目先のプールの水温なんかより遥かに冷たい視線で僕を見下す彼女ちゃん。彼女の背丈は180センチ弱あるので、ベンチに座ったまま、こうして対面するとなかなかに迫力がある。
真夏の入道雲のようだ。
「ん」
短く言葉を切って、彼女は僕の目の前にその右脚をおもむろに差し出してきた。ほぼ45度の角度である。
身体が柔らかいらしく羨ましい。
「ん!」
……僕は、差し出された右脚を渋々と揉みながら、得意気な顔で片足立ちをする彼女を少し眺めることにした。
「よきにはからえ」
見れば見るほど馬鹿みたいな格好だ。
というか馬鹿だ。ここに馬鹿がいる。
滑って、転んで、頭ぶつけて死ねばいいのに。
「随分な言い草じゃん。アンタが揉みを怠って、この私が筋肉痛になったらどうしてくれんの」
彼女に筋肉痛とかあるのだろうか。
成長痛や生理痛の類がないことを、この七年の付き合いで把握こそしているが、彼女に関しては僕をして分からないことがまだまだ多い。
正体不明にして目的不明の非現実存在。
その割に生態は俗物そのものなので始末に負えない。
たとえば僕が休日に黄鱗きいろ先生の同人小説『人でなしたちは推理をしない』を読んでいる傍ら、部屋のど真ん中で、読み始めから読み終わりまでの数時間に渡ってディルドを用いた自慰行為に浸るような女なのである。
そういうのが茶飯事なのだ。
それを見かねた僕が、今回は水泳という名目でこうして外へ連れ出したというわけである。同じ”運動”とはいえ、こちらの方が健康的なのは言うまでもないだろう。
「はいそれ嘘」
右脚の揉みに満足したのか、脚を下げた後、今度は左脚を差し出しながら彼女は僕にそんな指摘をした。
一抹の悪意を感じる、そんな口調。
「今日ここに居るのはただの憂さ晴らしでしょ。ストレス解消でしょ。なんだっけ。アンタが好きな女の子。あのもう付き合ってる彼氏がいる女の子。あの アンタじゃない男と付き合ってる女の子」
念の押し方に一抹どころじゃない悪意がある。
「三日前だから……、ああ、19日か。その子を上野公園の夏祭りに誘ったんでしょ。一緒に行きませんかとかなんとか。まあ普通に忙しいし、空く日があるなら彼氏と会っておきたいし、とかで断られてたけど。それで滅茶苦茶落ち込んだから、今日ここに来たんじゃないの?」
さてね、身に覚えのない話だ。
僕が近所にある この市営プールに訪れたのは、年中欲求不満の彼女の為であり、またブルーアーカイブの夏イベントの概要を目にしてというのもある。性根がミーハーなので、そうした催しに影響されやすい人間なのだ。
「目が泳いでる。そうやってさ、物分りの良い大人の振りするのやめたら? 変なこと言って煙に巻くのもやめなよ。それ悪い癖よ。無理だって。嫉妬深いアンタにそういう立ち回り。どっかで絶対に無理が来るって」
余計なお世話だった。
二重の意味で好きでやってることなのだから、
放っておいて欲しい。
あの子。あの人。彼女について──ふと思い出したので、眼前の彼女を無視して、少し考えてみる。
たゆんだ調子を孕んだ切れ長の瞳とそれに並走する切り揃えられた眉は雅な印象を抱かせ、どことなく佳人の風格を有している。しかし上品の一辺倒であるかと言われるとそうでもない。通俗的な人間としての愛嬌を覚える表情と感情の移り変わりは見ている者を虜にし、こちらの心も満たしてくれる。
まるで空の水差しに潤い豊かな水を注ぐように。
ただしく美人とは、
ああいう女性のことを言うのだろう。
綺麗、という言葉は彼女のような人のために使いたい。
当の本人は、自分がたいへん美人で魅力的な人間であることに些か無自覚なように思えるので、僕が冗談で褒めてるみたいになりがちなことには少し気落ちするが。
あーあー、今なんで、僕はこんな所にいるんだろうか。
「未練たらたらじゃん。ま、いいけど。惚れた腫れたで、泣いたり吐いたり苦しんだり四苦八苦を晒してるアンタの愚行を見るのは笑えるし」
僕の幻覚の癖に散々な物言いだ。
頼むからもっと聞き心地の良いことを言ってほしい。
両脚は満足したのか。
今度は左手を差し出してきたが、不機嫌になること言われてまで、それに付き合うほど僕は甲斐甲斐しくない。
「───ちっ!!」
わざわざ僕に聞かせるような、
そんなわざとらしい舌打ち。
態度が悪すぎる。
彼女は、
僕の良心のメタファーを名乗る僕の幻覚である。
僕が失態を演じると、滑稽な喜劇を目にしたかのように指を指して大笑いする。そんな存在だ。ちなみに僕の奇特な恋愛事情を相談して、返ってきた答えは『毎日一通 古風にラブレターでもしたためて送れば?』というものだった。御百度参りかよ。ちっとも参考にならねぇ。
「そろそろ休憩もいいでしょ。せっかくだし勝負でもする? 25m、背泳ぎで泳ぎ切った方が昼食を奢るとかね」
どちらが勝とうと懐よりお金を払うのは僕であることを除けば、まあ、ありがちな なくはない提案である。
しかしながら、その提案には一つの問題があった。
「いや、背泳ぎとか僕 出来ないんだけど」
「………………はぁ?」
名前や渾名を付けられるのは水を掛けられるようで嫌だと言っているが、不便なので、彼女(かのめ)ちゃんと僕は勝手に呼んでいる。
そんな彼女は──彼女ちゃんは、僕を小馬鹿にする機会を、決して見逃さない そんな嫌な女でもある。
「何が出来ないって?」
彼女は水を得た魚のように、
邪悪な笑みを浮かべて嗤った。
その昔、僕はスイミングスクールに通っていた。
それは将来の夢として水泳選手を志していたとかではなく、単純に、その頃に仲良くしていた友人が通っていたので親にお願いして通わせてもらうことにしたのだ。
とはいえ その友人は僕を残して三ヶ月ほどで辞めたので、当初の目的が形骸化した習い事を、かれこれ僕はそれから二年ほど続けることになったのだった。
そのスクールに在籍している二年間の中で、
当時の僕は二つほど事件を起こしたのだが、今回話すのはその一方の背泳ぎ絶対拒否戦線の話である。もう一方──最悪チェンジマン事件とかもあるのだが、そちらは流石に公序良俗に大きく反するし、昔の事とはいえ水に纏わる話で炎上とか御免被るので永久にお蔵入りだ。
さて。そのスイミングスクールには、
泳法に関する課題を通した進級のシステムがあった。
最初は”水に顔を付けられたらOK”から始まり、それぞれの泳ぎ方で15m25m50m75m100mなんて感じに続く。
別に何級になろうが、そこに特典らしい特典があるわけではないが所詮は子供の通うスイミングスクールだ。
級が高いと、それだけのことでひと角の人にはなれた。
僕もその”ひと角の人”にはなりたかったし、それ以前に自分の力を振り絞って泳ぐのはそれなりに好きだった。
より正確にいえば、泳ぎ切る感覚が大好きだった。
あの水平に引かれた一線を越えると、ほんの一瞬だけど、自分が普通の人間から逸脱できた気がしたから。
考えてみると、この普通に対する幼き拒絶心が、将来的に没個性で普遍的な自分という存在に伴う劣等感に繋がった気がしなくもないがそれは今はいい。
そんな感じで。
クロールもバタフライも平泳ぎもお手の物だった。
しかし背泳ぎだけは、一向に出来なかった。
進級制度の都合上。
たとえばクロールで100mを泳げても、背泳ぎで25mを泳げなければ前者の成果は反映されなかった。その融通の悪さに嫌気が差していたのはあるが、決定的だったのは、友人未満の同世代の少年の一言だ。
「偉そうなこと言っても、京樹くんはオレより級が低いじゃん。クロールが上手に泳げるからなんなの。背泳ぎなんてスイミングの基本だよ」
僕は激怒した。
どうして僕がこのガキにそんな舐めたことを言われなくてはならないのか。許せない。許せない。許せない。絶対に許せない。この僕に生まれたわけでもない他人如きが偉そうな口を利きやがって。ぶっ殺してやる。
いや、ちがう。
元を辿れば背泳ぎのせいだ。
背泳ぎが悪い。何もかも背泳ぎが悪いのだ。
とかなんとか──我ながら感情的な人間なのが僕なので、そんな風に感情が沸騰すると行動は迅速だった。
要するに背泳ぎなんて出来なくても、自分が今より上の級に足り得るとスクールの教師を説得すればいい話だ。
時期は夏休み。
僕のその年の自由研究の命題は決まった。
そういう経緯で。
僕は、背泳ぎが如何に無意味な泳法であるかを証明するべく、そのひと夏を投じることを決意したのである。
「いやさ。どんなに言葉を尽くそうが、これって”僕は今も昔も背泳ぎが出来ません”ってだけの話でしょ? そんなにマジな顔で捲し立てられても私としては困るんだけど。ダサすぎ、の一言で切って捨てちゃダメ?」
東京都世田谷区千歳温水プール。
その館内にあるレストランクポールで、僕らは早めの昼食を取っていた。
腕時計で確認すると、もう少しで11時30分といったところ。……なんだか見ない内に、文字盤の亀裂が増えた気がする。しっかり動いてるから、まあ、問題ないのか?
「ダメ。考えてもみてくれよ。背泳ぎって、あの格好で泳ぐ意味がどこにあるんだ。まず前が見えないし、水の中も確認出来ないし、無防備にもほどがある。どう考えても数合わせで作られただけの泳法だろ」
「あぁ、まあ、そうかもねえ」
そんな生返事をしながら、フォークを弄んで目の前のスパゲッティを口に運ぶ彼女ちゃん。ツルツル、なんてオノマトペが炸裂しそうな無駄に上品な口運びである。
最初こそ僕を馬鹿にする気満々で話を聞き始めたのだが、彼女からすれば想像以上にしょうもない話だったらしく、早くこの話終わんねーかな……という態度を隠す気もなく空腹を満たしているようだった。
無責任な女だ。
「そんなに嫌なら割り切れば良かったんじゃないの? 何級とか気にせずさ。見て見ぬ振り、聞いて聞かぬ振り、知らぬ存ぜぬ貫いて無視すればいーんじゃないの」
そんな風に、問題から背を向けるのは好きじゃない。
経験則として大抵の場合 ろくなことにならないからだ。そもそも問題に直面した時は、正面から正々堂々と誇りを持って人は戦うべきだと、僕は前提としてそう思う。
「なら泳げるように努力をしろよ……」
スクールの教師に、かつて似たようなことを言われた。
水に身体を預けましょう。
他の泳ぎ方と同じで、背泳ぎはただ背中を向けるだけ。
そうは言うけれど、僕は今も昔も臆病で小心者な性格なので、それが正気を疑うアドバイスであることに違いはなかった。背中を預けるだけ難易度が高すぎる。
「じゃあいいよもう。泳げなくてもいいんじゃない? 大事なのはそこまで泳ごうとしたという意思。これよ。途中で溺れても、その意思は胸に残ったりするでしょ。よかったね〜〜。アンタの努力は無駄じゃなかったよ〜〜」
「それっぽい言葉で締めようとするな。誤魔化されないぞ。”溺れる”はただの”溺れる”だ。それとも君は溺死を立派だとでも言うのか」
失敗なんてのはしないに限る。
失敗から学ぶなんてのは消去法の、第二候補の理屈だ。
僕はいつだって成功から学びたい。
「どう、でも、いい……!!」
ハワイアンブルーの髪を揺らしながら、ひどく鬱陶しそうに彼女は吐き捨てた。本日の髪型。ふんわりとしたハーフアップの対極をいくような刺々しい態度である。
「それで? 結局その説得とやらはどうなったの。私さっさとこの話を済ませて、もうひと泳ぎ行きたいんだけど」
水掛け論の気配を察したのか。
投げやりな調子で、僕に語りを促す彼女ちゃんだった。
必要なのは周到な準備と健気な忍耐である。
そして計画を成功させるべく、いちばん大事なのは ”今は何もしていない”と相手にそう信じ込ませることだ。
この場合、その相手は背泳ぎと担当教師になるので、
僕は自由研究の完成までスイミングスクールを休むことにした。仮病を使うのにも限界があったので、近所の大木に腕を何度か叩き付けて、生傷を作ったりもした。
その間。
学校の図書館で水泳に纏わる本を借りたり、同級生や学校の教師から背泳ぎへの不満をインタビュー。それらを参考に背泳ぎは必要か否かの集計を反映させた円グラフを作ったり、作文能力を活かして800字ほどの”背泳ぎが無駄な理由”の感想文なんかも書いたりした。
それでたしか半月くらいか。
僕は自由研究の成果を持って、
進級試験の課目から背泳ぎを外してくれと教師を相手にした説得にいよいよ臨んだのだった。
普通に親を呼ばれた。
まるで僕が冷静沈着な態度で教師に説明したような書き方をしたけど、それは事実に大きく反している。当時の僕は相応に子供で、懸命に制作した自由研究を鼻で笑うような大人の態度に腹を立てて、それはそれは感情的な態度で自分の主張を譲らなかった。
期せずして向こう見ずな問題児に成ってしまった。
そこで大したことを言われたような気がするし、言われなかったような気もする。端的にいえば覚えていない。
しかし、大人に怒られたのはたしかだった。
僕はそれが原因で盛大に不貞腐れて、スイミングスクールを辞める運びになった。敗けて、逃げることにした。
つまり、まあ、なんというか。
水が合わなかったという話である。
紫色のゴーグルを付けて、大きく息を吸い、
僕は25m先の水平線に向かって水泳を開始した。
泳法はクロールだ。
「なるほどね。オーケーオーケー。何が言いたいのか──いや、何を言いたくないのかが分かっちゃった。つまりアンタは本質的に恐れてるのよ」
山なし落ちなし意味なしの僕の話を聞き終えると、
スパゲッティソースの油分が付いた口元を拭いながら、彼女ちゃんはそんなことを言った。
「水や人に身体を委ねること。……ちょっと違うか。言ってしまえば、自分を委ねることに対して病的な拒否感がある。他人と世界が怖くて仕方ないのね。まあなんとなくだけどさ。いつもと比べて語り方が淡白で歯切れが悪かったから引っ掛かってたけど……なるほど、そういうこと──触れられたくないことがあるからなのね。でも私にとっちゃ、そんなの”知ったこっちゃねー”から」
他人を恐れている。
心の底では、他人を信用できていない。
世界を恐れている。
心の底では、世界を信頼できていない。
受け入れてもらえるのか、そんなの分からないから。
分からないから怖い、怖いから委ねたくない。
自分を委ねたくない。
たったそれだけの、単純な理屈。
「背泳ぎとの向き合い方ひとつ取り上げても、アンタのそんな矮小な人間性が透けて見える。透明な水の向こう側を見るように。ああ。まったく。愚かね。そんなこと考えても意味なんかないのに──アンタのしてることに意味なんかないのに。また、同じことを繰り返してる」
息継ぎに失敗したつもりはなかったが、
噎せ込んで、その場で足を着いてしまう。
およそ15m前後の中腹。
昔は75mくらいなら余裕ですいすいと泳げたことを考えると、成人後の体力の低下に落ち込むものがあるが、いつまでもその場に立っているわけにはいかなかった。
停滞は許されない。
お昼時ということもあり、同じレーンで背後から泳いでくる人はいなかったけど、泳ぎ始めたからには向こう岸まで最後まで泳ぎ終えなければならないのだ。
再び息を吸って、クロールによる横断を再開する。
昔は泳ぐのが好きだった。
水の中を無心で泳いでいると、自分の中にある醜悪な感情や惨めな気持ちをどこかへ預けることが出来るから。何も考えずに済んだ。漠然とだけど、そんな気がした。
でも今はそうじゃない。
泳いでいる間も無心ではいられない。考えてしまう。嫌なこと、忘れたいこと、置き去りにしたいこと。その全てが不自由な重みとして、僕の身体と心を鈍化させる。
昔から、
どこか遠くに行きたかった。
同じ場所を、行ったり来たり。
スタートとゴールが限定された空間の中、きっと僕は意味の無いことを繰り返している。何度も。何度も。
それが嫌で、逸脱したかった。
あの水平に引かれた一線を越えて。
「ん」
25mを泳ぎ終えて、偽りの水平線から見上げると入道雲が左手を差し出すようにして立っていた。
プールから出るべく、この手に捕まれということらしい。どういう魂胆だ。まあ気まぐれ以上の意味はないのだろう。手を貸してくれるというなら借りるだけだ。
「────あっ、ごめん。力入んないや」
そんな、珍しく悔悟な調子の顔付きと呟きと共に手が離された。
その様子を見るに意地悪のつもりはなかったのだろう。彼女が手を離したのは、力を緩めたのには、およそ確固たる原因がある。
たとえばそれは筋肉痛とか。
背後への自由落下の気配を感じて、ゴーグルを付けてこそいたが、反射的に僕は目を瞑る。だって身体を委ねるのはとてもとても怖いことだから。それが意図しないタイミングとなると尚更だった。程なくして、
夏が弾ける音がした。
ほらね、
背を向けるとろくなことにならないんだ。
2024/7/25 都部京樹
執筆BGM
『HURTS』Homecomings
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