自分の名前なんか大嫌い
昨晩。自分の名前を見直す機会があり、徒然とそのことを考えていたのだが、これは珍しいことらしい。
自分の名前が好きか嫌いかを問うとしよう。
僕は即答でYESを示すけれど、大抵の人は挨拶に困り、客観的な眼差しを孕む良い悪いの理由を口にし始める。
古風で嫌、響きが良い、地味で恥ずかしい、字面が格好いい。
僕としてはお前の意見とその意味を聞いてるんだと言いたくもなるが、しかしながら、意見はともかく名前そのものに本来は意味なんてない。
名前に意味を与えるのは他者であり、感情であり、一時の陶酔だ。
おぎゃあおぎゃあと泣き喚いた直後に賜るのが命名。
そこに籠る感情こそ理解しているが、あくまでそれは感情の話で、正しくの意味らしい意味ではない。
そんな御託を並べるものの、”そこにあって当然のもの”に意味を求めるのは野暮だし、それが名前ともなれば気を付けないといけない。
人の名前を好きとか嫌いとか、時として嫌な気分にもなるだろう。
それに、名前は人を傷付けてしまうこともあるのだから。
あれは小学五年生の時の話だ。
僕には好きな女の子がいた。
もう顔の造作は覚えていないけれど、少なくとも特別に可愛かったとかはないと思う。よくいる感じの子。性格も振る舞いも月並みで、これが素敵滅法な浪漫に溢れる恋物語ならば彼女は背景を彩るに違いない。
ただ周囲の女の子と違うところがあったとすれば、年齢に対して音楽の趣味が極めてクールなところだ。
学期末に配られる学級冊子。
その冊子のクラス紹介欄に在籍する生徒達の写真が載っていたのだが、他の女の子が可愛らしい物を片手にポージングする中、彼女はThepillowsのアルバムCDを掲げてにっこりと破顔していた。
彼女のパーソナリティを知ったのはそれが初めてだったけれど、なんだか素敵だと直感したから、僕は彼女が持っていたCDを購入して、親の車内でそれはそれはたくさん聴いた。この盤ならPrimer Bestがお気に入りだ。
彼女と正式に友達になったのは、
その数ヶ月のことである。
彼女はよく音程の合わない歌声でpillowsの曲を歌ってくれて、それは端的に下手くそな歌声だったけれど、僕は笑わなかったし聴き終えた後はちゃんと拍手をする。
同じパンドが好きな僕の為に歌ってくれたのだから、それは誠意として当たり前だ。
やっぱりきみより本物の方が上手いね
と僕が言うと、
それはそうでしょ〜〜?
なんて、自分のことのように照れる彼女。
そんなところも可愛くて好きだった。
名前。
そう、名前である。
僕は彼女と話す時、二人称として”きみ”を多用するばかりで、友人でありながら彼女の名前を呼ぶことはなかった。なんなら好きになるまで眼中になかったので、その名前を忘れていたくらいだ。
じゃあ相手の名前を呼ぶより先に告白しそうな勢いだったのかと言われると、しかしそんなこともなく。たとえば彼女に好きだと言うのは関係を考えれば簡単だったけれど、そこは子供らしい気恥しさが勝って、好意も言えず名前は呼べなかった。
しかしながら僕は愛の証明をしなくてはならない。
この生温んだ友人関係と告白を済ませる間の空白期間に、彼女を介することなく、しかし彼女に対してなにかをすべきだと思ったのである。
ところで僕の在籍していたクラスには、忘れた宿題ひとつにつき400マスの原稿用紙が生徒に一枚渡され、それに好きな漢字を書いて翌日の宿題と共に担任に提出するという罰があった。
ちょうど良いと思った。
これを使おうと決めた。
僕はその日から課された宿題を全てすっぽかして、受け取った原稿用紙のマス目に、彼女の四文字の名前をひたすら書き込むことにした。
鉛筆をガリガリと削り尖らせ、彼女に失礼がないよう漢字の書き順も改め、その時期の放課後のすべての時間をその行為に投じた。近所の友人と遊ぶのをやめて、好きなテレビも見ず、すべきだと思うことをした。
一ヶ月で47枚、文字数にして18800文字、4700回に渡り彼女の名前を書き上げた。
およそ僕は、この世界で彼女の名前を彼女自身の次に数多く書き上げた人類に違いない。
月面着陸を果たしたバズ・オルドリンのように、僕はとても誇らしかった。
しかし間違いの始まりはここからである。
月末にその月に集めた原稿用紙を、ある種 反面教師的にクラスの最奥の黒板に貼り出されることをすっかり忘れていた僕は、ここで盛大な恥を晒すことになった。
400もあるマス目が特定の名前でぎっしりと埋まった原稿用紙はさながらラブレターであり、その右下には僕の名前がデカデカと誇らしそうに記されている。
そんな原稿用紙が47枚も、白日の元に晒されたのだ。
当然ながら僕はからかわれ、その真意を問われたので
ああ!そうだよ!大好きだよバーカ!
と返す他なかった。最悪である。
それから翌日か、一週間後……?
かなりうろ覚えだ。
彼女に東棟の階段下に呼び出され、その場所に向かうと一言では到底形容出来ない複雑な顔付きで、彼女は僕を待っていた。
おっと、もしかして振られるのかな?
どうしよう。もう泣いちゃいそうだった。
おそらく僕の行為とそれを通した好意は知られているはずで、その上で僕を呼び寄せて好意を受け入れようという感じでは少なくともなかった。裁判で懲役を言い渡される罪人の気分だ。あるいは死刑台までの十三階段を登らなくてはならない死刑囚か。
沈黙、沈黙、沈黙。
本来ならば聞こえる昼休みの喧騒からは隔絶された、静かな時間を僕らはしばらく言い訳のように共有した。
私の名前、好きなの?
口火を切った彼女はそんなことを聞いてきた。
好きだよ。自分の名前より。ずっと。
上擦った声で、僕は彼女の目を見て、そう応える。
私はね、自分の名前なんか大嫌い。
話を聞けば──その子の両親は一年と少し前に離婚していて、今の苗字は母方のものであり、見る度に家族がバラバラになったことを思い知るような自分の名前を嫌っていた。
そんなこと言われなければ分かるわけもない。
それに当時の僕は小学生で、そんな繊細な機微を読み取れるかと言えば土台無理な話だろう。
ただそれでも、それは僕だけの理屈だ。
だから────なんで、そんなひどいことをするの。
泣き始めた彼女を前にして、僕は頭が真っ白になって、言葉を失ってしまった。自分の大好きな人が泣く姿を見たのはこれが人生で初めての事だった。
なにをするべきだったろうか。
仮にどんな行動を取っても間違いだったと思うけれど、少なくとも、彼女が泣き止んで自分のクラスに戻っていくまで黙って突っ立っているよりはマシだったはずだ。
それから僕は彼女と一度だって話さなかった。
中学が別だったので今生の別れである。
風の噂で聞いたけれど、今の彼女は外交関係の職に就き、幸せにやってるらしい。願わくば今の彼女が、自分の名前を受け入れていることを祈る。
「いやいや、それはアンタの愛情表現の仕方になんとかちゃんがビビり上がっただけでしょ。怖いよ。なんたる悲劇だね……みたいな面で済ませていいエピソードじゃないでしょうが」
ガラリと私室のユニットバスの扉が鈍い音と共に開いて、小便を終えたらしい彼女ちゃんが口を挟んできた。
口振りを思うと二三発は小突かれるかと思ったが、洗ったばかりの手で僕には触れたくないようで、溜息と共に冷蔵庫から取り出したネクターをこくこくと飲み出す。
別にいい。彼女にかような呆れた様子で、僕の言動を咎められるのは慣れている。
「てかさ。そんなに呼びたいなら呼べばよかったじゃん。名前をさ。素直に。名前を書いて愛を証明するってなに?そんなの伝わんねぇよ。下手な歌を聞いて拍手してる場合じゃないでしょ。さっさと好きって言えよ」
え、やだよ。超恥ずかしいじゃん。
訳のわかんないこと言わないでくれるかな。
「猪口才なガキ〜〜!! お前のやってることのほうがよっぽど恥ずかしいし、ワケわかんないわ!死ね!」
そう喚きながら、飲みきったネクターの缶をゴミ箱に軽快に投げ捨てると、僕の頭のてっぺんを踏み付けるようにして頭上に飛び乗った。彼女は幻覚なので、重さは感じないが、なんとなく煩わしい。
「壊れてるのはこの頭か!おら!おら!」
僕の頭上でタップダンスのような足踏みをする彼女──彼女は僕の良心のメタファーを名乗っている、僕の幻覚である。
十七歳の時に生産した とある黒歴史を契機とし、彼女の姿が見えるようになったが、それから今に至るまでこんな風に幻覚なのに見えなくなるということが一切ない。
傍迷惑な話である。
僕の幻覚なんだから僕にとって都合の良い言動をしていてほしいのだが、だいたい意見が割れるし、口を開けば僕に対する愚痴を投げかけてくる。
「それはアンタが間違えるからでしょうが。もっと良い言い方で私を紹介して。しろ」
彼女は僕の良心を名乗る素敵な幻覚だ。
僕が道を踏み外しそうな時は、船乗りを導く灯台のように、ハスキィな声で正しい道をいつだって示してくれる。
「良きにはからえ!」
満足したようで、僕の頭上から飛び降り部屋の中心にどかっと座り込んで、いそいそと下着を脱ぐと共に彼女は自慰行為を始めた。こうなると二時間はそれに熱中してるので、僕は大人として空気を読んで、部屋の隅に移動して打鍵を続ける。
次第に嬌声の声が大きくなり、すらりと伸びた指で弄る場所も多岐に渡って、着ている服も乱れていくが日常茶飯事である。
僕も人並みに性欲はあるし、女性の全裸半裸を前に興奮しないほど枯れているつもりはないが、今年で七年目の付き合いになる幻覚の全裸に感慨らしい感慨を抱けと言うのはあまりにも酷である。
それに見た目も好みじゃない。
僕はおおよそJ.K.Lカップ程度の乳房を有した女性が好きだし、健康的なふくらかさを有している身体性を好んでいる。それはモデル体型と呼ばれる出で立ちばかりが、人体の美しさを示すわけではないと思っているからだ。
彼女はといえば言動不一致の慎ましさを発揮する胸を携えており、本人談で言えば『Dくらいはある!』と言っていたが、洗濯する時に下着を確認したら普通にBカップだった。すぐバレる嘘を吐かないでほしい。
背丈は僕よりも10cmほど高く、露出度の高い服を好み、ハワイアンブルーというド派手な髪色をしている。髪型は毎日違うのだが、今日はウェーブヘアだった。
それでも彼女からはこう言われている。
「私を人間みたいに扱わないで。人間なんてくだらない。幻覚って最高だわ。幻覚って素敵ね。幻覚こそ正義ね。街中でオナったり、葬式でカラオケしたり、こんなに恵まれた身空で毎日が楽しくて仕方がないわ。まあ、アンタはせいぜい現実でも生きててね」
僕の家で、僕より人間らしい生活を送っている幻覚が言う台詞とは思えないが、まあそういうわけなので彼女の挙動にはそういうものとして慣れることにしている。
「名前も付けないでね。私は私でしかないから、他人に私をどんな形であれ定義されたくないの」
これに関してはシンプルに名前がないと不便なので、本人と色々話し合った結果として、普段は 彼女(かのめ)ちゃんと呼ぶことにしている。
気安く呼ぶと、4回に1回は脛を蹴られるがそれで済むなら別にいい。
「…………ねぇ、彼女ちゃん。彼女ちゃんは僕の名前をどう思う?」
自慰行為に勤しむ彼女の方を見遣って、ふと、聞いてみた。蹴りは飛んでこなかったので3回の方らしい。
自慰行為中に話しかけられたことを不快に思ったのか、大きい舌打ちをして、まあなんというか、一言では到底形容出来ない複雑な顔付きで彼女は言った。
「私がアンタをどう思ってるかと同じだけど」
…………なるほどね、たしかに嫌な気分になる。
2024/7/10 都部京樹
執筆BGM 『Star overhead』/Thepillows
全体プレイリスト⇒
https://open.spotify.com/playlist/4F2A0A5x6T5DZLZXDXuEoB?si=xNFOnHfOQRyMVRDGUtGzTw&pi=a-VmIDln2XTumb