都部京樹

スプライトが好き。

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  • 王道を逆立ちで歩く

    主に自分の身の回りで起きたことを、この場所にエッセイとして記してます。全13回です。

最近の記事

ハンプティ・ダンプティを戻せない

僕は君に送る最後の手紙の中に、 はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。 尤も僕の自殺する動機は特に君に伝へずとも善い。 レニエは彼の短篇の中に或自殺者を描いてゐる。 この短篇の主人公は何の為に自殺するかを彼自身も知つてゐない。 君は新聞の三面記事などに生活難とか、病苦とか、或は又精神的苦痛とか、いろいろの自殺の動機を発見するであらう。 しかし僕の経験によれば、それは動機の全部ではない。のみならず大抵は動機に至る道程を示してゐるだけである。 自殺者は大抵レニエの描い

    • 冴えない彼女の愛しかた

      自分語りが得意だ。 東西東西。 自分の過去を、自分の感情を、自分の動機を、自分の発端を、自分の現状を──語り尽くす。 現在進行形で私小説を書いている身としては、そうした断言は飛び越えるべき合格点をいたずらに高めるだけかもしれないが、卑屈を演じるよりは良い。 もっとも”自分語り”という言葉をWeblio辞書で引けば、それは悪印象の代名詞であり、まず間違いなく人として褒められた行いではないのだと言う。 しかしながら語れる過去があることは良いことで、語るべき自分を知っている

      • 明日もね こんな雨なら

        物語とは祈りである。 祈りとは君そのものである。 だから物語とは、つまり君である。 果たしたい夢だとか叶えたい恋だとか。 大抵の場合、物語とは個人の感性や願望から産み落とされていて、だからこそ良くも悪くも物語の姿形がその人の真正なる姿形をも指し示すと言ってもいいだろう。 雨に心を殺された少女と少女に生かされた青年の歌劇。 涙を知らない機械人形と世界を知らない女の存在証明。 自殺する為に髪切る女と生かす為に髪結う男の会話集。 言葉を失った青年と嘘しか言えなくなった女の旅行譚

        • あんたの名前はナルキッソス

          Q.自分のことを愛しているだろうか? A.人は誰しも自分のことを愛している。 そんな断言をうっかりしてしまうと、 ”そんなことはない” だとか ”わたしは自分が嫌い”なんて否定を口にし、僕を批難する人も相応にいるだろう。 そうして彼等は自分の一挙一動に他人以上に注目をくれて、その度に些細な失点を見つけては、幸福の流出を招く吐息行為に甘んじる。 それを含めた上で、人は誰しも自分のことを愛しているなどと言えるのか──僕は言えると思う。 何故ならそうした自罰的な自意識もまた

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        • 王道を逆立ちで歩く
          10本

        記事

          嵐抗/申し子の完膚なき敗北

          名言は好きだろうか? 名言。 それはひと角の人が口にした言葉である。 聞き心地がよくて、とても勇気づけられ、経験に即しており、だからこそ説得力があって、それは時に誰かの人生の座右の銘にすらなり得る。 そんな言葉だ。 僕もまた文学家や哲学者の名言を見聞きするのは好ましく感じていて。それは”完成された”誰かの言葉に寄り掛かりたいと思う日も時にあるからだし、なによりも言葉の力を心から信じているからだ。 だから今日は僕の好きな名言を、 いくつか紹介しよう。 ”これは一人の

          嵐抗/申し子の完膚なき敗北

          明日は、君がいない

          悼むという行為は美しいと思う。 生まれながら課せられる死という名の絶対法則。 それを拒絶せず、さりとて肯定もせず。 死を死として等身大に受け入れながらも、 そこにはもういない人に思いを馳せる行為。 不謹慎な物言いになるが、千の愛の言葉を並べるよりもそれはロマンチックであるというのが僕の価値観だ。生と死で区分された関係は、なによりも不変なのだから。 だからか僕は、特定の人物の死と語り部が直面し懊悩する物語によく焦がれている。 『Demolition』『ドライブ・マイ・カ

          明日は、君がいない

          あの水平に引かれた一線を越えて

          シンクロナイズドスイミングは、 この世にもう存在しないらしい。 などと言うと、ついに気が狂ったかと正気を疑われそうだが、しかしこれは紛うことなき事実である。 2018年4月1日、当時の世界水泳連盟がその名称を変更したのである。四月馬鹿のような本当の話。僕は水泳に熱心な男ではないため、その実情の多くは知らないけど、競技の発展に従って人や曲との同調を意味するSynchronizedがもはや不適当と見なされたのだ。 今は、アーティスティックスイミングと呼ばれている。 そこはか

          あの水平に引かれた一線を越えて

          角砂糖同好会の終焉

          食わず嫌いという言葉がある。 人生において一度だって口にしたことがない物を、その味も分からないのに嫌いだと判じて、死ぬまで口にしてなるものかと決め込む態度や人のことだ。 しかしながらそれは、あくまで言葉の上での正しい意味であり、世間で比喩されるような食わず嫌いの正しい実態とは異なるのではないだろうか。 大抵の場合。 そう言われるような人は人生で一度は”それ”を口にしていて、舌に合わなかったという懐古の印象を引き摺り、勝手に心の中でそう決め込んでいるだけなのである。

          角砂糖同好会の終焉

          罵倒ならパルムの後で

          人間を形作るのは言葉である。 口にした言葉が、引用された語彙が、選び取った単語が、その人の感性の姿形を彫刻していく。 これは経験則として、悪口や汚言を日常使いする人に”本当は良い人”などと自分の認識を改めるようなことを感じたことはないし、人を傷付けようという意志を少しでも帯びさせた言葉や喋り方には拭えない澱みがあるように思う。普遍的な優しさを欠くような、そんな澱み。 優しい人が好きだ。 優しい言葉を使う人が好きだ。 数多くの混沌が蔓延る発火寸前のこんな世界でも、凪いだ海

          罵倒ならパルムの後で

          自分の名前なんか大嫌い

          昨晩。自分の名前を見直す機会があり、徒然とそのことを考えていたのだが、これは珍しいことらしい。 自分の名前が好きか嫌いかを問うとしよう。 僕は即答でYESを示すけれど、大抵の人は挨拶に困り、客観的な眼差しを孕む良い悪いの理由を口にし始める。 古風で嫌、響きが良い、地味で恥ずかしい、字面が格好いい。 僕としてはお前の意見とその意味を聞いてるんだと言いたくもなるが、しかしながら、意見はともかく名前そのものに本来は意味なんてない。 名前に意味を与えるのは他者であり、感情で

          自分の名前なんか大嫌い